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クリシェを避け、オリジナリティのある方へ

クリシェを避けろ

「クリシェ」という言葉がある。フランス語でclicheと書き、最後の「e」の上に、チョンとなんかつける。「今まで散々使い古された、手垢のついた表現」とここでは訳しておこう。アメリカのドラマ脚本家でプロデューサーでもあるションダ・ライムズがある映像で「クリシェを避けろ」と言っていたので知った言葉だ。「使い古された表現は見たくない。新しいものを見たいのよ私は」と、いうようなことをションダ・ライムズは言っていた。
主人公の女の子が転校初日に朝寝坊して、走って学校へ向かっていると、曲がり角で誰かにゴツンとぶつかる。そして、学校へ行くとその人が同じクラスの生徒だったり、学校の先生だったりする。クリシェ。

「クリシェを避けろ」というアドバイスは、脚本についてのアドバイスだったので、人生や仕事にどうこうという話ではない。でも、「人と同じことをしない(なるべく)」という、ぼくが大事にしている教えに合致したので印象に残った。

コモディティになるな

何年も前に、「コモディティになるな」という教訓をどこかで得た。
「コモディティ」とはブランディングに関する用語で、「ありふれた商品」という意味に訳しておく。他の商品と差別化できなくて、置き換え可能であり、たとえ売れても利益が少ない商品のこと。これを先日亡くなった瀧本哲史さんの本で読んだのかどうか…すでに忘れてしまうくらい前に知った教訓だ。
しかしその教訓を学んだわりに、ぼくはまだコモディティから抜け出ていない状態で、冷静に考えると不安になってくる。でもコモディティレベルで過去の自分とだけ比較するなら、以前よりずっとマシになっている。それは「コモディティになるな」「人と同じことをするな」という教えを守ってきたからだともいえる。そして先日はションダ・ライムズの「クリシェを避けろ」を聞いて、その想いを新たにした。

コモディティとしての私

ぼくはイラストレーターとは別に、モーショングラフィックのディレクションの仕事もしているが、これが見事にコモディティ化している。
ディレクターとして「やるべきことはやっている」が、コモディティにならないように気をつけていることが何もない。だから必然的にコモディティになっている。コモディティとは「言われたことだけをやっている人」のことでもある。

自分がコモディティになっているかどうかは、クライアントからの依頼のされ方で大抵わかる。だから依頼のされ方次第で、自分の中での危機感が増したり、喜んだりする。

ぼくはイラストレーターになる前にライターを少しやっていた。でも、自分がコモディティであることを痛感してやめてしまった。そのときは、どうしたら自分の文体で書く仕事を得られるのか、わからなかった。自分の文体を媒体にあわせて書くのが苦痛でもあった。どうしたら自分の文体で書けるのか。それを考える暇もなかったし、とにかく生活費に困っていた。

また、ぼくがカメラの仕事をしようとして結局やめたのも、どうしたら自分がコモディティから抜け出せるのか見当もつかなかったからだ。うまい人たちの写真を見て、自分がどこへ行くべきか、全く想像ができず、挫折してしまった。そのとき生活には困っていなかったが、早く独立したかった。

コモディティから抜け出す

どんなことであれ、続けることで技術が身について、技術を使いこなしていくと、独自性のポイントに達するのだと思う。そういう意味で、何かをはじめたとき、早々に先を見通したつもりになって諦める必要はないと思う。でも、自分がどこでオリジナリティを発揮するか?は意識しておいたほうが良い。ずっとコモディティとして仕事を続けていくのは、精神的にも体力的にも厳しいものがある。

技術を意識して身につけたり開発すること以外で僕が意識してやっているのは、人とインプットを変えるということだ。単純に、いまは英語の勉強もかねて英語の文章を読むようにしている。日本人が日本語で書いている文章と違う視点が間違いなくある。それを本当に理解できているのかという問題はあるが。
インプットを変えると考えも変わり、考えが変われば行動が変わっていく。ぼくはシンプルにそう思っている。みんなと同じインプットなら、みんなと同じ考えになり、みんなと同じ行動になる。それで得られる安心感は、コモディティと表裏一体である。

イラストレーターとしては、情報の格差で商売をしていないので、情報が最先端かどうかにこだわりはない。むしろ周回遅れの情報も、アイデアのリソースとして価値がある。問題は、クライアントと見ているものが同じなら、思いつくアイデアも似通ってしまうことだ。アイデアが似通ってしまったらクライアントに「お、これはいいですね」と思ってもらえなくなっていく。

コモディティの悲哀と、オリジナリティのめんどくささ

「穴があきそうでしたがあなたのおかげで無事に埋まりました。急ぎの案件なのに安くやってもらっちゃって助かります」と。クライアントはそうコモディティに告げる。その仕事にももちろん価値はあるが、「もう少し安くやりますよ」という人が現れたり、「来月から担当が変わります」となったとき、仕事がなくなる危機が訪れる。

でも、差別化ばかり意識してオリジナリティを追求しても、需要がなくなるところまで行くと、仕事は来ず、自ら動かない限り何も起こらない。
コモディティはその良さを誰にアピールする必要もない。コモディティである所以は、みんながその良さをわかっていることだからだ。みんながわかっているので、みんなが同じことをする。アピールすべきことは、「私のほうが早くて安いです」というくらい。あとは「オレオレオレ」というくらい。一方オリジナリティとは、みんながわかっていないことをやる。時には誰からもその良さを理解されない可能性もある。だからオリジナルを追求するなら、自分の良さを、たとえ面倒でも、アピールする必要がある、ということでもある。

ところで。

ぼくが書いている文章もそうだけど、社会を構成する人たちが「自分がいかに生き延びるか」のサバイバル論ばかり考えていると、社会は殺伐としていく。「自分だけは大丈夫でいたい(他のヤツは知らない)」という気持ちは、人を蹴落とす思想と簡単につながり、どれだけ仕事が順調に行っていても、不安が消えることはない。どうしたら社会全体の不安をなくせるか?のほうを、本当は考えた方が良いと思っている。

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