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ヒトは全ての事情を把握できない

「ルールを守る正しさ」と「正義」は違う。暴走するのは個人的な恨みで、正義は暴走しない。正義はルールをつくる源でもあり、ルールにしばられてしまうものでもある。正義の定義は難しい。正義がなされていないと思うなら、ルールを変えるしかない。ルールつくるのはとにかく大変なので学ぶと良いのでは。という話を書いています。

1.今日の天気だけを見てつくったマイルール

運動する習慣を身につけようと思って、たとえば「毎日30分ジョギングする」という計画を立てる。自分がその計画にちゃんと従うよう、紙にでかでかと「毎日30分、朝ジョギングする」と書いておく。マイルール。

2、3日はうまくいったのに、4日目あたりに雨が降ってジョギングに行けない。そこで「毎日30分ジョギングする」という自分に課したルールに、「雨が降っていない日に限る」と書き加える。最初に計画を立てたときには、雨が降ることを想定していなかったのだ。

もう数日経ったある日、朝目覚めて見ると体が重い。体温を測ってみると、38度…というわけで、運動計画にはさらに「体調が良いときに限る」と書き加えられる。最初に計画を立てたときには、自分が体調を崩すとは思ってもいなかったのだ。

こうやって、人は時とともに経験を積み、人生は自分が思っていたよりも複雑であることを学んでいく。
人はそれぞれ自分なりのルールをいくつも持っており、そのルールで何らかの目的が達成されているのを見ると、そのルールいいね、ということで学んだりする。

2.社内のルールは「ずるい」という感情を生む

会社にも、マイルールと同じような会社のルールがある。
そういうルールは、つくったときは良さそうに思えても、時間が経って、会社に新しい人が入ったり、社会状況が変わるとうまくいかなくなることがある。「来客時には、女子社員がお茶を出す」と決まっていたルールが時代を経て「誰が出しても良い」になり、「随時、誰かがペットボトルの水を買って出す」になり、最終的には「社員ごとに自分で何するか決める」になる。

ルールは常に、時を経ても大丈夫かどうか試されている。ルールを決める人の視野の広さ、状況への認識の深さによって、そのルールが活きる時間の長さは決まる。

スタートアップ企業には「ルールを決める人」しかいないかもしれないが、多くの企業には「ルールを決める人」と「ルールに従うだけの人」がいる。そしてルールに従うだけの人は、そのルールが現状とそぐわないと感じても、ルールを決める意識がなければ、そのままルールに従い続ける。それだけなら日々のちょっとした違和感でしかないのだが、「みんなが従っているはずのルールに従わない人」を見ると、その違和感は「ずるい」という感情に変わる。

そのとき、「だったらもう、ルールを変えよう」と思って行動する人と、「ずるい人を処罰してほしい」と思って行動する人に別れていく。「ルールを守る正しさ」が処罰を生むのではなく、「ルールを守らない奴は許さない」という私怨が処罰を生む。

どんなルールでも、そこから外れる人が出る可能性はある。そういう事態に直面したとき、個人のジョギング計画を気軽に書き換えるのと同じ感覚で、集団のルールを書き換えることはできない。その組織にいる人の合意が必要になってくる。これは学校も同じで、人が多いほど複雑になる。

3.会社より複雑な社会で「みんな」のためのルールをつくる

会社や学校のルールは、社会のルールの中にある。だから社会のルールを超えて、私怨で人を裁いてはいけないことになっている。社会のルールづくりは会社という小さな集団でのルールづくりよりもっと複雑になっている。

社会のみんなのためのルールは法律なり、慣習で決まっているが、もともとのルールは正義がつくる、という説がある。法律が憲法の枠内でつくられているように、憲法は正義の観点でつくられる。

しかし社会情勢は刻々と変化する。晴れた日に立てたジョギング計画が、雨の日を想定していなかったのと同じように、100年前につくったルールが、今日の事態に対応できないことはある。だからこれからルールをつくったり修正する際には、これから起こりうるあらゆることを可能な限り想定しながら立てていく必要がある。なぜそのルールが必要か?の目的も。

社会のためのルールをつくるのは社会にいるみんなで、みんながみんなのためのルールをつくる。いつも得する人がいたり、いつも損する人がいたりして、とても難しい。

あらゆる問題、あらゆる人の事情など、すべてを見通せるのは神さまだけだ。どんな優秀な人でも、すべてを見通すことはできない。

だからこそ社会のルールづくりは慎重にならなければいけない。
社会に関わるあらゆる人の事情を、できる限り、丁寧に聞き取っていく必要がある。そして未来に起こりうることを想定しなければいけない。可能性は無限にあり、可能性を考えていくとAIで話題にもなっているフレーム問題が人間にもある。
でもルールづくりを悠長に待っている暇もない。明日には今日と違うことが起こりうる。

社会のルールは難しく、難しいことを前提にルールづくりが行われているということを、ルールに関わる人すべてが知っておく必要がある。

4.ルールが機能しないと思ったとき、ヒトはどうすべきか?

ところで、「みんな」とは一体だれのことだろう。ルールは、そのルールがどこまで適用されるかを決めないとルールにならないので、必然的に「みんな」の輪に含まれない人の存在を生む。その結果、「みんな」に含まれていない人とどう接するのか?という問題が発生する。

ケガをして苦しんでいる不法移民の子どもと出会った医者。法律には「不法移民は国外退去させる」と書かれているかもしれない。でも、今この瞬間、その子のケガの手当てをすべきかどうか?

こういう瞬間は「ルールが機能していないと思える瞬間」でもある。
みんなでがんばって決めたルールでも、いつか機能していないと思える日が来る。そう思う人は最初は一部で、徐々に増えていく。

5.正義について考える…とは?

自分のためのジョギングルールなら、簡単に「休む」という選択を選べるが、社会のルールが機能していないと感じる瞬間に、どんな選択肢がありうるか。その瞬間に取れる最善の策はなんなのか。人としてどういう行動をとったらいいか?を考えるのが、正義について考えるということだと思う。(正義の定義を巡っては、これまでに多くの学者が論争を繰り広げており、定まったものはない)

ケガをしている不法移民を見たとき、ルールに従って正しさを追求する(国外追放すること)ことと、その人を助けたほうが良いかも(ケガの治療をすること)という気持ちが葛藤する瞬間。ここに正義を考えるヒントがある。

正義の定義よりも大事なのは、ルールが「すべての事情を把握しきれるわけではない」とまず認識すること。言葉で書かれたルールは、すべてを言い表せない。

同時に「自分がすべての事情を把握することも不可能」だと認識すること。ルールが機能していないと感じたとき、何をするかはその人次第だが、その行動が取り返しのつかない事態にならないよう配慮する。

取り返しのつかない事態の最たる例が、人が死ぬことだ。あとから「あ、間違ってました」と気づいても、大丈夫な状況を保つこと。人を死なせない。傷つけるならそれを避ける。

残念ながら、ルールはそのときもルールとして効果を発揮する。人を助けて正義だと感じていても、ルールによって裁かれてしまうことはある。ソクラテスが死刑になったときと同じで、悪法もまた法なり。悪法をどうしたら悪法じゃなくせるか、ソクラテス以来、ずっとルールの調整が続いている。

社会のルールが難しいのは、自分ルールや会社ルールと違って、勝者も敗者も一緒くたになっていることだ。社会のルールは、自分ルールの延長線上にない。

6.ルールが機能しなくなる状況を知っておく

?歴史に学ぶ

人類も数千年生きてきて、ルールが失敗してきた事例にはことかかない。
だから歴史をひもとけば、どんなルールが深刻な事態を生むかはある程度わかる(変数が違うので絶対ではない)。逆に、歴史を知らない人がルールをつくっていくと、歴史の失敗をいとも簡単に繰り返す。

?物語に学ぶ

フィクションは善悪の葛藤が描かれている。子ども向けの物語は、善と悪の対立が描かれていて、現実とそぐわないことが多い。さまざまな人の複雑な事情が絡み合う物語を子どもが読み解くには、大人の解説が必要だったりする。

社会の複雑さを描いた物語では、善と思ったものが悪であり、悪と思ったものが悪になる。そして善悪がブレンドされているのが現実世界。社会のルールの中で生きる人が、ルールから外れた瞬間に出くわす。そこで人はどんなふうに行動したらいいのか。そのヒントを与えてくれる作品はこれまでにたくさんある。パッと思いつくのは、クリント・イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』とドラマの『デスパレートな妻たち』。上に挙げた不法移民のケースは『グレイズ・アナトミー』に出てくるエピソード。

?寝る

寝ないと自分のことで頭がいっぱいになっていく。自分は社会の中のひとりでもあるので、自分のルールづくりだけに邁進してはいけない。会社のことだけ考えていても、社会が崩壊したら意味がない。睡眠不足は、そのことを忘れさせてしまう。だからこそ、何も考えず、まず寝るのが重要なのである。みんながスヤスヤと寝る環境を整えるにはどうしたら良いか?そこにもひとつ、人としてどう生きるか、正義について考えるヒントはあると思う。

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