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だれのための学習?

個人のための学習は、誰かを蹴落とす学習でもある。
この社会が「競争社会」だと認めた上で個人が学習する。学習するからこそ、競争社会を勝ち抜くことができる。豊かな生活ができるようになる。

だがその裏に、多くの屍がいることを忘れてはいけないと思う。
敗者たちが本当に死んでいるならまだ良い。だが、競争社会で敗れても死ぬわけではない。ただゾンビのように街を徘徊することになるだけだ。

「ゾンビが徘徊する街は暮らしにくい」からこそ、ヒトは勉強する必要がある。
1人が生き抜くだけならなんとかなる世の中でも、ゾンビのいない社会をつくるためには、多くの人の協力が必要になる。多くの人が、世の中について理解する必要がある。多くの人が自分以外の他者の存在に気づく必要がある。自分が住んでいない場所への理解、自分とは違う境遇への理解。

自分とは違うなにかを理解するために、ヒトは学習する。それは自分とは違う誰かと共存できる社会をつくるためだ。それははっきり言って、無理な話ではあるが、その無理を少しでも可能に近づけるために、多くの人が学習し、他人の無知を笑わず、助け合う必要がある。
最近、誰も理想の社会を語らない気がする。気のせいなら良いけど、人々の関心は、社会から離れ、どんどん小さく、個人に向かっているように思う。ぼくもその中に含まれている。

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