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「わかりやすさ」の裏側にあるもの

新しいことを勉強しようとして本屋に行き、その分野の棚の前に立つ。入門書をパラパラと眺めてみても、「ここに書かれていることを自分は理解できるんだろうか?」と不安になって、本を棚に戻して帰ってきてしまう。

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イラストレーターとしての「わかりやすいもの」をつくるという意味と、ヒトとして何か新しいことを学んでいくという意味の両方の意味で、「わかりやすさ」とは何か?について、もう少し自分で考えておきたいと思って、ここに考えたことを書いておく。すでに出版されている本を読んだら書いてあることも書いてあるかもしれない。

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自分とって新しいことは、自分がいま持っている知識と結びついていないからこそ理解しにくいものだ。
自分の使える語彙で書かれていなければ、たとえそれが「わかりやすく書かれたもの」であっても、自分にとってはわかりにくいものになる。スワヒリ語で「わかりやすく書かれた本」は、日本語話者のぼくにとっては難しい。

だから「わかりやすい説明」とは、「誰にとってわかりやすいか?」が重要だということになる。「雪国に暮らす人にとってわかりやすい説明」と「南国に暮らす人にとってわかりやすい説明」は全く別物なのだ。

「わかりやすい説明」を考えるときは「わからせる側」の視点で考えるよりも、「わかる側」の視点で考えたほうが良い。山の頂上から見下ろした視点ではなく、山を下から見上げる視点だ。

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わかった!という抽象的かつ興奮した状況は時に残酷で、わかったと思ったものが実はわかっていないというケースは多々ある。わかったと思ったから人に話そうとしたのだが、何から話したらいいかがわからず、出てくるのは断片的な情報ばかり。聞く側も困惑だ。

その残酷な状況についてはまたいずれ考えるとして、今は「わかるときの感覚」についてだけ書く。

「わかった!」と思うとき、人は混沌の中から秩序を見出している。未知の領域は混沌だが、既知の領域は秩序だっている。

「わかりやすい説明」には大きく分けて2パターンあるとぼくは今思いついている。1つは多くの情報を捨てて、1つの道筋を作ってあげること。点と点をあらかじめ結んでおいてあげること。「ストーリーで覚えなければ」とかいうのはこちら側。

で、もう1つのパターンは、未知の領域と既知の領域の重なる部分を指し示すこと。
自分がわかっていることと、新しいことが重なりあうこと。
そのために「わかりやすい説明」には多くの比喩や具体例が記される。
もしかすると、洋書のビジネス本が分厚いのは、具体例を大量に書かないと世界中に広がる多様な読者にとってわかりやすい説明にならないからかもしれない。日本語で日本人のために書かれた本は、日本に生きているというバッググラウンドを共有しているため、それほど多くの具体例を必要とせず、200ページ前後に収まる。

さて、具体例はまさに「具体的な話」という意外にないが、ぼくが考えたいのは比喩のほう。比喩について考えることをぼくは勝手に「比喩学」と名付けている。(もしかすると「メタファー」といったほうが良いのかもしれないけど、「メタファー」は現在のぼくの理解を超えたところにあるため、ここでは比喩と表現している。)
比喩でカバーできる範囲は幅広く、ビジネスにおけるボトルネックを「箱根駅伝で1人がリタイアすること」に例えたり、忙しさを「猫の手も借りたい」と表現したりする。ことわざは比喩の宝庫で、「寝耳に水」「猫に小判」など、古くから語り継がれている教えを比喩にすることでコンパクトにまとめ、後世に伝えることができるようになっている。

伝えたい内容に対して、どんな比喩を持ち出せばわかりやすくなるのか?
その選択肢は膨大にある。わからせたい人が思い浮かべられるものと、わかりたい人が思い浮かべられるもの、が交わるところ。「わかりやすさ」はその接点にある。

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比喩について「さてこれから考えていくぞ」というところだけど、字数が増えてきたので続きはまたいずれ。できれば800字くらいに収めてコンスタントに書きたいところ。


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