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つまらない話

つまらない人の話はつまらない

つまらない人の話はなぜ誰も耳を傾けないのだろう。
つまらない人の話がつまらないのは、聞いている自分と、その人の話との接点を見出せないときだ。「なぜ私は今、この人の話を聞く必要があるんだろう?」と思った瞬間、その人の話はつまらなくなっていく。

たとえばここに安部公房がいて、彼が創作の過程や、世界をどのように見ているかについて話し出したとしても、安部公房を知らず、ユープケッチャも知らず、地図や航空写真に興味も見出せない場合、安部公房はつまらない話をするおじさんに思えてくる。

つまらない人とつまらない話は別物かもしれないが、ともかく、「その話がつまらないかどうか」を判定するのは、本当はすごく難しい。のだが、ぼくも良く、人の話をつまらないと思って耳に蓋をしてしまう。話している人にとっては重要なことで、ぼくがその重要さについて理解できないだけかもしれないのに。

たくさんある情報の中から、瞬時に「詰まる/詰まらない」を見極めていかないと、個人の情報処理能力では捌ききれないほどの情報が氾濫している。それでその瞬時の判断力ばかり上げていくだけなら良自分が話をする側にまわると、自分のやっていることの「詰まらなさ」に耐えられなくなったり、一瞬で人に見定められる悲しさに直面したりする。

一瞬で面白くする方法

先日、料理人である友人が「人が何かを食べて美味しいと感じるのは、美味しいと感じる何かがそこに入っているからだ」というようなことを言っていた。どんなに粗悪な肉を使っていたとしても、最後に焼肉のタレをかければおいしく感じてしまう。「ごはん3杯いけちゃう」料理は、外食店にとっては単純に考えればライス2杯分の売上を生み出し、少量で満足を感じさせる料理は利益を生み出しにくい。端的にいえば、味付けは濃いめのほうが多くの人が満足しやすく、良く売れて、リピーターを生み出す。

「人に美味しいと感じさせてしまうことができるタレ」があるとき、美味しさは料理を評価する軸になり得ない。「料理は美味しければ良い」と思っていたぼくにとって、この話はあまりにも深く、そのときはイマイチついていけなかった。

面白さのタレを使うメディア

ハリウッド映画が飽きずに2時間観られるのは、そこに人を飽きさせない何かが入れられているからかもしれない。いや、まだ映画はそこまで行っていないかもしれない。映画を観た次の日に「今日もまた映画観ようよ」とはなりにくいからだ。むしろドラマのほうが、人を飽きさせないタレを多めに入れやすい。要するにテレビ的なもの。SNSも。ギャンブルに近いかたちで「たまに面白い話があるからやめられない」。

つまらない、つまらない、面白い!
つまらない、つまらない、つまらない、うーん、ん?面白い!
面白い、面白い、えー!ふむふむ、うーん、ふむ、えー!面白い!

面白さにドップリ浸かるツケ

さて、先日また別のところで、ゲーム依存症の話を聞いた。ゲームは面白く作られている。長く継続的にプレイしてもらうための叡智がそこに詰め込まれている。だからこそその叡智は本になり、「体験」を軸に物事を考える人に読まれるようになる。だけどその叡智が金銭的な利益を生む一方で、ゲーム依存症を生み出すのだとすれば、それは「...」を売るのと変わらないのではないだろうか。

本当は面白くないのに、面白いと思わせるタレ。
本当は美味しくないのに、美味しいと思わさせる魔法の粉。
そういうものを使わないで商売を続けるのは難しい。だからこそ、そういう魔法を学び続ける必要があるんだけど、それを自分や自分の家族、仲間が摂取する可能性があり、いつか依存してしまうことも忘れてはいけないことだ。

今年の夏、デンマークのデザインスクール「CIID」のサマースクールで「ストーリーテリング」について学んだ(正確にはStorytelling Strategies & Techniques)。そこで最後に先生が言っていたのは、ストーリーはフェイクニュースにも使えるという警句。たとえウソでも、優れたストーリーテラーは「それを信じるに値するもの」に調理する。ストーリーは、悪用される危険性が常にある。

依存症とウソ。面白くしたり、美味しくしたりするメソッドが、時に自分たちを蝕んでしまうのだとすれば、モノをつくったり読んだりするときには、もっと別の評価軸が必要かもしれない。でもそれはたぶんあまり儲からない。それでも良いかどうか。

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