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駆け抜ける蒼燕 101-00003

トラウムなごや10号の男#3 

 電車が動いている時間に出社するわけだから、24時間のうち誰かが働いている会社に誰が行こうがどうだろうが、あまり関心を持たれることはない。うっかりしていれば深夜帯で働く連中が退勤し始めるのも珍しくないタイミングである。
 今日の担当は午後からだから、準備を含めて3時間前くらいには会社に居ればいいかなとは思っている。ただ、長らくの癖は抜けず、できるだけ安心したいのは時間を売り物をしている仕事が来るものだろうか。
 今日は余計に、昨日の業務の整理にも時間を割くこともあろうかと、いつも以上に早めに仕事を進めておきたかった。そのためにもバスの中でもパソコンを立ち上げてみたのだったが、うっかり仕事は進めることができなかった。短めの睡眠には慣れっこだとは言っても、バスの中で寝るというのは多少ならずとも勝手が違うものだ。やはり少し眠たさは残ってしまう。昼食前に少し目をつむれば多少は良いだろうかとは思っているが、机に向かっても少しならずともぼんやりしてしまう。
 「眠そうだねえ」と低くウェットな声が話しかけてきた。ああ、と気を取り直して声の方向に振り向く。定時ニュースを終えた大堀課長がフロアの片隅にあるニュース読みブースから出てきたところだった。
「まあ、無理もないか。昨日は名古屋だったからね。何なら今日も矢吹君ネタでも話すのかい?」
 矢吹の話は、金曜昼の番組でアイコンのように使っている。奴には申し訳ないのだが番組の中では愛すべく仕方のない男として、キャラクターを立たせてもらっている。馬鹿みたいにネギを盛ったうどんを食べる話や、キャベツの芯を切ろうとして指を切る話…。奴の間の抜けたようなキャラクターは虚構ではないが東京ローカルの番組での盛り上がりについては詳しくは知ろうともせず、そしてありがたいことに意に介していないようだ。
 ただ、今日は矢吹を含めいい話をしたいんですよね…と返そうとしたが、大堀課長はすうっと姿を消していた。
              ◇ ◇ ◇
 金曜日の仕事は、昼休み中の1時間番組から始まり、その後は大堀課長の定時ニュースを引き継ぎながら合間に事務仕事をする日だ。金曜日のくせに華々しさの欠片もないようにも思えるが、昼の1時間は我ながら勝負と思っている。この時間に合わせて食事をする間、せめて笑って過ごせればという思いはある。ましてや金曜日、半日笑って過ごしたら週末の空気も近づいてくる。
 こうして何気なく週末を迎えるような顔をしているが、その裏側には距離と時間の帳面尻を合わせるかのように奔走する姿もある。睡魔に誘われて微睡む隣には、無数のヘッドランプが先を競うように急ぐ姿が見えていた。新幹線に乗り遅れるまで飲み続けたこと、その失敗をリカバリーするために知恵を使ってバスに乗せてくれた矢吹の機転、事故で遅れたバスの時間を気にする自分を落ち着かせるかのように対応してくれた運転士の高岡助役。そして、横転していたトラックの運転手は無事だったのだろうか…。
 こうして昼間に過ごしていることの裏側で、社会を止めないように深夜の大動脈を往来する車。自分がこのことを喋る間には、ハンドルを握っていた人たちは束の間の休息どころか深い眠りについていてほしいとも願っている。時計は大河のように流れるもののはずだが現代ではピンポイントで動き、その遅れを全く許容しないことのほうが多い。夜通し走る車を見て、時計通りにバスが動きそうにないことに不安と不満を覚えた自分を顧みたら、なんと小さなことだろうとも思った。
             ◇ ◇ ◇
 放送を終えたスタジオを出れば、いつもの午後の風景が広がっている。ここから夕方までは4時間、1時間ごとの定時運転でニュースを入れていく。文字通り何もなければ何事もないのだが、大きな事件が入れば仕事の流れもおのずと変わっていく。ハンドルとマイクの違いはあるが、時間に正確でありたい姿勢と、その時間が崩れた場合への当意即妙な動き。その矛盾にも見える両面性を踏まえた時間が進んでいく。
 昼食の時間は30分しかない。食べ終えたら大堀課長と交代してブースを守らなくてはならない。この慌ただしさにばかり流されてはいけないとは思いながら、出社前に買い求めたたまごサンドを齧りコーヒーを流し込む。交代5分前にはブースの前に構え、時間通りに交代をする。このルーチンを崩さないのを知ってか知らずか、交代待ちの5分でなんとなく引継ぎをするのが常だ。
「今日の話は良かったねえ」と、大堀課長がふと呟いた。彼も若いころに名古屋から夜通し帰る羽目になったときに、みどりの窓口でバスを勧められて乗ったことがあると話していた。同じようにバスは遅れ、不安そうに運転士に話もし、でも答えてくれた時間には正確だったと。思わず「プロって凄いですね」と口に出したら、ただニヤリと笑っていた運転士の顔は今でもふと思い出すそうだ。
「あ…」。大堀課長が何か思い出したように、自分を見た。
「俺が乗ったバスの運転士、矢吹さんって人だったぞ…」

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