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駆け抜ける蒼燕 101-00001

トラウムなごや10号の男

 今日は軽く失敗をした。そして、初めて2階建バスなんかに乗っている。名古屋で少し時間が出来たからと、うっかり矢吹にメッセージを送るんじゃなかった。なんていえば叱られるだろうが。
 矢吹は気の良い男で、どんなに忙しそうにしていても顔を出してくれる。少しだけ飲むかと言って長々となってしまっても最後まで付き合ってくれるし、飲みすぎて死にそうになっても他事を横に置いて介抱してくれる。いや、その逆は何度もあったように思うが。
 暫く沙汰もなく過ごしていたせいか、今日は時間をすっかり忘れていた。東京行き最終ののぞみ号を逃してしまい頭の中が白くなってしまったが、矢吹の奴は相変わらず落ち着き払うどころかニヤニヤしていた。事も無げにしている様子が頭に来そうになるが、悠然と駅に向かう背中を追いかけ、見慣れた新幹線口に着いた。
 そのまま駅の中に入ると思ったら、その手前にある建物に入り窓口で何か話していた。追いついて訳を聞くか聞かないかのうちにここで財布を出せと言われ訳の分からないうちに金を払うやいなや、「このバス乗ってけ」とチケットを渡された。
「いいシートの便が残ってたよ」とあっけらかんと話す矢吹は、閉店間際のキヨスクに立ち寄りお茶を2本買って俺に差し出した。相変わらず動きの速さに負けてしまう。そして「寝てても明日の朝の仕事に間に合うよな」と、そこまで考えている心配りには、頭を下げるしかない。
              ◇ ◇ ◇
 道中、ほとんどを夢の中で過ごしていた。少しだけ現実に戻されそうになった瞬間はあったが、今の状況は呑み込めていない。休憩時間はあるとは聞いてはいたが、どうも今ここはそこではなさそうだ。カーテンのある席から差し込む光は駐車場の雰囲気ではないことに気づかされているが、ここはどこかを飲み込むには少し時間を要した。動き出したバスが左右にスラロームを切る動きをし、徐々に加速をかける様子から、立ち往生していたと察しがついた。ただ、いつの間にか眠っていたようで、バスがサービスエリアに入ったことを確認したのは、1階のドアが開いて外の音と混ざりあう雑音が聞こえてきた時だった。とりあえず用を足しに外に出ると、とても寒い。この寒さからここが足柄だと気づき時計を見ると、4時40分を指していた。
「そういえば途中でバスが停まっていたようですけれど、遅れは戻りますかね?」
 途中でバスが停まっていたことを思い出した俺は、タイヤを止めるボルトを点検していた運転士に声をかけた。乗車する時と違う運転士のようだったが、周りを見回しても運転士らしき人はほかに見当たらない。彼は少し思案顔で25分から30分の遅れと言い、もしも急いでいるならば霞ヶ関のバス停で下車する方法もあることを提案してくれた。
 軽く頭をよぎったのは、明朝からの仕事だ。ありがたいことに運転士がたまたま空いている1階の席を案内してくれた。俺はありがたく1階に動き、パソコンを開いて仕事をすることとした。
              ◇ ◇ ◇
 1階の座席に降りてきただけなのに、座り心地や挙動がまるで違った。重心が低いところにあるだけで、感じる案転換の違いに驚かされる。2列に並びある分ゆったりと席に座り、タブレットに取り付けた簡単なキーボードを叩きながら車体後方にあるエンジンの音を耳にしていた。
 長い下り坂を細かに回転数を探りながら降りていく。カーブや傾斜が決して単調でないにも関わらず、一定の速度を保ち走っている。幾つかカーブも曲がっているはずだが、よほど気にかけていない限りは気づかずに過ぎているだろう。不意に仕事が気になって目が覚めた俺みたいな奴でない限り、乗客は夢の中にいるはずの時間だ。エンジンの鳴り方ひとつ、カーブの曲がり方ひとつ、ブレーキの踏み方だけでも目は覚める。雑味のある振る舞いひとつ許容しない様なプレッシャーをも感じる時間を刻んでいるかのように、繊細な時間が過ぎていった。
 いつしか自分の耳がエンジン音を聞き入っていることに気付いた。ディーゼルの大排気量エンジン音は重厚で力強い。ラグビーのスクラムを押し出すような強さに魅入られていた。こうして耳に入る音を噛みしめてみるのも心地よいものだ。気楽に寝て到着を待つも良いが、運転士が神経を集中させながら進める様子を、こうして音から感じることも悪くはない。取材用のスマートフォンを立ち上げ、録音アプリを起動させる。エンジンの音、タイヤの回転から生まれるロードノイズ、少し揺れる時に生まれる車体の軋み音。耳を澄ますごとに無機物であろうバスというものに生命が吹き込まれたかのように、少しずつ眠気も誘い出してくる。仕事は進めようと思ったが、まあ、いいか…。
              ◇ ◇ ◇
 車内放送の声に起こされたのは、ちょうど霞ヶ関バス停への停車を告げる頃だった。時計を見たら6時と少し回ったくらいか。カーテンから顔をひょいと出して見えたのは赤坂見附のカーブ。あと少しで霞ヶ関だ。
 少し遅れていたが、8時より前には会社に行けそうだ。風呂は申し訳ないが宿直室のシャワーを借りるとしよう。着替えは会社にあるやつを使えばいい。出張の荷物をほどくのは夜にお預けになってしまったが、これは仕方ないと割り切ろう。
 車体後部の乗降口からバスを出ると、運転士がトランクの荷物を出し前の客に渡すところだった。無事に霞ヶ関に着いたことに感謝しながらここから会社を目指すことにしたと伝えたら、忙しそうな手を止めて微笑んでくれた。その胸に光る名札には「静岡支店 助役 高岡」と書いてあった。助役という仕事がどういうものかふと想像できないが、とても丁寧な運転と物腰は相当なベテランなのだろう。彼の「お気をつけて」の声を聞きながら動き出しかけた霞ヶ関の朝の歩道を、少し早めのステップで地下鉄に向かった。
 夢の中から飛び出した朝は、もう始まっている。


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