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太田市美術館・図書館「ことばをながめる、ことばとあるく ーー詩と歌のある風景」

「呼吸を取り戻すだけでなく、言葉が自ら呼吸をするような、作品群が現れています。」
「壁を這うように言葉たちは蠢き、自分たちがその大きさを決めていったかのように変化している」

太田市美術館・図書館で10月21日まで行われている本と美術の展覧会vol.2
「ことばをながめる、ことばとあるく——詩と歌のある風景」

1階展示室 最果タヒ/佐々木俊・祖父江慎・服部一成 らによる詩とグラフィックデザインの展示の、最果タヒさんの展示あとがきの一部である。
展示はさらに2階 管啓次郎/佐々木愛 による詩と絵画の展示、そして3階 大槻三好・大槻松枝/惣田紗希 による短歌とイラストレーションという構成となっている。
今回は詩とグラフィックデザインの展示を制作したグラフィックデザイナー3人の鼎談を聞き、詩とは何か、創作とは、そして仕事とは何か、というような事を考えたので、展示内容にはあまり触れずに書き留めて置こうと思う。(多少展示内容に触れても、展示自体から得るものは絶対にあの空間を見ないと伝わらないと思うのでぜひ見に行ってほしい。)

鼎談「詩とグラフィック」

鼎談では、佐々木俊さん・祖父江慎さん・服部一成さんら3人それぞれが「詩を外に持ち出す」ことについてどのように考えたのか、という事が語られていた。
簡単に書くと、
佐々木俊さんは、街中に当たり前のように存在する標識や看板といったものに注目し「詩の看板があってもいいんじゃないか」という視点で今回の作品を制作した。
佐々木さんがブックデザインを手がけた最果さんの詩集「死んでしまう系のぼくらに」や「夜空はいつでも最高密度の青色だ」の装丁のようなビビッドなグラフィックが文字と同列にレイアウトされていることにより、文字が模様化されていることが面白いと思った。
それは文字がそのままむき出しになっているよりもむしろ服を着たような状態になっていると言ったらよいだろうか。

▲死んでしまう系のぼくらに(最果タヒ/リトルモア)

▲夜空はいつでも最高密度の青色だ(最果タヒ/リトルモア)

祖父江慎さんはとにかく物事を考える上で本当に豊かな視点を持っていて、様々な方法で言葉を定着させるその幅を見せるような作品群だった。鼎談の中で、「僕は言葉=定着だと思っていて、言葉というのは目に見えないだけで、文字や音に定着させるから気付くことができる」と言っていたのがとても印象的だった。

服部一成さんの作品はポスター形式で、詩の内容に合わせてグラフィックを作るのではなく、それぞれという関係性でやりたいというこだわりがあったと語っている。悲しい場面で悲しい音楽をかける野暮さみたいな風にはしたくないという意識についてもなるほどと思った。

言葉が自ら呼吸をすること

しばらく「言葉は目には見えなくて、文字や声に定着させることで気付くことができる」ということについて考えた。
言葉は、57577に定着させれば短歌となるし、絵や音楽に定着させることもできる。
何かで表現するということは、空気のように漂っている言葉に気付くことであり、気付きを与えることなんだ。

音楽や絵に定着させるということには特別な技術や知識が紐付いていて、それらの知識や技術量のすごさが、創作を通して伝えられるメッセージを置き去りにして評価されることもままある。私はしばしばそれをもったいないなとも思う。
それに対して詩は、知識や技術によるごまかしが効かない正直な創作であるように思う。(もちろんほかの創作活動が正直でないという訳ではなくて)
生活の中の愛や、自身の心象、外の世界の移ろい。まだ外の世界にふわふわ漂っていた言葉になる前の言葉を見つけて摑まえること。
これらと一番距離の近い創作である、と思った。

仕事と創作

最果さんは、詩が呼吸を取り戻すのではなく詩そのものが呼吸をしているような空間であったというような事を書いていた。
私も今回の展示を見て、そういった新しい気付きを与えてくれるデザインの大きな力を感じた。
グラフィックデザイナーの仕事ってこういうことなのか!と思った。

※ここからはちょっと話がそれて自分と仕事の話になってしまうので、ざっと読みたい方は次の見出しに飛んで下さい。

私は人の思いやサービス、アイデアの伝え方、人と人の間に介在するもののあり方を考える仕事をしている。
それらに対して自分はどういった立場であるべきかとか、仕事ってなんなのか、創作ってなんなのかとかについて考えていて、上司であり勝手に師匠みたいに思っている人が言っていた「仕事の時代が終わった」という言葉とか、「個としての立脚」「人と人の間にしか仕事は生まれない」というような言葉についても考えていた。

仕事については、収入や地位やブランド力 事業としての成功 という点が取り沙汰されるような時代が終わったという意味だと私は思っている。
インターネットの技術が進歩し、ツールが使えるということだけで重宝された時代はすっかり終わり、オープンソース化され、「誰でもできること」が当たり前の時代にほとんど移行した。
しかしだからこそ物事の本質が浮き彫りになり、技術や知識だけでごまかしの効かない、嘘や作為の暴かれる時代に差し掛かっているように思う。

言葉と切り離された技術や知識の時代が終わる。

なにかを通して新しい世界の眺め方や価値観を与えること。
わたしはそうして世界をより良い方向へ導くことが出来る影響力を持つ人にこそ憧れる。

自分の中の言葉に対して ーーその定着に対してーー、そしてその言葉を言葉として成立させてくれる他人に対して、どれだけ誠実であるのかとか。
それを伝える私たちは、こちら側とあちら側に対して、世の中に対してどれだけ誠実でいられるのかとか。
自分のメッセージを伝える人と、誰かのメッセージを伝えたり増幅させる人がいて、未来の世界ではこの前者が「創作」として、後者が「仕事」としての定義になるといいなと思う。


さいごに

冒頭にも書いたが、この展示は解説などをいくら読んでも絶対にわかった気になることができない。

なぜならこの展示自体が「詩」というものを普段目にするような本の上の文字や声といった媒体から解放するものだからであり、それゆえに観る人や環境による変化がより拡がるものだからである。
そもそも詩はそういった変化を許容するものではあるけれど、共通認識である文字や言葉のフォーマットに収められている詩と、この展示のように詩そのものが生きているように、自分の置かれる場所やアクセントや形や色彩を選んで並んでいるものとは全く違うもののように思う。

あとあまり触れなかったが、3階展示室の惣田紗季さんのイラストレーションと、彼女がセレクトした大槻三好さん・大槻松枝さんの短歌の展示では思わず涙が出てしまった。心の中で密かにしている人生の苦悩や喜びや愛、きっと二人の間では言葉ではない何かを通して知っていたような感覚が短歌の中に込められていて、むしろあれで泣かない人いるのかよう、と思ってしまった。見て下さい。

また、2階展示室の管啓次郎さんと佐々木愛さんの展示は、二人が2009年より行っている「WALKING」というプロジェクトの一貫として、太田市美術館のある太田市を歩いて見つけた言葉と絵の展示だ。かねてより見ていた佐々木愛さんの絵の深い青や柔らかい色彩は生で観るとやはり全然違っていた。9月8日には対談「歩けば見つかるもの」、そして10月6日には定員10名の太田市を散策するイベントもあるようなのでぜひチェックしてみてほしい。

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本と美術の展覧会vol.2
「ことばをながめる、ことばとあるく——詩と歌のある風景」

2018年8月7日(火)~2018年10月21日(日)

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