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なんでマンガ描いてるかわからなくなってきたので3年間を振り返ってみた。

はじめに。なんで3年間を振り返るのか


私やじまけんじ、6月の終わりに東京から福岡県の糸島市のはじっこに引っ越してきました。壮大な自然や自然と暮らす人たちの知恵やたくましさに触れて、価値観が揺さぶられまくったせいか、やじまは今、

なんでマンガを描くのか、
何のために描くのかわからなくなっていますw

例えるなら砂漠で生きてきてとにかく毎日水を集めるために必死だったのに、急に山の中に来たらコンコンと湧き出る水を得てしまい、水を集めなくて良くなってしまってどうしたらいいか呆然としている。そういう感じじゃないかと思っています。

そんなときにちょうど、コルクフェスという僕の所属するコルクスタジオで開催するイベントに出ることになり、その中で「3年間を自分のマンガで振り返る」という企画があがったので

「なんのためにマンガを描くのか?」

を探るために振り返ってみようと思います。

ただ、この3年間を振り返るために、前提としてやじま自身の人生も振り返っておこうと思います。

そこはいいよ、という方は、長いので3年前のところから読んでください。

2019年までのやじまけんじ

キレやすい学生時代とフリーター時代

ぼくはある時から、自分の感情や好きなものがわからなくなっていた。元々は感情大爆発ですぐにキレる子だった。
例えばタクシーの横を通ったときにドアが開いてぶつかり、「いてえなコラ!」と足で閉め返すようなやつだった。ひどい。

だけども、そういう感情問題が原因で彼女と別れた時にふと、「感情に揺さぶられるの疲れたな、いろんなことがどうでもいいな」と思って、

突如丸坊主にして屋久島にいき崖で野糞をして海に向かって射精をし、ノーパンで原付に乗って煩悩を捨てた気になって帰ってきた。

以来、菩薩のように穏やかに生きたいと思って感情に蓋をしてきたのだった。

ただ、蓋をしていただけで感情自体はあるわけで、人間関係や仕事のひどさに我慢できなくなると辞め、の繰り返しで15以上のアルバイトを転々としてきた。(深夜のビデオ屋、釣具屋、皿洗い、スーパーのレジ、映像流通の営業、AVのイベントの設営と進行、ヴィレ●ァン、ブック●フ、コールセンター、書店員、CG学校の講師アシスタント、イラストレータのアシスタント、などなど…)

その10年にわたるフリーター生活に心底うんざりして、2017年頃、就職しようと借金をしてCG学校に通い始めた。

CG学校での挫折と毎日マンガのスタート

しかし、全くの劣等生で、CGスキルも身につかず楽しさも感じられず、もちろん就職は出来なかった。ただ、その時に唯一楽しかったのはチームで制作した絵コンテだった。それで、やはり、漫画しかない。と思ってとにかく描こうと思って始めたのだった。

それで、ちょっとは絵が描ける自分は「簡単な絵ならおれの方が上手く描けるかもしれん」と思ってゆるキャラみたいのなら描けると思い、かけもちで書店で働いていたので、くまが書店で働く4コマを毎日更新し始めたのだった。

だから当時はこれが好き、というよりはSNSでバズりそうなものをやろう、と思っていた。
大変失礼な話だが、キューライス氏の「ネコノヒー」を見つけて『こういうのなら描けそう』と4コマを始めた。(実際はキューライス氏は独特の感性をゆるキャラに落とし込んでいてさらに何年も描き続けており、今では真似できないことをしてると思っている)

つのだふむを知り、そして佐渡島庸平を知る。

ちょうどそのころ、こちらの記事で一緒に紹介されたことでつのだふむを知る。

そのマンガに辛辣なコメントをする佐渡島さんを見つけて「この編集さん、本当に正直でいいなあ、俺もこういう風に言ってもらいたい」と思ったのがコルクを知ってコルクブックスに投稿を始めたきっかけだった。当時は佐渡島さんのことも全く知らず、ふむさんへのコメントだけでいいなあ、と思ったのだった。


初のバズりとコルクへの所属


だんだんと4コマでは描けない話を描きたくなり、さらにバズるためには「何かコンセプトとかわかりやすい設定がいるな」と思い至り、人間の言葉をしゃべっている、ということをメタに解釈して「人間と動物の通訳をする」という話を描いた。

このマンガがバズったことで、コミチ(当時はコルクブックスという名前だった)のマンディさんに声を掛けられ、コルクでやるオフラインのイベントに参加してコルクに関わるようになったのだった。

その後2018年から本格的にコルクの専属になり、クラファンをやったり

大成功です。

連載の準備をしたりして順風満帆に感じていた。そして、3年前の2019年に初めての週間連載が始まる。



3年前ー2019年のやじまけんじ


この年にLINEマンガ版のコッペ君、を連載した。

同時にフェリシモでの猫のおふくちゃんの8コマ漫画を描いており、このときの仕事はこの2つだけ。

実はコルク所属前から始めていた猫のおふくちゃん

猫のおふくちゃんはコルクの専属になる前から受けていた仕事で、コルクにはいった時に契約などを見直して交渉してもらったりした。

3年前はちょうど、おふくの最終回まで友だちとして登場する「コルくん」というキャラクターが登場する回を描いた頃でした。もう3年前!



今見ると、なんのこっちゃよくわからない話ではある。

たぶん、猫見知りのコルくんは最初警戒したけども自分の帽子を褒められたことでちょっとだけおふくに心を許した、ということなんだろう。

無意識の中に享楽的なものが少し混じっていた。


この時は感情よりも「出来事」でマンガを描こうとしているように見える。出来事はネタ、やアイディアと言い換えてもいい。今はマンガを描くときは感情から描こうと意識している。だから現在からの目線で見ると「この時に比べて成長した」「上手くなった」と言いたくなってしまう。

だけど、その反面、無意識で描かれたものの中にはスキル的に表現できていないけども、何か直感的に好きなものが入っているかもしれないとも思う。

それで、絵をよくみると、背景にはレシートが貼ったボードや、ラッピングされたような袋など、何か執着を感じる。こういう時の頭の中を考えると、具体的な場所や記憶が思い出される。昔済んでいた家の近くにあったケーキ屋の予約票や、働いていた書店の事務所、そういうものを思い出して、描いている。その「記憶の中の知っているものを再現する」こと、そこには、今にも通じる享楽的なものがある気がした。



初めての連載、「コッペくん」

次に「コッペくん」。これはもともと描いていたコッペくんというキャラクターを、前田デザイン室の前田さんにデザインしてもらったキャラで始めた連載だった。

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それではLINEマンガ版のコッペくん、第2話の冒頭を見てみよう。


小さい等身のキャラクター、小物にちょっぴり描きこんである感じ…おそらく、鳥山明にあこがれていたようだ、、、

演出という概念がなく、キャラが喋らされていた。トライはエライ

会話はキャラクターというよりは作者であるやじまがしゃべっているような、そんな印象をうける。言わせている、感がある。

技術的にいうと、特に気になったのは、コマ割りや構図に演出がされていないこと。ここでいう演出というのは、セリフを読まなくても「そのシーンの伝えようとしている印象が伝わる」ことだと思う。怖いシーンや怒ってるシーンでは、セリフを読まなくても「怒ってる」とか「怖い」と伝わるのがいい演出だと思う。

なぜなら、マンガは印象ではなく言葉でわからせられると、「読まされている」と感じる。いまやじまが良いと思うマンガは「文字を読まなくてもシーンの印象がわかる」マンガだ。

(ただ、良いマンガではなくても好きなマンガはある。)


さらにフォルダをみると設定資料のようなものも毎話作っていた。


やりたいことはうっすらあったのだが、自分が何のどういうところを好きなのかがよくわかっていなかった。

糸島のはじっこの自然がボーボーのところに引っ越してきた今では、自然や田舎の家、動物、装備へのリアリティのなさが、かなりわかる。

あれやりたい、というトライは良かった。

ただ、情報の集め方と観察、さらに絵に落とし込む詰めが甘かったのではないかと思う。

当時はあらゆる面で、編集者である佐渡島さんの「合格」をもらおうとしていた。だけれども本当は「自分がこうしたい」という狙いが必要だったのだ。

今、これを描きながら、もう一度自分なりの狙いを持って、こういうものを描いてみても楽しいかもしれないと思った。



1年前ー2021年


コッペくんの連載が半年ほどで打ち切りになり、その代わりにお化けと風鈴をメインに企業案件や他の案件のサンプルなどを描きまくっていた頃だ。そして日蓮のマンガの描き下ろし。「とにかく量を描いてなんぼ」という思考の肉食系漫画家だった笑

キャラクターの演技に対して意識が芽生え始めた、お化けと風鈴


1年前に描いていたお化けと風鈴の25話。冒頭を見てみよう


不気味にしたい?それならこの構図は正解だろうか?
エグいシーンであるのはわかるが、このキャラをどう見せたいのだろう?
このキャラはこの笑い方だろうか?
つんつん、とするなら、もっと茶目っ気のある演技でも良い。まるで珍しい虫を突くような。
今なら、指を描かない。血がついているという情報以外の要素が少ないから。
ここも、もっと違う演技な気がする
今描くなら、去って言った後に天罰、と倒れた彼を見せるかもしれない。


キャラクターの演技に対しては意識が生まれてきていると思う。ただ、やはり「印象」が演出できていない。「殺した生徒の脳みそを舐めて血文字を描く」という出来事に依存しており、このシーンをどういう印象にしたいかが考えられていなかった。

今描くのなら、このシーンをどういう印象に見せたいのかを話し合って決めるだろう。


仕上げの概念を教わった日蓮


この頃もう一つ並行して動いていたのが「日蓮降誕800年プロジェクト」で描いた日蓮のマンガ『あなたは尊い』だ。

締め切りまでラスト数ヶ月になってやっと動き出して本当にいろんな人に助けてもらった原稿だった。

特に好きな5話をみてみる


初めて、書籍用の原稿データを作った。今まではネットで配信するために描いていたが、これは最初から本にする前提だった。

仕上げの概念を持っていなかったので、ごとうさんをはじめネームタンクの講師さんら8人がかりで仕上げてもらったのだった。

特にごとうさんは、やじまが「もうこれくらいで大丈夫ですから、、」と止めるくらい『もうちょとここ直そう』と最後まで仕上げに対して粘る姿勢を教えてくれた。

自分の線画だけの絵に修正やベタを入れ、トーンをかけてくれる、その工程を目の前で見れて、絵をどうやって商品に見える仕上げにしていくのかがわかった。

こうやってみると、マンガのための絵ではなく、頭にイメージした立体を表現しようとして絵を描いているように思える。やじまは、その、頭にイメージしたレイアウトを再現することがとても楽しいと感じているようだ。
(ここでうレイアウトはアニメの画面レイアウトの意味ではなくて物体の配置などのこと)

マンガで描くその場所の立体感、立ち位置や質感を想像するのは大事で、描こうとする世界に入りこむような意識が必要だと思うが、仕上げというのは、それと同時に『四角く切られた画面の外からの見え方』を意識することなんじゃないかと思った。



現在ー2022年


そして現在…お化けと風鈴の75話の冒頭。

今のネームを見ると、1年前のネームよりシンプルになっている気がする。最近よく考えているのは構図に意図があるかどうか

特別な意図がない場合はシンプルな構図にしている。

例えば僕は、お化けと風鈴ではあまり俯瞰を使わないようにしている。理由は不完というのは状況を眺める「メタな」視点になってしまうからだ。

よくチームで話すのは「馬鹿馬鹿しいことを本気でやる」ということ。お化けと風鈴はボーリング玉で頭で殴って脳みそを出したり、地縛霊の犬と主婦が怨霊と戦ったりするとんでもない内容なのだが、それをホリプーとわくまるさんの画力でしっかりと描く。すると「真顔で冗談を言う人」みたいな味わいの面白さが出るのだ。

だから、ネームでのカメラワークもリアリティを感じられるように、トリッキーではない、地に着いた構図を意識している。(ただしバトル回は動きがあった方が面白いのでいつもよりしっかり動かす)



難所、ゲラバグ


ひょんなことからゲラバグというよしもとの芸人を昆虫的なキャラにする企画の線画を担当することになった。

キャラクターのサンプル画↓

東野さんのキャラクター
かまいたちの山内さんのキャラクター

今んところ、しんどい

正直、最初からかなりしんどかった。線画という工程を楽しむ心を、やじまは持っていないのだと思った。

しかしそれも描き方の問題がひとつあり、キャラクターのデザイン画を見ながら描いていたから楽しくないのだと気づき、造形を覚えてから描くようにしたら多少楽しくなった。

でも今また、一向に筆が進まない。
例えばこの芸人さんは演技がちがう、と言われても全く直したい気が起きない笑

「なんにでも楽しさを見つけられる」
「ネームのスキルを上げるためには次の工程を経験した方が解像度が上がる」
「できてないから楽しくないだけ」
「楽しくない、という判断を決めつけてしまっているだけ」

そう、理屈では理解できるのだけど。良さを知らないだけで、味わい方を知ったらスカトロもいけるでしょ?みたいな状態に感じている。
そこまでじゃないか笑

でも一定、絵を描く人には自分の享楽的な部分を刺激するモチーフがあるのだと思う。それがこの作品には薄いとは感じている。作業として出来なくはない、というレベルに今は止まっているので、自分から締め切りを切りに行ったりプロジェクトを進めようという能動性を欠いている。

ここまで書いて気づいたが相当やりたくなさそうだな笑

これも、「なんでマンガを描いてるんだっけ?」と思う理由の一つかもしれない。向き合い方を引き続き考えていきたい。



まとめ


ここまで振り返ってみたが、『なんで描いてるんだっけ?』という感覚は別に薄まりもしないし、濃くなりもしなかった。

ただ、数年前よりも自分の感情が動いて、以前よりもずっといろんなことを感じられるようになってきた気がする。

それゆえにいろんなことに揺さぶられるのかもしれない。

自分の心の動きを見つめて、楽しくマンガを描いていきたい。





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