易経の「離」はなぜ「くっつく」という意味になるのか

易経、易学、易占を学ぶ時、最初に覚えるのが八卦それぞれの属性と意味。

そして、おそらくその八卦の中で一番イメージがわきにくいのが、☲「離」だろうと思う。

火を表すのに、なぜ「はなれる」という漢字を使うのか?しかも「はなれる」という漢字を使うのに、「離」は「くっつく」の意味だという。

多くの易経の書には「火は対象にくっつくことでしか存在できないから」と解説されているけれど、納得できるようなできないような、何とも言えない気持ちになる。別に「炎」とか「焔」とか「附」とかでもよかったのじゃないだろうか?どうして「離」を使う必要があったのだろう?

またさらに話をややこしくするのは、「離」には「くっつく」のほかにも「はなれる」という字義通りの意味もある。易占でも、「離」を「離れましょう」と解釈することがある。

これは一体どういうことだろう!?

どうして相反する意味が一つの漢字であらわされているのだろうか。

「とりあえずそういうものだから覚えておこう」というのも一つの手だけれど、深遠な哲学書である易経にそんなテキトーな態度で相対していいのだろうか?

いや、ない!…と思う!

何か…何か理由があるはず!

そういうことで、「離」について改めて漢字辞典で調べてみると…

「離」の語源は、「トリモチで鳥をとる」だった!

または、鳥網で鳥を捕獲するさまを表した漢字ということらしい。

「トリモチ」というのは、長い棒の先にモチ(ねばねばしたやつ)をつけて、それをくっつけて捕獲するものだ。棒の先にガムテープ付けてハエを捕獲したりするようなもの。

これを考えれば、「離」が「くっつく」「はなれる」の両方の意味を持つことも感覚的にとてもよく理解できる!なるほど!

ここで注意しておきたいのは、漢字は「漢字一文字で一連の動作を全て含む」ことがあるということ。俺たちはついつい「漢字一文字=ひとつのこと」だと思ってしまいがちだけれど、漢字は一文字でいろんな動作を包含する。いうならばタロットカードの絵柄のようなものだ。だから易占をやるなら、より広い視界で漢字を見たほうがいいと思う。

では、この「離」はというと、「棒の先にトリモチをつけて」「鳥を捕獲して」「またトリモチから鳥をはずす」という動作を全て含んだ漢字ということができる。

これに気づいたとき、俺の脳内でアルキメデスさんが風呂から飛び上がって走り回ったよね…!まさにユリイカだよ!

「離」はトリモチで狩猟することである。という意識で見れば…当然「くっつく」し、「はなれる」し、さらに言えば鳥を調理するために火に近づいたりもするだろう。トリモチを付ける棒で争ったこともあったろうし、先に火をつけて松明にもしただろう。そしてそれらを行うための知恵をも表すことになるだろう。

易経は非常に古いものであり、おそらく甲骨文字の影響が色濃かったころに最初期のものが書かれたのだと考えると、易経を介するときにその漢字の原義、語源を念頭に置いて調べることは決して無意味にならないはずだ。

さぁ、図書館に行き、やたらブ厚い漢字辞典に挑んでみよう!きっと楽しいよ!

そして、まさに「離」の示すように、先入観を空にし、何も心に含むことなく、外のものをどんどんくっつけ、吸収していこう。情熱を燃やし、知恵を深めよう。一つ所に執着するのでなく、離れるべきからは離れ、常にフラットな目線で人生を見つめよう。

おそらくそれが、☲の示すものだと思うのだ。

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