本当の自分の姿__3_

医療と介護の二元論やめたい

僕はいま企業のわくを超えて、地域の医療と介護の連携について取り組んでいる。
その中で課題と感じているのが医療と介護の使うコトバの違い、大切にしている視野の違いだ。

それが、サイエンスとアート。

医療というのはサイエンスに従っておこなわれてきた。
とある人のとある状況にとある治療をするとこうなる。
そういう、科学的に示されたものに『ヒト』を当てはめて考える。
それが上手くいったとき、楽しい。

それに対して、介護というのはどうやらアートのようだ。『ヒト』と介護従事者の間におこるその瞬間の対話を通しながらそこに現れるものを大切に取り扱うのだ。
それが上手くいったとき楽しい。

楽しいことが違うひとが、生産的な話をするのってすごい難しいと思う。

そんなことを考えていると、このサイエンスとアートという言葉が自分の身の回りの問題として起きていることに気づかされる。例えば、リーダーの資質について考えている時、PM理論というもので業務の遂行性と人間の集団行動への影響として描かれている。

このPM理論というのは三隅ニ十二さんという方が1960年代につくった理論なのだが未だに同じことで人間は壁にぶつかっているのかと思う。いやむしろそれこそが向き合い続ける壁なのかもしれないと思っている。

さらに最近コミュニケーションのために取り組んでいる勉強の中ではより分かりやすく抽象化してdoingとbeingとしてあらわされたりもする。
「何をするか」と、「どう在るのか」ということだ。

ところで、こうやって対照的に書いていくと二元論が大好きな僕たちは争いを始めてしまう。どちらが『正しい』かという根拠もないのにもっともらしい論理をもちいて。

根拠がない僕らは、まるでよくわかった顔をしたワイドショーのコメンテーターのようにわいわいと『正しさ』の論争を繰り広げている。
それが楽しいから。
でも、たまに僕がその『正しさ』そのものに鋭く触れてしまえば、シャボン玉のようにその空間はこわれてなくなり白けた空気がそこに生成される。

その簡単で、楽しくて、薄くて、もろい時間が僕はとっても苦手なんだって思う。

いや、苦手というより誰かの何かに横やりをいれることでしか自分の価値を感じれれないような今の社会の先に個々の幸せが存在するように思えない。

だから、二元論でもいいけど、自分がどこにいるか、その正しさで何をしようとしているのかに気づかなきゃ。
今、自分が見て、聴いて、触れて、感じることを大切にして、薄っぺらい楽しさよりも真に幸せであることを考えていきたい。

矛盾するようだけど僕にも『正しさ』がある。

僕の正しさは『人が幸せであること』だ。

だれが二元論で『人が幸せであること』を否定できるだろうか。

ね、最強じゃね?みんなも使ってよ、この『正しさ』

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