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【掌編小説】Fコード

僕はもう二十九歳で大人になってしまったけれど、いまでもときどき学生時代のことを思い出す。

十八歳。すべてのものごとが非生産的な方向に向かっていた時代。
僕は大学に通いながら週に二回、予備校でアルバイトをしていた。

そこでの仕事は、一言で言ってしまえば雑用のようなものだった。授業前の黒板の清掃、塾内便の記録用紙のファイリング、模試の申込受付、その他職員がやるに及ばない細かな仕事は何でもした。
慣れないスーツを着て、先輩から窓口業務の仕方や大教室でのチュートリアルの仕方を教わった。

僕はそのアルバイトに行くのが楽しみだった。
それは多分にサオリさんによるものが大きかったと思う。

サオリさんは校舎の正社員の中では新米で、歳は二十五歳だった。
島根県出身で、関西にある大学を卒業した後、二年間今とは違う仕事に就き、その後上京したらしい。

いつも髪を後ろで束ねていて、その束ねた髪には感じのいいふんわりとしたパーマがかかっていた。前髪はきれいに横分けされていて、まるで生まれてきたときからそこにあるように見えた。そして彼女はいつも影を背負っていた。文章にするととても恥ずかしいことだけれど、でも僕は確かにサオリさんに恋をしていた。

夏休みも中盤にさしかかったころ、僕はひとりでもがいていた。

テレビを見ていても、風呂に入っていても、寝ようと布団に転がっていても、そこにはいつもサオリさんの影が存在していた。いっそ僕の体のなかにあるそういった種のどろどろした思いのかたまりを夏のよく晴れた日にゴムホースで洗い流してしまいたかった。
実際にそうしなかったのは、どれだけ丁寧に洗ってもその『どろどろ』のねばりけを取ることは不可能だとわかっていたからだ。それはある意味呪いのようなものだった。  

八月の第三週、職員とアルバイト合同での飲み会が開催された。
普段フォーマルなスーツ姿しか見ていなかったので、私服を着て仕事を忘れ少女のように笑う彼女に見とれてしまった。僕とサオリさんはたまたま隣の席に座ることになった。

僕たちは音楽や高校時代の話、人類の滅亡に関する考察や春の日の午後に動物園のおりの中で眠る象について話して時間をすごした。

「つまりね、春のすばらしい陽気の真っ只中で、何年も何年も動物園に入れられて年老いた象は何を思うのかしら」
彼女は手元にあったモスコミュールの水滴に指を触れながら言った。

「毎日が昨日のつづきみたいなのっぺりとした環境で寝て起きては寝て、毎日似たような顔の人間が、もちろん象から見てのことよ、自分を見て『わあ』だとか『おお』だとか言ってるのよ。わたしだったら耐えられないわ。やりきれない絶望感。うんと深い井戸に落ちてそのままゆっくりと死を待ってる感覚に近いかもね。サトウくんはどう思う?」

「たしかに僕でも耐えられないと思う。でも象はもうすでに諦観を自分のなかに持っているのかもしれないし、あるいはいざというとき、たとえばまた関東で大震災があるようなときのために力をためて身体に宿しているのかもしれない。混乱に乗じておりから逃げ出すときのために」

「それはおもしろいわね。じゃあもしすごい地震があったらまず最初に動物園に行って。それで象に乗ってわたしのところに来てね」
もちろん、と僕は言った。「迎えに行きますよ」

 飲み会が終わったあと、僕は先輩にサオリさんを彼女の家まで送っていくように言われた。先輩は僕と同じ一年生でもう完全にできあがってしまっていた女の子とラブホテルに行きたいらしかった。

サオリさんの家は駅から近く、僕たちはアルコールを一歩ずつ地面に発散させるように歩いた。僕も象の話をした女も、いささか酒を飲みすぎていたのだ。

彼女の横を歩いていると僕は限りなく幸せな気分になれた。彼女の横顔は淡いピンクで上品な陶器のようにつるつるとしていて、髪のすきまから見えた耳は生まれたてのハムスターのように小さかった。
こうやってサオリさんの顔をまじまじと見たのははじめてだった。
僕は無神論者を公言していたけれど、サオリさんを創ってくれた神に感謝したくなった。

けれどそう思ったあとで僕はふいに、言いようのない哀しさと、僕の周りの世界をとりまく孤独感を感じた。

ああ、俺は一生この人を手に入れることはできないのか。僕は足を運ぶのを止め、その場に立ち尽くした。サオリさんが僕の五歩先、モスバーガーの前で振り向いた。

「どうしたの、吐きたくなった? お水買ってこようか?」
彼女の目はまっすぐに僕の目をとらえ、僕の反応を待っていた。サオリさんの目は僕に深い深い井戸を思わせた。小石を投げ入れたらきっと音も無く沈んで二度と僕の元には還ってこないだろう。

「ねえサオリさん。僕は、あなたが好きです」
「わたしも好きよ、サトウくんのこと。仕事も熱心にやってるし」
彼女はさらりと、言葉を溜めることなく言った。
そうじゃない、と僕は思った。

僕らは再び歩きはじめた。
僕は彼女に、たとえば東京でまだ観光していないところはないかと聞き、東京タワーだとその空気の読めない女は言った。今度の休みはいつだと聞き、二十九日だとモスコミュールを飲んだ女は答えた。卑小な哲学者の低俗な三段論法のように、僕は二十九日に東京タワーへ行かないかと誘った。彼女は断らなかった。サオリさんを家まで送ったあと、僕はひとりで駅に向かってまた歩いていた。八月特有の生温かい風が僕の服を揺らした。僕は突然はだしで道路の真ん中を走ってみたくなった。  

 その日、僕たちは夕方五時に駅で待ち合わせた。
駅前の通りはひっそりとしていて、澄んだ空にぽっかりと浮いた夕陽に目を向ける人もまばらだった。サオリさんはライトグリーンのTシャツにブルージーンズ、白いサンダルをはいていた。小さなショルダーバッグから察するに荷物はそれほど多くなさそうだった。

僕たちは京浜東北線に乗り上野で乗り換え、日比谷線で神谷町を目指した。平日の五時台の電車は比較的空いていて、乗客ひとりひとりに役柄をつけてミュージカルができそうなほどだった。

僕らは車内で本の話や星の話、砂漠で干からびてしまったラクダに対する考察やFコードの成り立ちについて話した。

「わたし学生のころギターに憧れてアコースティックギターを買ったの。こっちにも一応持ってきてるんだけど。テレビで見ていてすごく簡単そうに思えたし、すぐに弾けるようになると思ってた。でもCとかGは弾けてもFコードだけはまったくといっていいほど弾けなかったの。指が短いからね、きっと」

そう言うと彼女は心から残念そうに自分の透き通るように白い指を眺めた。僕は高校時代、軽音楽部に入りギターを担当していたから、彼女の言わんとしていることは理解できた。

Fのコードはしばしばギター初心者の登竜門として代名される。
CやGやDなどと同じく基本的なコードで演奏上多用されるが、上記のそれに比べFコードの運指はややむずかしい。体から最も離れた1フレットを中心とし人差し指だけで六本の弦をまんべんなく押さえ、2フレットの三弦に中指を、3フレットの四弦と五弦にそれぞれ小指と薬指を置いて弾く。
このとき大切なのはすべての指を押さえたときすべての弦の音がこもらずに響いていることだ。

「僕だって最初は弾けませんでしたよ」窓の外には赤い橋が架かっているのが見える。

「最初の二、三ヶ月の辛抱です。その間にFコードが曲中に入ってて自分が好きな歌手だったりグループの楽譜を買うんです。それでひたすら家で弾いてるんです。ただ弾くのに疲れたら歌詞に乗せて歌うんです。そうしてるとだんだん慣れてきて、好きな曲のワンフレーズだけでも演奏できるようになるんです。それだけですよ。嫌なことがあったときやむしゃくしゃしてるときにそのワンフレーズを弾くとなんだか救われたような気持ちになる。そういうのって、素敵じゃないですか?」

「そうね、そうかもしれないわね」
さっきまで鮮やかに輝いていた夕日は橋の下にまで隠れ、輪郭を失い、その力は目を向けているあいだにも急速に弱まっていく。
「今度教えます」 
「約束です」

 150メートルの大展望台に直通エレベーターで昇ったのは七時五分過ぎだった。エレベーターを降りると、大勢のカップルや子供連れの家族やらが円形の展望台の円周に沿ってみなそれぞれに外の夜景を見ていた。その人々の腕をつないでいったら質の良いクリスマスリースが何個か作れそうだと僕は思った。サオリさんはそのリースのほつれた部分に僕を連れていって、手すりに指をかけながら顔に東京の夜景の光を乱反射させていた。僕らのよく見える位置には「south」という文字が書いてある。「すごいね」とサオリさんは言った。
「こういう景色に憧れて東京に来たのに、実際にここまで来て、ほんとうに目と鼻の先にあると、言葉にならないものなのね」

僕は黙っていた。いま何かを口にしようとしたら、その拍子に僕を構成するいろいろなものが一気にくずれていってしまいそうだった。僕は言葉を口にする代わりに、大震災が起こったときの僕と彼女と象の進行ルートを入念にチェックした。

四方の景色をぐるりと見てまわったあとで、僕たちは高さ250メートルにある特別展望台に昇ることにした。先ほど乗ったものよりは幾分小さなエレベーターだったことをよく覚えている。赤い鉄塔のてっぺんに着くと、やはり先ほどの階より小さなーたとえるならスケートボードのローラーのような形のーフロアが広がっていた。その階はやけに外国人観光客がいて、彼らは口々にわけのわからないことを言っていた。サオリさんは今度は六本木ヒルズのほうを熱心に見ていた。

「サトウくん、さっきのとこだとわたしたちと同じ高さくらいだったのに、今はすごくちっちゃいね」
「そうですね」 

景色なんかどうでもよかった。彼女と手をつなぎたかった。でもつなげなかった。
どうしてもそうするわけにはいかなかった。そして僕は目をつぶり、まだ見ぬこれから出会うだろうただ純粋に可愛いと思えるものや美しいもののことを想った。
でもその数はきっとそう多くないだろう。忘れるもんか、と僕は思った。
「帰りましょう」

あと500メートル。東京タワー一本半が僕に残された距離だった。
サオリさんは色の付いた歩道をはみださないよう綱渡りをするように歩いた。そんな彼女は17歳で時を刻むことを止めて絵から飛び出した絵の具のかたまりに見えた。どうしてそんな話になったかよく覚えていないのだけれど、サオリさんはジェットコースターが苦手らしかった。「昔からそうなの。すぐ酔っちゃうから乗れないのよ。一回友達にせがまれて乗ったときなんか酔い止め二個も飲んじゃったくらいだし」
ぼくもそうだ、と言った。

ああ、今なら世の中のジェットコースターが嫌いで村上春樹が好きな女の子を無条件で好きになれそうな気がする。東京タワーはもう一本分も残されていなかった。もう僕はひとことも話さなかった。右足を上げ、下ろし、左足を上げ、下ろす。その繰り返しだった。そんな永劫と一瞬を兼ね備えた一本道は心なしか涼しい風が吹き、夏が終わってしまうことを示していた。

「もうこのへんでいいよ、終電大丈夫?」サオリさんは言った。
今日でなければいけない気がした。今日でなければこのままいつか忘れられてしまうだろう。

「Fコード、今教えに行ってもいいですか?」僕は鉛を吐き出した。

彼女は少し微笑って言った。「そんなに急ぎじゃないんだけど」
「これは僕の問題なんです」 「それもすごく個人的な」

僕はあの日、彼女と電車に乗って、東京タワーに昇り、東京のプラモデルみたいな夜景を見た。中華料理屋で飯を食い、帰り道を家まで送り、彼女の家の古びたギターにさわった。調弦をし、一音ずつ音色を確かめた。一度僕がFを押さえて見せた。ギターを渡すとサオリさんは小さな指でそれを真似した。

上の弦から順番に一本ずつ弾くとどこの弦がなっていないのかはすぐ分かる。ゆっくりと事態は良い方向に向かっているようだ。僕の知りえない大きな大きな枠組みの中で。

六本の弦が一斉に響くのを、僕はたしかに聞いたのだ。


それから一年後、サオリさんは結婚して予備校を辞めた。
相手は彼女の地元の同級生らしい。島根に帰ったのだろうか。
送別会にも行かなかったから詳しいことは分からない。
あの日以来ふたりで会ったこともない。その後何をしているかも分からない。

なにしろ僕も大人になってしまったのだ。

でも今でも思い出す。陶器のような横顔を。生まれたてのハムスターのような耳を。深い井戸のような目を。細く頼りない指を。Fのコードを。



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