【エッセイ】記念日前日のラブレター
八月四日は、なんでもない土曜日から始まる。
僕は昨日買ってきた文庫本を読みはじめた。
ページを繰る手が止まらなくなる。栞を挟んだ位置は、まだ全体の十分の一にも満たない。けれど、面白い予感がする。
夕方になって、僕はキッキンに溜まった食器を洗い、今これを書きながら、君が家に帰ってくるのを待っている。
明日、八月五日は僕と君にとって、大切な記念日になる。きっと、毎年八月が来るたび、このうだるような暑さも、今より好きになれるだろう。
僕は想像してみる。
明日の朝は、寝坊助の僕らにしては早く起きる。天気は晴れだ。小松菜の味噌汁を温め、かりかりのベーコンと目玉焼きで、ゆっくりと朝ごはんを食べる。
引っ越したらダイニングテーブルは必須だよね、なんて言いながら、窓を開けて朝の空気をからだいっぱいに吸い込む。
新宿区役所までは歩いて向かおう。牛込柳町から外苑東通りをまっすぐ抜けて、防衛省を横目に、四谷三丁目方面へ。
御苑に寄って、コーヒーを飲んでもいい。わざと遠回りして、区役所までの道を一緒に歩こう。
なんてことのない、いつもの景色が、今日は特別に見えるはずだ。いつもは聞こえやしない鳥の声が聴こえて、すれ違う人々の顔も少し優しげに見えるはず。
僕は歩きながら、まだ見ぬ日々のことを想う。
他愛ない、けれど愛しい瞬間を、僕らは一生であと何度持てるだろう。栞を挟んだ位置を指で確かめて、読み終わるのが惜しくなる物語をいくつ紡げるだろう。
死ぬなら夏がいい。
口にするときっと君が悲しむから、僕は心の中で想う。伊勢丹の前を通り過ぎるとき、一瞬だけ涼しい風が吹いた。
小説は、自分の言いたいことを最も分かりにくく表現したものだ、と昔ある作家が言った。 ただ、僕の場合は単に技量が足りないからで、全くの別問題だ。
ここまで読んで君は何が言いたいか分からないという顔をしているけど、これはまぎれもなく、僕から君に宛てたラブレターだ。
あるいは、これから起こる、二人で乗り越えていく物語の書き出しだ。
栞を挟んだ位置は、まだ全体の十分の一にも満たない。
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