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帰省と夏と抗議文の日記 - 20210806

帰省している。やっぱ実家っていいものなんだなあと実感しつつひたすら寝るだけの生活が9日ほど続いている。ごはんをたくさん食べられたり人と会話できたりするのがすごくいい(好きなものだけを不規則に食べたり一人の時間がひたすら続いたりするのももちろんそれはそれでいい)。

家には猫がいて最高なのだが、特有の悩ましさもある。猫の写真との距離の取り方だ。
実際、撮れる。マジでめちゃくちゃおもしろい猫の写真が、たまに撮れる。それは自分で撮ったからという前提ありきのものでもなく客観的に見ても本当にびっくりするほどおもしろいようなものだったりするのだが、それをSNSで共有するかどうか。ツイッターで猫の写真を見ると嬉しいのだが、自分がおもしろ猫画像を投稿できるか、していいのか、する側に行けるのかという絶妙な自意識がある。くだんね~。すりゃいいだろ普通に。

自意識へ
死んじまえ

今日は朝6時に目が覚めた。とんでもない生活リズムが続いていたので前日に20時間以上活動した状態で21時に就寝したのだ。生活に成功と思った。


すみません、なんか全然めんどくさくなってこの段落から二日後に書いてます。
午前中は音楽をディグるなどしていた(ディグるって何?)(まだ見ぬ好きな音楽を探していろいろ見てまわるみたいな意味です)(へえ……)(何?文句ある?)(「ディグる」、ねえ……)(ちげえよバカ、他にめぼしい言い方がないんだよバカ、カス、てめえみてえなやつは一生そうやって世俗的なものに苦言を呈し続けてろ)。

ツイッターで知らない人の「ルミナスオレンジのコピバンやりたい」的な投稿が目に入り、そういや名前はずっと知ってるけど全然聴いてないなと思いいろいろ聴いてみていた。00年代インディーロックの燻みがありつつ根源的なきらめきに満ちている。拍子というか小節の扱い方、遊び方が美しい。「How High」を大いに気に入る。

去年知ったCONDOR44というバンドも気になって聴いていた。すごくいい。アルバムが気になる。

あと中村佳穂の「LINDY」が配信で音源化していたことを知り、買って聴いていた。中村佳穂は名前だけ知ってる状態でそんなに興味もなかったのだが以前ツイッターでこの曲のライブ映像を勧められて観た際に「衝撃」としか形容できない衝撃を受けた。本物だなと思う。

そんなこんなで過ごしていたらインターホンが鳴り宅急便が来た。

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ヒーーーーーーーー!!!!!

アイドルマスターシリーズの新譜、VOY@GER(ボイジャー)のシングルが届いた。アイマスにはいくつかのシリーズがあるのだが今回のVOY@GERはシリーズごとに計5形態のリリースが行われ、自分はシャニマスことアイドルマスターシャイニーカラーズの形態を買った。

人並以上にアイマスのことが好きではあるものの自由にお金を使いまくれる立場に辿り着けていないためCDを買うという営為にほとんど身を置いてこなかった上、アイマスは熱心に追うことに特有の疲れを伴う感じが確実にあり最近はわりとアイマスとの間に距離があったのだが、それでもVOY@GERは買ってしまった。

というのも、なんかアップロードされてんなと思い軽い気持ちで同曲のPVを再生し、驚愕した。なんだこれは、すごすぎる、全部の感動を強制される。これがアイマスの現在地(いま)なのか……という思いに目頭がすごいことになり、気づけばAmazonにアクセスしていたのだった。

アイマスを熱烈に眼差す時期と、そういう能動性を一切失う時期の周期が自分にはずっとある。あと「人と感動を共有したい時期」というのがありその際はインターネットのアイマス言論に触れたりオタクがいっぱいいるdiscordサーバーを積極的に見たりするようになるのだが、反してそういう喧騒に疲れ切って「一人で内向的に楽しみたい時期」みたいなのも来る。今はそっちだな。

ちなみにシャイニーカラーズ盤を買ったのはひとえにジャケットの浅倉透が原因である。曲は言わずもがな、一人ずつのバージョンが収録されていたりなど内容も素晴らしかった。浅倉……


午後、絶対に収益化をしなさそうなYouTubeチャンネルの動画にデカデカと広告が流れたのでかなりびっくりした。

不思議に思って少し調べ、あらゆるチャンネルに収益化の意思と関係なく広告が挟まれることが最近になって決まったらしいと知った。おい…………最悪すぎる……………………

動画広告って結構苦手というか、平均的な苦手よりずっと苦手だと思う。観たい動画がすぐ観られないとかそういうことじゃなくて、広告を見せられること自体が苦手でいる。何が嫌なのかというと「知らん人のユーモアを急に見せられる」という点だ。

いまの広告って多くのものが何かしらのユーモア感覚をフックとして用いているイメージがあって、例えば知らん人が扮装してコミカルに歌う広告とかが流れると、そのユーモア自体が嫌とかでなく「知らん知らん!!そのユーモア知らん!!知らんユーモア見せんといて!!」という拒絶感でいっぱいいっぱいになる。さながらユーモアの露出狂という印象かもしれない。もう広告が流れ出すやいなや瞬発的にMキーを叩いてミュートにするようになってしまった。

このへん説明が難しいな。「おもしろ広告がつまんないから嫌」みたいな簡単な度量の狭さの話じゃなくて、そのユーモアの内容や是非でなく、そもそも感覚の周波数が違う別領域のユーモアを問答無用で見せられる構造自体への嫌さがある。自分はどんなものであれおもしろがる人がいる限り絶対的につまらないものなんてないと思ってるけど、そう思うゆえに、そのユーモアはそのユーモアを楽しめる人たちで共有してくれ、という気持ちになる。これはテレビとかと違って自分の見たいものだけを取捨選択できるインターネットの性質に触れ続けてきたゆえの体質的な病理なのだろう。

でもそういう広告システム自体の押しつけがましさとは別のものとして広告内容自体の押しつけがましさがすごい場合も全然多いよなという正直な所感はある。なんというか知らん広告事業部のおもしろ担当アイデアマンが手掛けたユーモラス・プロモーションが「ほら、おもしろいでしょう!!」という元気さに満ちて立ちはだかるような様子にすごい傲慢さのようなものを感じてしまい、そのスタンスに対して苦い表情になってしまう。知らん人が扮装してコミカルに歌う広告が流れたとして自分は勝手に「この人が扮装してコミカルに歌ってるからもちろんおもしろいでしょう、あなたも」という思念を画面の向こう側に幻視してしまうのだ。

そもそもユーモア風味のものに限らず、各々の広告が各々なりの求心力を披露してこちらを「煽動可能な顧客層」として舐めてかかってくる感じ(へのフラストレーション)というのが多分あって、ユーモア・テイストのものは性質上その感じが傾向として顕著になりやすいんだと思う。知らん人の「意図」が突然自分に目を合わせてくるのが楽しくないというか。ここでいう知らん人というのは「面識がない他人」とかじゃなく先述の「感覚の周波数が違う」人のことです。
広告なんて本来そういうものだろ、とも一瞬思うけど、でもそういう体臭のない、何か一種の(広告としての)弁えとか謙虚さがあるようなものだって全然ありえるしあると思う。「広告ですみません」というような物腰の広告は上品に映る。

テレビコマーシャルやYouTube広告、駅広告やポスターといった、広い対象に対して無差別に放映されるパブリックな場でのおもしろ広告に問われるのは、どれだけおもしろいかではなく「刺さらない層もいる」という理解なのかもしれない。おもしろさそのものという一方向の高度をうっかり追求してしまうとその時点で「刺さらない層」が生まれて冷ややかな視線が向くことが決定するし、そういう反感は広告という営みが最も避けるべき端的な損失だろう。その損失への危惧は「刺さらない層もいるという理解」がないと発想できないのだが、広告おもしろに自信があるほどその理解から遠ざかってしまいがちで、つまらんのに声がでかい広告というのは恐らくそうして醸造されている。

だから広告でおもしろをやるとして最も求められるのはおもしろの強度自体でなく種類で、押し売り感のない温度感の「狙ってない」おもしろ、というカテゴリであるかどうかなのかもしれない。そんなのある?

でもインターネットで「つまんねえ」と疎まれるようなものが実際はつまらないのでなく「これがおもしろいでしょう」という舐めの雰囲気が反感を買ってるのが実態、というような場合はよくあると思う。

YouTube(をはじめとする動画メディア)が一定のインターネットコンテンツでなくもっとファンダメンタルなプラットフォーム(カタカナ多くてキモ笑)として世の中の巨大な存在に変化した結果、テレビコマーシャルとそう変わらない広告システムの併走によって結局テレビの姿態に回帰していってるのはおもしろいかもしれない。YouTubeで広告なんて流れなかったあの頃が懐かしいねえ……←老害

YouTube広告についてこんなにちゃんと書いてしまうとはね。


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夕方になる前に、と思って散歩に出かけた。

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八月になって初めて外へ出た。なんだかんだで八月という時間が好きだ。そういえば2019年の夏に東京へ遊びに行ったときから二年が経ってるらしくキモすぎる。二年て。当時の自分に対して苦手意識があったり憧れがあったりする。

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the band apartとかSuiseiNoboAzとかを聴いていた。蝉が鳴いているのを何度聞いても新鮮に「蝉が鳴いてる」と思ってしまう。まだ精神が春の初め頃くらいにある。

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ライフガードを飲むために散歩したと言ってもいいだろう。住んでみて気づいたが東京はチェリオの自販機が存外に少なく、ライフガードを飲む頻度が各段に減った。飲んだあとそこそこ気持ち悪くなるところも愛嬌があって好きなのだが気持ち悪くならないほうが普通にいい。

そういえばライフガードのキモいうさぎはウサダーという名前がついていて結構すごい半生を辿っている。

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なんか急に雨が降ったと思ったら7分くらいで完全に止んだし虹の足元が見えていた。もう一方の足はどこの街に届いているのか。

日も落ち始めたので帰路を辿る最中、気分がよすぎて、その際聴いていたSuiseiNoboAzの「64」を普通の声量で口ずさんで歩いていたら夕日がめちゃくちゃきれいだと気づき嬉しくなった。写真に収めておこうと思い夕日へ近づいていた瞬間、コンクリートの段差でかなりヘヴィに足を捻って転倒した。曲がってはいけない方向へ足首が曲がり、激痛にその場でしばらく身動きがとれず呻いていた。こんな散々なことあるんですね。

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その際よろめきつつ息も絶え絶えに立ち上がって撮った夕日。きれいですね

帰って湿布をどうにかした。フォロワーの人から「自分は二年前に放置した捻挫の箇所が未だに痛みます、痛みがおさまらなかったら病院に行くべし」と助言をもらってありがたい。いま全然三日後に書いてるけどなんとか回復してきてるのでよかった。

誰かのツイートが投稿されたとき瞬時にいいねするのは恥ずかしくて間を置いてしまう、っていうツイッターあるあるがあるけど、あれって「間を置く派の人」と「そうでない人」がそれぞれ一定に存在し続けてるというより、もしかしたらある程度の人数が間を置くことでその人数の分「瞬時いいね人口」が減って、そうしてできた環境によって「瞬時いいねへの抵抗意識」という発想自体が新たに流布されて、結果として間を置く人がさらに増える、っていうサイクルになってたりしない?ということをふと思った。






最近のインターネットの話するか………


いや……

でもな……………


………


します

すみません、します


最近のインターネットの話をするので、読みたくない人はリスの画像が目に入るまでスクロールしてください。


最近のインターネットの話をしますが、最近のインターネットは明確に最悪だ。これはもう断言。結構長い間インターネットの最悪さを見てきたつもりだけどこんなに最悪なこと一度もなかったと思っている。まあいろんな要因が重なりすぎてるのでさもありなんという具合でもあるのだが先月なんかは自分の中の何か耐性装置のようなものに亀裂が入るのを感じ、意図的にツイッター(のトレンド項)を見ないようにする、という個人的には異例の行動にすら出ていた。

どんなに最悪であれそれに言及するという形で関与することを絶対にしたくなかったので一切の心持ちを封殺し、ツイッターでは世間に対して頑なに沈黙を貫いていた。

ただここ数日のインターネットにはあまりにも(その自制心すら揺るぐほど)言いたいことがある。なんか言語化しておこうと思って書いた文章があるのでそれ含め書いてしまいます。日記だからね。誰も読んでないしここなら大丈夫だよねという安心感に甘んじます。はあ………
まあでも思ったことをちゃんと言うのは絶対に大事だし、それを封殺することで守られる「インターネットでは世間に関せず在りたい」という自意識なんてものは本当にくだらないと自覚している。封殺に徹することのストレスもそれはそれですごく不健康だなという気づきも大きい。介護するような気持ちで読んであげていただきたい。


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選手の金メダルを勝手に噛んだ謎の人が話題になっている。それ自体はもはや何も言うことがないのだが、ツイッターを見ているとそこに憤慨する理由をフェミニズムと接続してる人をやたら見かけた。
自分はそれに全然ピンとこなくて、本心で「なんで??」と不思議に思っていた。他人の所有物でそんなことをするデリカシーのなさはもっと根源的なハラスメントであってセクハラでもなんでもなくないか、メダルを口に含むという文章のどの部分がセクシュアリティと関係してるのか、と思い、なぜこんなに何の疑いもなくセクハラとして非難されているのかわからなかった。

不思議に思っていろいろ見てた結果、なんとなくわかってきたことがあった。
そういう太刀筋で批判をしてる人たちは、噛んだ人が「オリンピックの金メダルだから」ではなく「女性の所有品だから」というモチベーションで行為を働いたのだ、という断定が発言の前提にあるようなのだった。

嘘だろ、と思ってしまった。可能性としてあまりに想定外で発想すら持てず、その実情を把握するのにも時間がかかった。

デリカシーのなさをデリカシーのなさとして批判することは確実にできるしこの件においてもその向きは確実に正しい。ただフェミニズムの文脈で批判できるのかどうかに関しては一考の余地がある。女性蔑視という言葉を用いたここでの批判は「相手が女性だから行為を働いた」というあくまで完全な憶測に過ぎない断定を起点とする不安定な邪推でもある。

まず、他者の所有物を噛むというのは完全に毀損行為だが、その行動が性的な成果物として本人に意図されていない限り、そこに性的加害性を容易には認めにくい。キャッチーな例を示すとするなら、男性Aが友人Bの持つ食品サンプルをジョークとして口に含んで傷つけたとして、それは毀損行為ではあるがセクハラとして糾弾するには明らかに不自然だ。

今回の件がセクハラだったのかどうかという真相は「かじった人が選手のセクシュアリティに手を伸ばす意図があったのか」という要素次第で左右されるものであって、問題の外見でしかない「おっさんが若い女に無礼を働いた」という一つの要素だけで結論を急ぐ人が多すぎないかなと感じた。かじった人の意図は覗けないのだから我々に与えられた証拠品は「他人のメダルをかじった人がいる」という叙述のみだ。これはAがBの食品サンプルをかじったことと本質的にそう差異はない。そこで生物学的性別という要素を速やかに持ち出し、単に「ある程度年配の男性から若い女性へ」という構図が「セクハラ」の悪態としてキャッチーだから、というだけの理由でこの件に適用し、その憶測による非難ばかりが目についた。若い女性から年配の男性へのセクハラだってありえるわけだし、同性であってもそれは同じだ。インターネットを見てると「メダリストが屈強な男性だった場合かじらなかっただろ」的な指摘が散見されたけど、そんなことは誰にも判断できない(少し逸れるが屈強な男性だった場合もつまんねえ冗談として全然かじってた可能性も普通にあるのではないかと個人的には感じる)。

セクハラの定義が行為の内容(何をしたか)とか行為の動機(なぜしたか)じゃなく行為の対象(誰にしたか)っていう表面的な風景で判断されるようになったら危険だ。男性によるパワハラ等のハラスメントの対象が女性だと無条件でセクハラにも該当する、と判断するような言論が力を増すのが恐ろしい。そんな風の吹き回しで余罪が追加されることの冤罪性が恐ろしい、などと具体的で個人規模の恐ろしさを述べたいのではない。もっと根本的な「根拠に欠ける主張が“正しそうな感じ”だけを理由にまかり通る状態」が恐ろしいのだ。

問題とマクロに取り合って検討することをスキップしてとりあえず登場人物の性別だけに手癖で注目して(即座に問題の主旨に据えて)しまう不自然で性急な姿勢こそ逆に性別主義的な様相に帰着してしまっていることが多くて、それは本来フェミニズムが目指すべき誠実さから最も遠い、思想の本分を見失った状態になってはいないかと思う。


一応言っておくけど、この文章において、メダルをかじったのがセクハラであった可能性だってまったく否定していない。若い女性の私物だから、という加害の意図でメダルをかじったなら全然セクハラだ。自分はセクハラであるという断定可能性を否定しているのであって、セクハラであることを否定しているわけではない。何か対立構造における特定の「側」に味方をしているわけではない。

何に納得がいっていないかというと、他人のメダルを勝手にかじるという確実に間違った行為に対する批判、つまり「批判の声を浴びている人に対する批判の声」という圧倒的に有利な立場に乗じ、何も言い返せない相手に向けて、憶測に依存した正しくない正しさの声が大きくなりすぎていること(ゆえに看過されすぎていること)自体だ。声が大きくなりすぎるゆえに反論する者が現れないので自身は正しいという確信をさらに得て着々と巨大な何かになっていくのがめちゃくちゃ嫌だ。
悪に反発する主張の内容が必ず正しいとは限らないのに、どうあれ悪に反発しています、というバッジだけで正しさの関門を通過している人が多すぎる。

先述したが、フェミニズムが大切なあまりその文脈で批判することに躍起になって、結果として問題の実態を性別という要素だけで結論するような焦燥に執心してしまう状態は、本来フェミニズムが志向する「性別に左右されない自然さ」から最も遠いものだと思う。これに関しては厄介なパラドックスだなと感じる。
「性別で判断するな」などと言いたいのではない。必ずしも性別に左右されない自然さ、という柔軟なスタンスを、問題を検討する際にこそ実施する真摯さを望んでいるのだ。

今回の件は明確に要因が多い。
加害者が悪であることが火を見るよりも明らかであること、「金メダルをかじる」という文章の話題性およびSNSでの拡散性、登場人物が市長と金メダリストの二名というインパクト、ヘイトを集めがちな「嫌なおじさん」「有権者」といった要素を非難の対象が具えていること、など枚挙に暇がない。殊に正義の立場から権力者を罵倒するのは何か巨大なものに打ち勝つ痛快さがあって格別だろう。匿名でのバッシングが一大エンターテインメントとなったあまりにキモすぎるインターネットの需要に応えすぎていた。
自分が投げかけたいのは、フェミニズムといったような思想が、そういう浅薄で不健全なモチベーションによって賑わい、憶測に先立って展開されるような程度のものとして加速する潮流であっていいのか、消費されるアトラクションであっていいのか、という問いだ。


あーーーーーー怖い。正しく読解してもらえる自信がなくてそれが怖い。もはやわざわざ書きたくもないが「かじった人を擁護している」「フェミニズムに反発している」みたいな安易な誤解を受けてしまいそうで恐ろしい。何かに味方をしているわけではない、と上で書いたが、インターネットを「敵か味方か」という二元論で見渡している人からは「敵」と見なされそうで怖い。
自分が危惧しているのはフェミニズムという安易じゃない思想を安易に運用することが安易さゆえの手軽さによって娯楽化し、その「声のでかさ」のみを理由に世界に影響を与えてしまうような過ちだ。今回の件はその危機感が確信的なものとなったきっかけでしかない。自分はフェミニストだからフェミニズムを守るためにこういうことを思ったり書いたりしているつもりでいる。

まあ言いたいことを簡潔に書くと「あくまで憶測に過ぎない不安定な言論がここまで巨大化できる今のインターネットが不安」ということです。多分。


という文章を書いた後日になって詳報が公開された。

メダルをかじった人が選手にどういう発言をしていたかが報された。各記事におけるこの明らかに露悪的な扱われ方とも関係なく、かじった人の感じが現実感を伴って伝わってくる。メダルをかじるという行為単体に限らず、明らかに最悪でインモラルな言葉遣いで漫然と接したのちにこういう冗談を働く様子には、散々指摘されていた「敬意の欠如」がよく窺える。最悪すぎて書きたくもないけど「若い女だから」という軽視を感じますね。まあ全然セクハラですわな。メダルとかじゃなく態度自体にそういう批判の余地がある。

ちゃんと読んでもらえていたらわかってもらえると思うけど、実際にセクハラだったのかどうかという答えが出たとしても、初めから違う方向を向いていた自分の気持ちは全然鎮火していない。最近のインターネットすべてにおいて、浅はかな人々の浅はかさとその理不尽な兵器性に嫌気が差している。我々の怒りはいつだって浅慮に向けられている。







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リスだーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!



嫌な話をたくさんしたので楽しげな話をしたい。


ツイッターの下書きってあるけどどうすればいいんだろうと思う。下書きをピックアップするっていうユーモア形態にも普段は抵抗があるので、日記という場所の閉塞性をいいことに、行き場なく犇めいている下書きの一部を載せていこうかな。

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これありませんか?


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「ジャムバタ」と略されてるあたりがめちゃくちゃ面白いと思う。


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これはまあ、ある


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あったよね……


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本当に殺してしまうかもしれない


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「お水」って言葉面白いなと思って。


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なんかもう全然日記じゃなくなったな。8月6日はいい感じの日でした。それはそれとしてこれを書いてる8月9日夜の自分が寝不足でやばいので寝ます。

さようなら

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