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黒板を使うとなにがうれしいのか

大学などで講義をするとき、黒板がある教室だとうれしくなる。
チョークを使って黒板に文字や図を書くのがなんだか好きなのだった。
たぶん、いくつかの理由が絡み合っている。

ひとつは、話すペースに合っていることがある。場合によっては、PowerPointなどのスライドを使って話すこともある。「これだけは伝えなければならない」ということがかっちり決まっているような場合は、とても便利だ。あらかじめスライドを準備しておくわけなので、いざ話すときにも、基本的にはそのスライドに沿って話せばよい。

ただし、見方を換えると、スライドを使った講義では、あらかじめ決めておいたシナリオのようなものから外れるのがちょっと難しい。また、話と話のあいだに余韻や余白が少なくなりがちである気がする。もちろん、なにを使おうが話し手が間を調整すればよいわけだけれど、スライドはなにかこう、急き立ててくるような気もするのだった。なんだろう、1秒間に何十回と書き換えが生じているコンピュータの画面、しかも光を発している画面に、つい忙しなさを感じているのだろうか。

スライドを使わず黒板に書きながら話す場合、あらかじめ並べておいたスライドに捕らわれず、その場で話を組み立てていくことができる。メモだけ用意しておいて、そこに記した言葉を見ながら、その場で聴講者たちの様子を見つつ、説明を重ねたり、他の例を出したりと、シナリオを生成するスタイルである。

もっとも、スライドと黒板を同時に両方使えるなら、それが一等便利であるとも感じている。教室によっては、黒板の前にスクリーンが降りてきて、スライド投影中は黒板を使えない、なんてこともある。

また、黒板はその広がりも利点の一つである。
考えが展開してゆくのにあわせて、黒板の平面を自由に使える。あれこれ書き付けたものが、一望できる状態を維持できる。これは思いのほか大事なことではないかと思っている。

会社でミーティングをする場合なども、私は極力ホワイトボードに書きながら議論するようにしている。誰かが述べたことを書く。他の誰がが言ったことを書く。両者に関係がありそうならそれも書く。議論の場では、書かないでおけば発言は、口にするそばから消えてゆく。めいめいの記憶に残った断片だけが頼りとなり、あやふやな記憶のまま話すことになる。ホワイトボードなどに議論の痕跡があれば、みながそれを共有の材料として眺めながら話せる。書かれたものが記憶を甦らせるフックにもなる。

黒板に書きながら話す場合も、これと同じで、話の流れとその痕跡が板書に示されて、把握しやすくなるわけである。スライドは、便利な代わりに、つぎつぎと切り替えられていくので、いま見ている20枚目のスライドと、最初のほうで目にしたスライドの関係を、聴講者の側で必要に応じてつなぎあわせなければならない。

ある日の板書

黒板の大きさは、私たちの身の丈と比べても、一望できる程度のものでちょうどよい。私が教鞭を執っている東京工業大学には、床から天井まで壁一面が黒板になっている教室がある。ここで講義をするときは、大きな黒板の前をうろうろしながらあちこちに書き込める。

これはまだ自分でもよく分かっていないところだけれど、ノートに書くのと違って大きな字を書いて眺めるという点も、なにかしら普段とは異なる状態を生んでいるに違いないと睨んでいる。文字の汚さが目立つという点は措くとして、文字が景色のように、あるいは絵のように目に入ると言おうか。

ところで、今年の秋学期は、和洋女子大学で「デジタル・ゲーム学」を担当している。昨年はオンデマンド講義だったので教室には一度も行かなかったのだけれど、今回は対面講義で教室に集まって行っている。その教室にも黒板がある。
それで板書をしながら話していると、チョークで文字を書くときの感触が、東工大の黒板ともまた少しちがっていることに気がつく。和洋女子大学の黒板は、チョークが黒板の表面に当たるとき、少し柔らかいクッションのような感覚がある。東工大の黒板は、もうちょっと硬質で、カツカツという感じ。どちらも好きで、甲乙は付けがたい(付けなくてよろしい)。

そんなわけで、そのうち自分の部屋にも黒板を置きたいものだなあ、などと考えている。

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