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シュティルナーの語っていたこととは?

自由や少数派(マイノリティー)、個人などについても触れており、今私のタイムラインで起こっているに関することにも繋がる話も出てくる。
私の思想を形成する母体の一つになっているので、お時間がある方はお読みいただければ幸いである。

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13年以上前の若かりし頃の私が書いた文章の「一部」であり、哲学にハマっていた時に書いいたこともあり、振り返るとダサいし、ツッコミどころも沢山ある青臭い文章である。
本当は「注」「引用」もあったが、ここに載せるにあたり消していることはお許しいただきたい。

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「肉体は魂の牢獄である」これはプラトンの言葉であるが、マックス・シュティルナー(以下、シュティルナー)は逆に「肉体は精神の所有物である」と考えた思想家であった。安田忠朗氏は『彼にとっては唯一者・エゴイズム、創造的無こそが現実的に普遍なるものであった。

「個それ自体が、一つの世界史」であり、「私が人類の所有人であり、私が人類」である』と指摘した上で、シュティルナーの強烈な「唯一者」は、ベルジャーエフも言えるごとく、決して「ミクロコスモス(小宇宙)」ではなく「マクロコスモス(大宇宙)」そのものであったと語っている。

これを私なりに解釈すると「私」それ自体が「世界」であり、「宇宙」であって、「私」が「宇宙」や「世界」の一部ではないということであろう。
シュティルナーが非常にユニークな思想家である、ということを感じていただけただろうか。

この非常にユニークな思想家である「シュティルナー」は、一時期を除き、一般においてはあまり問題にされなかった。その理由について、稲垣正巳氏は、「いささか粗雑なところもあり、また、あまり科学的でないところもあること」、「社会の存在そのものを否定する、すなわちいかなる体制であれ、そのまま受け入れることのできない過激さがあること」であるのではないかと指摘している。
実際、『唯一者とその所有』を読んでいただければ分かると思うが、何を言っているのかは分かりづらいし、個人の資質や感情などに左右される書物ということは各所で指摘されている。私自身、『唯一者のその所有』を読んだ時は、戸惑ったし、難解すぎると感じた。

文体とそこからにじみ出る内容の過激さとが、非常に読み難くしている一因だろう。これら読解を阻む壁を打ち破るのに必要だったのは想像の異常な飛躍であった。飛躍がないと読めなかっただろうと思う。
見る人が見れば、私がシュティルナーを玩具にしていると思われる方も出るかもしれないが、玩具にしないと読めないと思う。
シュティルナー玩具にする、とはどういうことだろうか。それは、プラグマティズムの範疇で彼を読解するということだろう。

西ドイツの研究者であったC・A・エムゲは、著作『マックス・シュティルナー、精神的に征服されざる傾向』において、シュティルナーの思想をプラグマティズムの一形態とみなしている。
ジェームズはプラグマティズムを「ホテルの廊下」のように学説の中心に位置していると語っており23、シュティルナーも、他者や思想など自分以外のものは道具として捉えている。廊下を走りまわり、部屋の住民とはならず、廊下の住民であった。そういう意味で彼は非常にプラグマティズム的だといえるだろう。要はプラグマティズムは結果的にそうなっているだけで、プラグマレィストであろうとしてなるものではないのだと思う。
最初から、プラグマティストとしてシュティルナーを捉えると、唯一者像が矮小化される可能性があるように思う。先述した玩具にするというのは、何かしらの思想の型にはめて、事物化することとも言えるだろう。

『唯一者とその所有』が出された頃は宗教批判とヘーゲル批判が一応完了し、青年ヘーゲル派は3派に分裂、群雄割拠していくことなり、ブルジョア・イデオローグ、プチブルジョア・イデオローグ、プロレタリア・イデオローグと呼ばれるようになっていた。大沢正道は「ヘーゲル死後、左右に分裂した理由をキリスト教の妥協にあることを指摘、シュティルナーの批判はシュトラウスやフォイエルバッハとは異なり”精神構造”の視点を視点を導入して批判を行なっている。
つまりキリスト教を宗教としてだけではなく、道徳や哲学と関連付けて論じている」と語っている。富沢賢治は「ブルジョアの代表がフォイエルバッハであり、プロレタリアートの代表がマルクス、エンゲルスであり、シュティルナーはプチブルの代表」とし、フォイエルバッハとマルクス、エンゲルスへの批判と、それに対する彼らの反批判について(特にフォイエルバッハに焦点を当てて)『エゴイズムのイデオロギー的特質( 一) エゴイズムの論理』及び『エゴイズムのイデオロギー的特質( 二) シュティルナーのエゴイズムとフォイエルバッハにヒューマニズム』にて、考証している。

シュティルナーは『唯一者とその所有』の刊行後、知識人階級に「シュティルナー・ショック」とも言われる衝撃を与え、マルクスやフォーエルバッハ、モーゼス・ヘスなどの同じ青年ヘーゲル派の人間からも批判の対象とされた。それはシュティルナーが、「唯一者」の立場から、フォイエルバッハ、ヘス、さらにマルクスの「類の存在」概念に対して、真正面から攻撃を開始したからであった。

フォイエルバッハは『キリスト教と神の本質』で、「神」の本質と「人間」の本質を分析し、「神」の本質と「人間」の本質が合一であることを指摘した上で、ヒューマニズムを提唱した。
これは主語と述語を逆転させるという形での神の否定であった。シュティルナーはこれを、神の代わりに人間を据えただけで本質は変わっていないと批判した。
人間は私の上に君臨する。これも支配のためのヒエラルキーであることに代わりがない、と捉えたのだ。シュティルナーから見たフォイエルバッハは「ヘーゲル並びにその絶対哲学に対するあら
ゆる反抗にもかかわらず、やはり抽象論に囚われて」おり、「神学的」なのだ。
シュティルナーのこのような批判に対し、フォイエルバッハは、「人間」を「神」と同等にしないと「神」と戦えないという観点から、次のように反論している。

「現実的個別的な私」を真に解放するためにこそ人間における個と類との区別は必要とされるのである。「人間の根本幻想、根本偏見、根本制限は主体としての神」である故、個人を解放するた
め、まずは宗教の秘密を暴露しなくてはならない。「私」と「人間における本質(類)」とを、区別しない限り宗教の秘密は暴露されえない。個人の解放という目的のためには、まさに人間が神的威力として人間自身から区別するようにしなければならなかった。「神の否定だけが、個体の肯定であり、且つただ感性だけが個体性にぴったりとした感覚」であった。


フォイエルバッハからすれば「本質的な私と非本質的な私への分裂の廃棄であり、頭からかかとまで全き人間の神化すなわち肯定、承認」であり、シュティルナーこそ宗教に陥っているように見えたのである。
フォイエルバッハはシュティルナーの「エゴイズムの絶対的観念論」を批判、「エゴイストは敬虔な無神論者」であるという結論に至っている。
確かに、シュティルナーの唯一者を超越的存在=神とするのであれば、現実性の創造者でもあり被造物(現実性)というシュティルナーの定義と矛盾する。
しかし、シュティルナーのいう唯一者とは、神(GODつまり絶対者・超越的存在者)ではない。それは『唯一者とその所有』の以下の部分からも読み取れる。


実在は抽象である。自我だってそうである。ただ僕だけが抽象ではない、僕は凡ての凡てである。それ故、抽象もしくは虚無である。僕は全にして且つ無である。僕(筆者注:唯一者)は単なる思想ではない。


フォイエルバッハは根本的幻想を「主語として神」であるとしたのに対して、シュティルナーは「本質としての完全性」だとした。
また、シュティルナーが個人の「唯一性」を強調するのに対して、フォイエルバッハは「他の諸個人との同一性」を強調していた。


私は「他の諸個人との同一性」が行き過ぎたせいで、差別や排斥が起こっていると思う。現に多数派が「人間的におかしい」「普通に考えてありえない」などという抽象的言葉で少数派を批判しているのがその例であろう。彼らは無意識なのか分からないが、人間、ヒューマニズムを個人の上に置くのだ。そして定義のない、明文化されていないルールに適さない人間を排斥する。神(宗教)を破壊したのに関わらず、人間が上に来ただけで、ヒエラルキー構造は全く変わっていないのである。だから少数派としてはシュティルナーの言説の方に乗っかったほうが自らを肯定できるのである。


マルクス、エンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』の「聖マックス」と題するメモにて、「哲学者の中でも一番からっぽで一番みすぼらしいこの頭蓋は、自分の思想を哲学の終わりであると宣言するとともに、具体的な生活への凱旋路であると宣言し、こうして哲学をくたばらせるほかはなかった41」と小馬鹿にしたようなことを記している。マルクスがシュティルナーに対して行った批判は、『ドイツ・イデオロギー』におけるフォイエルバッハやバウアーに対する批判とは異質であり、ときにはシュティルナーがまるで過去の自分であるかのような素振りを見せる。シュティルナーに過去の自分をを見出し、近親増悪的な感情をシュティルナーに感じていたのだろう。マルクスがシュティルナーに対し小馬鹿にしたような言葉を吐いているのは、何も可笑しいものではないのだ。


マルクスはシュティルナーの唯一者構想を「哲学者たちの無力のイデオロギー表現」の変種とみなし、シュティルナーの唯一者が「ヘー ゲル流の独断的諸前提なしの思考」であり、「これはヘーゲルにあってもあだな願いである」と批判したが、自己規定性・無限性・相対性という決定的な点においてシュティルナーの唯一者の構想とマルクスの歴史的諸関係は理論的に接合されてしまう。どういうことか。マルクスはドイツ・イデオロギーにて『「精神」はそもそもの始めから物質に「とり憑かれて」いるという呪いを負っている』と語っているように、「商品の価値という幻想」は「商品というもの」に取り憑かれている。商品自体に価値があるのではないのだ。さらにマルクスは資本論で「商品世界の一切の神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧の中に包み込む一切の奇怪事は、我々が他の生産形態に逃げ込めば、たちまち消えていく」と語り、また、歴史的諸関係の4つの契機、4つの側面が「人間の歴史的発展の考察から抽象されるごとく一般的な結論の総括」と前置きした上で、次のように述べている。


「現実的歴史から切り離されては、全く無価値」であり、同時に「決して永遠の昔から直接無媒介に存在している、常に自己同一的な〈産物〉事物なのではなく、〈永遠の成果であるということ〉産業状況の産物であるということ、歴史的〈各時代において〉産物であり、活動の〈産物〉成果」つまり「世代から世代への続く一系列全体の〈産物〉活動の成果であって、世代の各々は先行する世代の方の上に立ち、その産業の交通を拡張し、変化した欲求に則ってその社会秩序を受容させてきた。


「現実的歴史から切り離されては、全く無価値」という考えは、シュティルナーに置き換えれば「自分から切り離されては無価値だ」と言い換えられるだろうが、同時に以下の文はシュティルナーの価値観とは合わないだろう。

シュティルナーからすれば、活動の成果で先行世代が作ったものは所詮、先行世代のしかもその一部のものであって、一系列のしておる時点で、ここの唯一性を無視していると映るだろう。
これは労働観でもシュティルナーとマルクスは相容れないことと繋がる。シュティルナー はエゴイスティックな労働、つまり労働がそのまま労働者自身の能力表出となり、固有の使用価値を生み出す労働の概念を突きつけて、「人間的諸労働に対する一般的な値踏みは定めさせても、君の唯一性からその功績を奪わせてはならない」と語り、「単なる1つの部分、社会の一部分と見なすことは個体には耐えられない。というのも、個体はそれ以上のものであるからだ」と述べている。これは住吉氏も指摘するように、「(ノージック、ランド型)リバタリアニ ズムに近いとも解釈できる労働観」であって、マルクスの労働観とは違っている。

マルクスがシュティルナーを評価できないのは「生産力・交通形態の歴史的発展に応じてこそプロレタリアートによる革命が生じるはずである」というマルクス主義的因果に誇示している からである。かと言って完全にリバタリアニズムと合致しているわ けではない。リバタリアニズムにおける個人的自由は、各人の私有財産の保護を、政治機関(国家)が他者からの侵害から護ることを前提としているが、シュティルナーは国家所有の権力によって不 可侵の権利を保護されるのを拒絶し、中世的な所有権と近代的な所有権とを対置させ、ブルジョアの既得財産権の保護に陥るのを 防ごうとし、労働者のブルジョアへの攻撃、つまりブルジョアの財産を 奪う行為略奪、サボタージュ、ストライキなどを肯定しているので ある。
マルクスは交換価値が具体的現実の使用価値や労働の差異を消去することを、ブルジョア社会の錯覚としたのに対して、 シュティルナーは、幻想による固有性の抑圧と捉えていた。

つまり 「幻想(幽霊)の克服」に「エゴイズム」を用いるのか、「コミュニズム」のかの違いであって、社会認識においては基本的に似ているのである。 このマルクスとシュティルナーの社会認識の類似性に関しては、マル クスの盟友であったエンゲルスも「私たちはシュティルナーの到達した地点から出発しなければならない。そしてそれをひっくり返さな ければならない」と語っている。

シュティルナーは「エゴイズム」によって「幽霊を排除できる」と考えた。
マルクスは、幽霊を「労働者のもの」としようとした。この違いで彼らは論争したのである。マルクスから見ればシュティルナーが非現実 的な夢想家に見えたのだろう。

ちなみにエルンスト・ユンガーは、国 家と個人を同一化し、国家と個人を精神的に融合することが良い といっていたりする。要は国家の成功が個人の成功と同じであると いうことである。ここで勘違いして欲しくないのは、国家の下に個人 を従属させるわけではないということだ。繰り返しになるが国家と 個人が同一化するということであり、というくらいの領域に行くと いうことである。彼の場合、「塹壕体験」による兵士たちの一体感 を基盤として、そういう考えに至った。
もしかしたらマルクスは、 「労働体験」によって労働者たちが一体感を持つことができ、それ を基盤に「隣にいる個人も私だ」という境地に至れると考えたので あろうか。
ちなみにユンガーは『労働者』という論考で、労働者も塹壕中の戦友の連帯感と同じような感覚に至れることを語っていたりする。

話を戻そう。

マルクス主義とアナーキズムの間の不一致は、人間とか個人に対 する関心の多少に関するものではない。両者が一致しないのは、個 人がその内面的な発達と人間としての最大限の自由にとって必要 な諸条件を、いかにして取得するか、という点である。このシュティルナーとマルクスの対立は、後(第一、第二インターナショナル) においてアナキズムとコミュニズムが分裂していくことを暗示してい たのかもしれない。

私は、シュティルナーは「夢想家」であり、その思想は実践的でな いと考えている。しかし、マルクスのような路線にも乗っかれない。マ ルクス路線は、シュティルナーがいうように結局、新しい主を生んだ んだけであった。かと言ってシュティルナー路線は近代化した世の中 において、反近代的な方法を用いて、近代に勝てるわけはない。

シュティルナーのエゴイズムを前提としつつ、近代に適合した方法を考え なければならないだろう。


エゴイストは自由主義者と自同一視されることがあるが、シュ ティルナーは『唯一者とその所有』において「自由の友は利己に対し て憤る、なぜなら、彼らはその自由を求める宗教的努力において、 かの崇高な自己否認から自分自身を―解放しえないからである。 自由主義者の怒りは自我主義者に向けられる。何とならば、自我 主義(エゴイスト)は決して或物についてその物のため骨を折ること もなく、むしろ自分自身のためにする」と自由主義者を宗教的努 力をしている宗教者と規定し、彼らと目的を携えないことを記し ている。そして「自由を与えられた者は奴隷より他の何者ではない 」という言葉で自由主義者に批判を加えている。

『唯一者とその所有』にてシュティルナーの最大攻撃対象が、政府 に対して国家公民として諸権利保証を強く要求していた自由主義運動陣営であった。シュティルナーは自由主義を「政治的自由 主義」「社会的自由主義」「人道的自由主義」と分類した上で「観 念的に設定された理想的《人間》像しか存在を認めず、現実の 人々については、それらをその理想像にどう当てはめ、そのような ものとして取り扱うか、そして収まりきらない部分を偶然的なも の俗悪な部分などとしていかに視界から除外するか、という点し か関心を持たないこと」であり、「公的生活もしくは国家生活」の 側面しか見ていない、それは「政治的動物」でしかなく、「市民的自由」しか問題にしていないことを批判している。

「政治的自由(ブルジョア自由主義)」に対してはプロテスタンティ ズムの第二形相であり、「人の支配」を倒したが、「事」や「理性」の 下で屈服し、だからこそ「富者が無産者を一個のものである金銭 によって制限」をしても、国家や法律によって束縛しても問題ない ことになり、「市民的政体のもとにおいては、労働者たちは常に有 産者らの手中に陥る」と分析する。

「社会的自由主義(共産主義)」に対しては、万人が「襤褸の 人」になることで、たしかに「個別的な福祉」の転がり込む「一六勝 負」や「競争主義」は終りを告げ、それは「『人道』のためにされた 第二の『個人性』掠奪」となり、「僕らはそれに一切を負うていると ころの社会は、一個の新しい主人であり、新しい幽霊であり、僕ら に『奉仕と義務とを課する』新しい『最高の本体』である」と分析す る。

「人道的自由主義(批判的自由主義)」に対しては、「①個人は人間ではない。それゆえ、彼の個性は重んずるに足りない。個人的 意思なく、専横なく、命令あるいは訓令なしである」「②個人は 人間的な何物をも持たない。それゆえ、僕のものや君のもの、もし くは財産は重ずるに足りない」「③個人は人間でもなければ、人 間的なものを持ってもいないから、彼は全体生存すべきものではな い。一個の自我主義者として彼の自我的なものとともに、批判主 義によって絶滅され、人間に、今はじめて発見された人間に、席を 譲るべきである」という3段階に分け、「真の人間、普遍的な、無偏 見で完全な人間」になろうとし、「キリスト教の愛の教理、真の社 会的教理がもっとも純粋したもの」で、「排他と反発とを人間から 取り除こうとする最後の可能な実験」であり、「新しい執行、人類 あるいは自由の信仰が生まれ、個人の神に代わりに今や万人の神、 人間が崇められる」と分析する。


シュティルナーは自由主義者の語る自由は「理性的秩序」たる国民国家に支配拘束されるものであるということを見抜いていたので ある。フォーエルバッハを語った所で指摘したように、「自由」という 概念を自らの上に置くという形態は神を人間の上に置くという宗 教の形態と同じでしかなった。
しかもこの「自由」なるものは抽象的 で、アメーバのように常に変化していくものである。倒そうとして も形を変える厄介なものであり、キリスト教などの宗教のように 経典を持っていないが故に強いのである。シュティルナーは「自由はそ のものから免れてある、あるいはのがれている状態」であり、「ある特定の自由に対する熱望は、常に新しい支配に対する意図を含 むものである」と語っている。

これは非常に当たり前の話であり 、完全な自由などは存在し得ない。人間が肉体に縛られている時点で、可動領域、行動領域に制限があるし、思考においても、カントのいう感性のアプリオリたる「時間・空間」の概念を超克した 思考はできないのである。

つまり自由主義者の自由は特定のものへ の自由でしか無い。自由主義者は自由という概念を道具だと捉え ず、それ自体を信仰としてしまっている。
故に彼は自由主義をも 批判対象としたのだ。 また、「トルコ王国においてはトルコ王法律を尊敬し、共和国にお いては民衆の法律を、カトリック自治区においては宗門の法律を尊 敬しねければならぬ。僕はこれらの法律に自分を従わせ、それら を神聖と考えねばならぬ。このような権利の観念と法律遵奉の精 神とは人々の脳裏に深く食い入っているので、その結果、今日の最 も革命的な人間たちですら僕らをして新しい聖なる立法、社会の 法律、万人の権利などに従わせようと欲する」と法律などのすべ ての個人を縛る諸制度に対して異議を申し立てている。

そういう 意味で彼は徹底した自覚的エゴイストであり、法律さえ否定して いる。彼は徹底して自力救済をすることを肯定しているのだ。そういう意味では近代社会を徹底否定していると言える。
中世的価値観であると言えるのかもしれない。 シュティルナーは近代人ではない、脱中世人である。 彼は近代社会を認めておらず、中世からの発展ではなく、発展では何も変わらないと主張した稀有な思想であった。

保守の立場とは違う近代批判を展開している。シュティルナーは「僕の力は僕の 所有である。僕の力は僕に所有を与える。僕の力は僕自身である。 そしてそれによって僕は僕の所有となるのである」と語る。

ここで 語る「力」は単に暴力だけではない。経験もそうである。外部にあ る知識を自らのものにすることでそれは自らのものとなる。外部に あるものを取り込んでいくのである。カントは感性の先験的認識 (アプリオリ)を「時間」と「空間」であると語っている。もしそうであ るのであれば、今の「私」を形成しているものは元々は外部にあった ものであった。外部にあったものを経験によって私の所有していった。 所有していくことで私を構築していく。外部は潜在的に僕のもので あり、それを力で所有することも可能なのである。シュティルナーの 語る唯一者はまさに「宇宙」である。唯一者という事物があるので はないし、統一された教条があるわけではない。唯一者自体が「世 界」であり「宇宙」なのである。先述したように「私」とは確固たる 何かがあるから「私」なのではなく、経験などで外部のものを取り 込んだものの総体が「私」なのである。無限の選択のあるタグの無限 の組み合わせで私が構成されている。だからこそ「唯一者」なのだ。 時間と空間というアプリオリで構成された(宇宙)空間に、経験や 体験などの様々な星(惑星)が放り込まれていく中で、宇宙が構成 されていくと考えると分かりやすくなるだろう。タグとして、いく つか共通していようとも、全てにおいて一致しないから「他者」は 「他者」なのであり、人間は皆、「唯一者」なのである。外部からの 影響でタグが構成される以上、家族や同級生のタグの総体が似て くるのはいわば当たり前の事で、家族や幼馴染みとの独特の距離 感とは環境が要因としてあるのである。労働の場に出て、多くの人 が疎外や居心地の悪さを感じるのは、自分を育んでいた場と今い る場との違いによるものだと思う。育まれてきた場にいる他者(家 族や友人など)は、先述したようにタグが一致することが多いが故 に、他者を他者として明確に感じずに過ごせた。しかし、そこから 離れた労働の場に出るとタグが以前に関わっていた他者より違う 他者が多いということもあり、他者を強く意識せざる得なくなる。 それが疎外感を感じさせるのだろう。無論、その人や育まれた場 所にいる他者によってどの位のタグの違いから疎外を感じるのかは 違う。

1割程度しか違わなかった他者が多かった環境から、3割、4割も違う他者がいる環境に放り込まれているかもしれないのだ (割合については、場所や各人によって異なる事が前提である)。川 で泳いでいた魚が海に振り込まれるような経験をしているのである。 話がずれてしまったが、類や人間、ヒューマニズムなどというものの 下に「私」を置くのは「私」ではない。この考えは仏教の無我論にも 近いものを感じる。シュティルナーの「エゴイスト」は「私」を「絶対者」 とするような一神教的なものではない。これがまさしく自覚的「エ ゴイスト」なのである。無自覚「エゴイスト」は、「私」を「絶対者」とし ようとした「エゴイスト」であり、しかもそれに「無自覚」なのである。

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