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まともな大人のふりをして

 まるで自分が立派な大人であるかのように振舞ってきたけれど、まるで自分が常識のある一般人のように生活してきたけれど、ポンコツだとか詰めが甘いとかそんな言葉では片づけらないないような、結構やばいレベルで社会に適応できてない人間だったことを思い出させられたことがあった。つい最近。

 化けの皮が剥がれた途端に、人間の形を保てなくなるよね。何言ってるかわからないと思うけど、罪悪感というか失望感というものだとか、あとは現実と向き合う恐怖や絶望みたいものが、身体の表面をあっという間に覆い隠す感じ。ぶよぶよになった皮膚とドロドロと境界線をなくしていく身体の内側に、痛みよりももっと怖い何かとしてそれは私に認識させる。これに似た感覚はどこかであったな。中学生の頃に初めて自傷行為をしたときのあれだ。あれには比べようもない重さだけれど、いずれにしても、もう存在することすら耐え難い苦痛だったことに違いはない。(過ぎ去ってしまえば、それはいくらでもどうにでもなるような、大したことじゃなかったりするのにね。)

 こうなる前にもっと早くなんとかすれば良かっただけの話なのだけれど、わかっていたはずなのにそれが出来なかった。しかも、一度や二度じゃ無い。同じ過ちを何度も繰り返し、治すことができなかった。こういう私の状態って、おそらくは病気だとか、障害だとか、疾患だとかになってくるのだろう。根性論ではどうにもできない。こういう時は、専門のプロにちゃんと頼らなければいけなかった。自分で頑張っても頑張れなかったんだから、そんなの一生解決しない。

 今回、病んだり自暴自棄になったりを許されない環境に身を置いてみて、初めてそういう自分と(というより、現実的な問題と)ちゃんと向き合えるような気がする。時代に合わない荒療治かもしれないけれど、今こうして冷静に言葉が並べられてるので、多分私には合っているのだと思う。

 それでも、泣いたり喚いたりはする。泣いたり喚いたりしても仕方ないと思いながらも、ポジもネガも関係なく感情は移り変わっては、時に溢れる。でも、この感情に罪はないし、泣くことですっきりして考えがまとまることもあるってどっかの鉄仮面も言っていたので、それは許している。

 というのも、豊かな感受性と多様な感情は、私が一番大事にしたい才能だから。これは、殺してはいけない。殺してしまったほうが楽になれるのだろうけれど。

 心はいつも素直に揺れ動く。細い糸で吊り下げ荒れた振り子みたいに、刺激を受け続ければ止まることはない。いつでも、どんなときでも、私の振り子は与えられた影響に素直に反応している。それと同時に、頭も回る。この振り子の動きはどういう感情なのか考える。自分の感受性の謎を、いつも追い求めている。

 でも、本当に考えなきゃいけないのはそんなことじゃなかったな。大事だったのは、どうしたらその振り子に「私」自身が振り回されないか、だ。私は、根性がない。意思も弱い。好きなことでないものは継続も苦手だ。モチベーションだ、メンタルヘルスだ、なんだかんだ言い訳して、逃げることが多かった。正直な振り子は、いつも私を支配していた。

 でも、今回は支配から脱した気がする。自分の振り子が荒ぶる中で、平然を装い日常を過ごせた。装う、というのはちょっと違うかもしれない。借り換えや、切り離し、みたいなものだった。振り子の動きを抑え込んだわけじゃないし、感じることや考えることをやめて心を殺したわけでもない。荒ぶる振り子の動きを認め、受け入れながらも、もう一つの振り子を用意していた。目の前から受ける影響はそちらの振り子が応える。それで問題なく、一日を終えられた。自分でも驚いた。

 でもこれって、やれて当然じゃないか。「役者」なら。

 社会に適応して生きている人たちは、自分がどんなに辛くても苦しくても、それ以上に絶望的で破滅的で壊滅的な状況にあっても、今日を生きるために身体に鞭打って笑って仕事をしているんだ。たった一日ごときで、私は心と体がばらばらになってしまったけれど、世の中にはきっと「役者」以上に「役者」があふれているんだろうな。

 まともな大人のふりをして、まともじゃない大人がいる。
 もしかしたら、まともそう大人も皆、まともなふりをしたりしてるだけかもしれない。
 まともなふりをした後で、心と体は平気でいられるのかな。
 そんなことにも、いつの間にか慣れてしまうものなのかな。
 それは人間としての劣化か、成長か。
 そんなのはきっとその人が、その後、どうなっていくかによるんだろうな。

 とにかく、考えろ。
 考えることを、止めちゃいけない気がする。

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