伝説から考えるShiny Seven Stars 4話

私は、学生時代伝説について少し勉強していた。なので、今回は伝説という観点から、Shiny Seven Stars 4話を読み解いていきたい。無理やりな解釈もあると思うが、あしからず。
「王に選ばれし者、オレンジのフラミンゴの祝福を受ける。」
これが4話においてメリナにより語られた伝説である。1つずつ見ていこう。まず、「王に選べれし者」は、文字通り王となる人物を指すであろう。
次の「オレンジのフラミンゴ」、これの意味するところは何であるのか。現実のフラミンゴは、もちろんピンクである。つまり、生物としてのフラミンゴを指していないことは明白である。この答えは、カケルのプリズムショーにある。天然ガスの炎が、フラミンゴをかたどっている。つまり、オレンジのフラミンゴとは、天然ガスなのである。厳密にいうとガスフレアらしいのだが、この分野には明るくないので、ここでは天然ガスと捉える。
最後は、「祝福を受ける」である。辞書でみると、祝福には一般的な幸福を喜ぶこと以外に、神の恵みが与えられることも意味するようである。すなわち、天然ガス自体を神による恵みと捉えることができる。あるいは、天然ガス自体を擬人化(擬鳥化?)して、天然ガス自身で王たるものを選定すると捉えることもできる。伝説の中の「の」は主体を示すものに思うので、後者ではないかと私は捉える。また、ショーを見ると、動物も登場している。ここを踏まえると、一般的な幸福を喜ぶ意味も含み、それは人だけでなく動物さらにいうなら自然それ自体からの喜びも含んでいるとも考えられるのではないだろうか。
これらを踏まえて伝説を解釈すると、「王に選ばれるにたる人物は、天然ガス自体により天然ガスを恵みとして与えられ、それを人だけでなく動物からも祝福される」とでもなるだろう。
ここで改めて伝説そのものについて考えていきたい。私が学生時代取り扱った伝説は、内容が改変されていった形跡があった。それは、ある派閥の正統性を示すためである。そのために、異なる伝説を取り入れ、そことの整合性をとるために改変された。また、時代を経ると、描きたい人物像との整合性をとるために改変された。ここでいいたいのは、伝説とはある人物の正統性を示すための創作に過ぎないのである。伝説があるから正統性が担保されるのではなく、正統性を担保するために伝説を作っていくのである。もととなる事実が存在したのかもしれないが。
これを4話における伝説について考えると、王になれる人だから天然ガスが出たのではなくて、天然ガスが出たから王になれたのである。過去の王は、天然ガスが出たことで人から喜ばれ、富を得、王になったのだと推測できる。
ただ、こう考えると、正統な王族であるメリナはもちろん、天然ガスを採掘できる技術を持つはずのリヴィングストンが天然ガスを掘ることができないことが疑問になる。最初に作られたときの経緯は推測することしかできないが、現状としてただ血統や技術を持つだけで天然ガスを採掘できなくなっているのである。ここが、この話もっというと菱田正和監督の面白さだと思う。伝説が伝説としての効力を持っているのである。ただの創作物でなくなっている。
では、なぜメリナやリヴィングストンでなく、カケルが王に選ばれたのか。そこを考えていきたい。
まず、メリナとはどのような人物なのか。マダガスカルの王族の末裔である。しかし、都会に憧れるという側面ももつ。広大な自然も都市化できないのなら無用の長物と考えている節もある。一方のリヴィングストンは、左遷させられた児玉専務を父にもつ人物である。明言はされていないが、天然ガスがでなくても問題ないと見られるあたり、自然を守っていければいいと考えているように思える。したがって、カケルはこの2人とはスタンスが異なっていなければならない。プリズムショーを見る限り、自然と都市化の両立を望んでいると思われ、その両立が王に選ばれる条件ではあるだろうと推測はできる。では、その相反する2つをどう両立していくのかが問題となる。ただの両立ではなく、「祝福」されうる両立をなし得ないといけないのである。
ここで、Shiny Seven Starsという物語を考える。エーデルローズのメンバーのルーツやプリズムショーとの出会い、それらの再認識とアイデンティティの確立といったものがテーマにあると私は捉えている。それらのテーマをカケルに当てはめると、第4話のタイトルにもある「愛」という単語が浮かび上がる。数字としてプリズムショーを捉える描写が多かったカケルとは、正反対にあるような言葉である。しかし、この愛が大事であると教えられてカケルは育ってきているのである。ただ現実としてあったのは、愛を唱えていたが失脚させられた児玉専務と、愛を否定し台頭する真田常務と、愛を唱えながらも君臨した万太郎というものである。この三者三様の現実と愛との乖離がカケルを悩ませたであろう。
そうしたときに出会ったのが、プリズムショーである。カケルはその頃のプリズムショーを数字で捉え、愛も存在したのであろう。しかし、エーデルローズに入り、プリズムショーの現実を知り、「エーデルローズは死んだ。」と言わしめるほどに絶望を味わうのである。財閥内とも変わらない現実がカケルにつきつけられたのである。そういった精神状態の中で、シンのプリズムショーを見て、初めてプリズムショーを見た気持ちを思い出すのである。ただ見ている人を笑顔にするというミクロな思いに気づくことで「愛」とは何かを理解したのではないだろうか。どうしてもマクロな視点で物事を捉えることが多いカケルには正反対となりそうな考えである。そういった愛を持つことが、伝説に認められたのではないかと考える。自然と人間双方に愛を持って接する人間が王たる人物ではないのだろうか。そして、物語の最後で、過去に自分が発した愛をリヴィングストンによって肯定されるのである。たとえそれが自覚のない愛でも他人に届き、それは巡り巡って自分にも帰ってくるのである。これがプリズムショーのあとに示されるのが、重要だと考えている。今現在の考えが、過去の自分のものと同じということを示し、決して今回限りのものではないとわかり、更には過去の行いを肯定するものとなるである。
すなわち、目の前の人や自然を大切にするという思いを持ったものが天然ガスの採掘することができるのである。ここで重要なのが、都市化を望むだけでもなく、自然を守るだけでもなく、その両立が目標なのである。ミクロな愛をもってして、この相反する2つのマクロなことを成立しうる人物だと認められた。そして、伝説が成就したことでカケルの成功も約束されるのである。

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