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【hint.467】何かしらの「完璧さ」を求めることは

「理論(主張)は極端なほどいい。人として、その状態まではいけるという幅ができるから」

これはある時から僕が採用している考えです。

確か、養老孟司さんか齋藤孝さんどちらかの本の中で、そのようなことが書かれていたものを読んだことがきっかけだったのではないかなぁ。

その理想とされる状態、もしくはそうなってはいけないとされる状態が、言葉によって具体的に示されている。

「◯◯でありましょう」と、肯定的な表現で、直接的に理想像が表現されていたり、あるいは「◯◯はしないようにしましょう」と、否定的な表現で、含みをもたせるかたちの表現がされていたり、いくつかのパターンがそこにはあるのだけれど。

そして、何かしらの「完璧さ」を求めることは、必ずしも「良い」ことなのか? という声も、度々ぼくの頭の中にあらわれる言葉です。

何かしらの「完璧さ」を求めている様子を、もう一つ大きな「何かしら」をふまえて見れば、まったくもって「完璧さ」とはほど遠いものになってしまっている。

そんな状況がよくあるように思います。

たとえば、ある男性が「仕事」における「完璧さ」(だけ)を求めている様子を、もう一つ大きな「人生」という点から見てみれば、どう考えても「完璧」ではない。むしろ、人生においては大きく「完璧さ」を欠いてしまっている。という状況は多いのではないかな、と感じます。

ここで大切なのは、「今その瞬間の自分が、何かしらの「完璧さ」を求めている、かつ、もう一つ大きな「何かしら」の視点からすると、「完璧さ」が著しく損なわれることをしている」ということを自覚できているか、ということなんだと思います。

これは、主語を「自分」から「自分たち」に変えても同じことが言えるんだと思います。

自分が、自分たち(全員)が、もう一つ大きな「何かしら」の視点も共有できている、そこに納得できている、ということは、「楽しい」とか「嬉しい」とか「幸せ」とか、そういった満足感のある生活に大きく関係しているのでしょうね。

 Antonovsky(1997)は,人々は健康でもあり病気でもあることに気づいた.つまりそれは,健康な人のなかに病的な部分が潜み,病人の中にもまた健康な部分があることを意味する.健康な人は「それほど病気でない」に相当する.もしくは精神状態によって「それほど健康でない/どちらかといえば病気」というように,彼は「健康と病気」の概念のなかに2つの対極をもつ1つの連続体をとらえ,すべての人が両極間のどこかにあるとしている.『人は健康と病気の状態の間を動くものであり,純然たる健康な状態は,完全な病気と同じくらいにまれである』(Antonovsky 1997).
(「『「観察による歩行分析』著:キルステン ゲッツ・ノイマン 医学書院 2005年6月1日出版」より)

今朝、この本の中から気になるところを選んで読んだところ、上記の引用部分にあたったのですね。

そして、冒頭から書いたようなことを感じたのでした。

今日のあなたにも、「もう一つ大きな何かしら」の視点を感じられて、元気になる瞬間がたくさんありますように。

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