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【hint.455】おっとあぶない

今朝の一冊はこちらになりました。

 もっとも、詩や歌といったものの魅力は、そのコトバの
「ボンヤリしたところ」
 にあるのではないだろうか。うたわれているあなたはだれでもいい。ここはどこにでもなりうる。それは輪郭がハッキリしない、すこしピントのぼけたコトバだ。その分、ひろい範囲をさししめし、ときにココロの奥にひびく。
(「『文・堺雅人2 すこやかな日々』著:堺 雅人 文藝春秋 2013年7月10日出版」より。以下の、引用部も同様。)

* * * * *

今朝も、いつもよりも早めに起きて、目に入る本棚に並んでいる本をボンヤリと眺めるという目覚めでした。

そして、その中からこの一冊に、久々に目が止まったのでした。

勢いにまかせて開いたページ。

「ぼくは目がわるい」というタイトルの文章が、今朝の出逢いでした。

堺さんはとても視力が低いようで、世界がボンヤリしていると。

ぼく自身は、視力の高い状態しか経験がないので、その感覚は、実際にはわからない。

 いまの視力はよくわからない。ゼロコンマ、ゼロゼロいくつといったところだろう。メガネをはずすと、水中で目をあけたときのような、ボンヤリした景色がひろがる。輪郭はぼやけ、色彩がにじみ、明と暗がどんより溶けあう、そんな世界だ。

こういうコトバによる表現をたよりに、想像をしてみることしかできない。

「大変そうだな・・・」

そう自然と考えている僕。

ただ、堺さんはこんなふうにも書かれている。

 もっとも、三十年ちかい近眼歴のおかげで自分の目のわるさにもなれてしまった。こどものころの視力検査を別にすれば、
「目元にメガネのあとがついて、時代劇などのとき、メイクさんがこまる」
 ということ以外、とくに不都合もおもいつかない。これは半分つよがりだけど、
「自分の視界をボンヤリできる」
 ことは、立派な特技とさえいえるのではないだろうか。

おっとあぶない。

自分のものさしだけで、人を決めつけてしまうところだった。

これは半分つよがりだけど、

そう書かれてもいるから、実際にやっぱり、視力が高い状態よりも大変なこともあるのだろう。

だけども、堺さんは「視力が低くて大変なおもいをしている人」と、ひとつのレッテルだけを僕が勝手に貼り付けて関わる、そんな暴力的なことはないからね。

実際、この後に「ボンヤリした視界のほうが、邪魔な遠景はかすんで消え、相手役に集中できる」といったことを書かれているけれど、これについては、正直なところ羨ましい。

見えすぎる、感じられすぎるって、ときどき(けっこう)疲れちゃうから。

そういえば、RADWIMPSの歌詞にも、そういったことに触れたものがあったっけ。

「この目が2つだけでよかったな、、、」みたいな。そんな感じの曲。

いろんな世界との関わり方がやっぱりある。


なんだか、冒頭に引用した部分についての話があまりできなかったけど。

この「ボンヤリ」と触れる感じの方が、伝わるものもあるかもしれませんね。


うん。今朝もいい時間が過ごせました。


今日のあなたにも、たくさんの元気になる瞬間がありますように。

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