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余寒の京都旅「わら天神宮 敷地神社」1.鳥居と境内社


「挨拶を無視されただって?そんな細かいこと気にすんなよ。俺なんかいつも頭下げて挨拶してるけど一度も反応してくれなかったよ。鈴鳴らしてお賽銭も投げてるってのに。」


趣向を変えてアメリカンジョークから始めてみました。タクシーネタと同じくらい芸能人の間で消費されるのが挨拶ネタでしょうか。儒教では礼儀を人の道として踏み行なうべき最も重要な規範としています。日本人は無宗教だと言われて久しいですが、実際は仏教と神道と儒教が深く根付く多神教文化圏なんです。

「生徒が学校の掃除を行なうのはおかしいじゃないか」と数年前に騒動になったことがありました。生徒による清掃は修行の一貫として境内の掃除を行なう仏教に大きく影響を受けていると思われます。事実キリスト教国家のアメリカでは学校の清掃は業者が行なっています。アメリカがそうだから日本もそうしろ、という主張はあまりに身勝手で無思考であるとハッキリ断言できます。なぜそうなったのか。文化や歴史的な背景をちゃんと見ていかないと同じ過ちを繰り返す結果となってしまいます。何かに対して怒りを示したらたしなめられるというのも日本特有の光景ですかね。っていうか感情むき出しだった私はいつも同級生たちに白い目で見られ、大人たちによく叱られましたものでした。喧嘩を売った側にはお咎めもなし。喧嘩を買った側が全部悪い。これも怒りの感情を捨てよという仏教の理念から来ているものだと思われます。そういえばちょうど二年前にアカデミー賞でウィル・スミスさんが平手打ちしたことが問題となりました。暴力ではなく皮肉で返していたらまた違った結果になっていたことでしょう。そこらへんも喧嘩そのものを「みっともない」とする日本とアメリカで大きく違うところです。このように日本も宗教観が深く根付いているわけですが、戦後教育による行き過ぎた政教分離により、宗教が公立学校で一切触れられなくなってしまいました。なぜ学生が学校の清掃をしなければいけないのか。なぜ挨拶は大事なのか。理由を教えられないまま社会に進出し倫理観が欠如する大人たちが増殖する事態へと陥りました。現代に見られるこの現象は戦後教育によるものだと思われます。

ごめんなさい。共感を得たくてちょっと偏ったこと言っちゃいました。たとえ国家や学校が宗教観や倫理観を教えたところで人間の本質ってそんなに変わるものではないんですよね。世の中にはいろんな人がいる。どんな教育体制にあっても画一的にはならないことを社会人の多くが感じています。

宗教とはまったく関係ないところで生きていると思い込んでいる日本人は多いと思います。しかし実際は年上を敬う儒教であったり、幸福を願う神道であったり、争いを好まない仏教であったり。日本に国教はありません。でも宗教って日本人の根幹をなすものなんだなって。人生を振り返ってしみじみ思う日々であります。

ではそろそろ旅の続きに参りますね。


神域の入口を意味する鳥居。

素敵な扁額が多いのでいつも仰ぎ見るようにしています。空も同時に見えるので気分が清々しくなるんですよね。鳥居の前にきたら頭を下げるのが礼儀ですが昔からあった作法でしたっけ?まだ慣れなくてついつい素通りしてしまいます。


狛犬阿形さん。

後ろの木は松でしょうか。そういえば北野天満宮も松ありますよね。このあたりの特色なのかしら。


狛犬吽形さん。


白い小さな衝立、かわいい。


わら天神宮こと敷地しきち神社は東側から入り、右を90度曲がったところに本殿があります。

なぜそうなっているのか詳しい経緯いきさつはネットで調べてもわかりませんでした。人通りの多い西大路通が東側にあるからだと推察されますがどうでしょうか。


手水舎です。


石を彫り抜くタイプの手水鉢に初めて出会いました。

周りに植物が生えていて庭園みたいに趣があっていいですね。花手水とは違った味わいがあります。


大きな建物を発見。

蔵?


えっと、神具庫って書いてる。

なるほど、昭和42年建立ということでおそらく今風に蔵をリノベーションしたのでしょうね。現在は休憩所として活用されているようです。


今回は境内社を主にご紹介したいと思います。

樹木が御本尊となっているこちらのお社。


末社 綾杉明神あやすぎみょうじん
樹齢千数百年に及ぶ神木綾杉の霊を祀るもので、綾杉のあやとは、黒いという意味とも、木目のこととも、葉に綾があるからだとも言われています。三十六歌仙の一人、清原元輔きよはらのもとすけ(枕草子の著者である清少納言の父親)の次の和歌が「拾遺和歌集しゅういわかしゅう)」に撰録されており、平安時代当時すでに著名であったことが分かります。

 生ひ繁れ平野の原の綾杉よ
  濃き紫に立ちかさぬべく

現代語訳:赤子よ、綾杉の枝葉が大きく繁るように立派に成長しなさい。濃い紫のほうを着られる、三位の位を得られるように。
注釈:友人源遠古みなもとのとおふるの子の誕生に際し、その子が六位の色である杉の緑から、三位の色「濃き紫」へと昇進できるように祈った歌。

応仁の乱の兵火を逃れましたが、1896年8月の暴風により惜しくも倒壊し、僅かに二メートルほどの幹を残すのみとなりました。しかしながら当時既に樹齢千数百年とも言われたことから神木として崇敬する者が多いため、残った幹に素屋根をかけ、「綾杉明神」として祀るようになりました。

駒札"由緒"より

清原元輔は、NHK大河ドラマ"光る君へ"第六話で親娘揃って初登場を果たしてましたね。藤原道隆主催「漢詩の会」でききょうがまひろに異論を唱えた場面が記憶に新しいかと存じます。

袍という名の服(上着)が和歌の現代語訳に書かれていますが、こちらも大河ドラマをご覧になられている方ならピンときていることでしょう。青年貴族である藤原道長の投稿時点での官位は従五位下じゅ ごいのげ・右兵衛権佐《うひょうえのごんのすけ》)なので浅緋あさあけ色の袍を着用しています。平安時代において紫色の染料はとても貴重で、それゆえ高貴な人だけが紫色の袍を着ることは許されていました。

わら天神宮は子授けや安産祈願の神社です。お礼参りの際に子の大成を願う親たちが、清原元輔の和歌にあやかろうと綾杉明神に願掛けしていったのでしょうね。綾杉のように元気で長生きしろよと。


こちらのお社は、末社の大山衹おおやまつみ神社になります。


末社 大山衹おおやまつみ神社
御祭神:大山祇神
御神徳:海上守護、農業守護、鉱山守護

大山祇神はわら天神宮の御祭神、木花開耶姫命このはなさくやひめのみことの父神です。木花開耶姫命とともにその姉、磐長姫命いわながひめのみことを貢ぎました。しかし瓊瓊杵尊ににぎのみことはあまりに醜かったので、大山衹神に返してしまいます。大山衹神は天子の命が石(=磐長姫命)のように恒久であれと契約して貢いでいましたが、磐長姫命が返されたことで、瓊瓊杵尊の子孫である天皇及び人間は長寿ではなくなったとされています。
瀬戸内海の大三島に鎮座する大山祇神社は、全国の山祇神社、三島神社の総本社であり、源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈りました。
大山祇神社もそのような神社の一つです。

駒札"由緒"より

瓊瓊杵尊と木花咲耶姫命と磐長姫命の日本神話は記憶に残りやすいエピソードの一つかと思います。

木花咲耶姫命といえば私なんかはいつも咲くやこの花館を思い出します。1990年に開催された国際花と緑の博覧会で大阪市のパビリオンとして建設されました。現在も運営されています。難波津の歌が由来なんですけどね。

木花咲耶姫命は安産や子育ての神様ということで、わら天神宮に末社として勧請されたのでしょう。


そしてこちらのお社が末社の八幡神社になります。


末社 八幡はちまん神社
御祭神:応神天皇、神功皇后、比売大神
御神徳:開運厄除け、必勝

八幡神社は、大分の宇佐八幡宮を発祥の地とし、平安初期に男山の地に石清水八幡宮、平安末期に鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請され、その後日本全国に勧請されるようになり、その数は約二万五千社にのぼるといわれています。
皇室の崇敬はもとより、源氏の氏神として篤い信仰を集め、石清水八幡宮の御神前で元服した源義家が「八幡太郎」と称したことは有名です。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとともに鶴岡八幡宮を関東総鎮守として崇敬するようになった後は、武家の守護神として御家人の移住に伴い全国に分祀されていきました。
当八幡神社もそのような神社の一つであり、1907年、衣笠氷室町よりこの地に遷座されてきました。

駒札"由緒"より

神功皇后といえばそりゃもう安産の代名詞ですよ。

祇園祭では占出山・船鉾・大船鉾、三つの山鉾の御神体になるほどの有名な御方で、身籠ったまま三韓征伐を果たした日本屈指の女傑であります。日本のジャンヌ・ダルクといったらわかりやすいでしょうか。石清水八幡宮の御祭神でもあられます。

そういえば先日鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱した、とニュースで報じられていましたね。理由はお話できないということで現在は謎となっています。神社本庁を巡っては2020年に香川県琴平町の金刀比羅宮が離脱しました。外野の私にはまったくわからないことなので続報を待ちたいと思います。

今回はここまでと致します。わら天神宮の紹介は全二回を予定しています。次回もご期待下さいませ。



今回の参拝スポット


追記

note公式マガジンに記事が掲載されました。ありがとうございます。


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