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余寒の京都旅「わら天神宮 敷地神社」2.本殿と六勝神社


"光る君へ"第十一話を観ました。

NHK大河ドラマって生首描写NGじゃないんですね。第一話で道兼がまひろの母を惨殺したシーンより衝撃受けましたよ。もし自分が子どもだったなら間違いなくPTSDになって夜眠れなくなっていたと思います。高御座の首シーン。最初は花山上皇の恨みを表現するためのオリジナルエピソードだと思っていました。感想を書くため色々と調べていたところ解説記事を発見。なんとあのシーンは大鏡に書かれていた高御座事件をそのまま描いたものなんですって。任侠映画でもなかなかないですよあんな脅し。時は平安時代。さもありなん。

コミカルな演出のあと播磨国書写山の圓教寺へ失意のまま都を去っていった花山上皇。次の出番はおそらく花山法皇襲撃事件になるのでしょうか。襲撃事件といえば藤原伊周が第11話で初登場?となりました。のちに藤原道長最大のライバルになる御方です。「華々しい戦描写のない平安時代は盛り上がりに欠ける」なんて言われていますが、この二人の政争バトルは中盤から終盤にかけて大きな見どころになるでしょう。

運命の歯車から逃れられない道長とまひろの恋は、花火のように一気に終焉を迎えることとなりました。折角なので二人の考察を少しお話したいと思います。高御座の穢れに対し毅然な対応を行なった藤原道長。身分の違いを痛感し直秀の死という穢れに囚われてしまったまひろ。穢れに対する二人の対比が恋愛を通して鮮明となりました。生前の直秀はまひろに何度も右大臣家御子息との恋愛は諦めろと忠告していましたよね。死(穢れ)に触れたことで直秀の言葉がより心に深く刻まれてしまい、身分の違いを払拭するため、妾ではなく嫡妻になることを道長に望んだと思われます。一方穢れを気にしない道長は常に現実を見据えています。当然身分の低い娘を"北の方"に迎えることは出来ません。世を変えるほどの権力を手に入れるには血筋も必要とします。現実を直視する道長と幻想を描くまひろの物語。それが"光る君へ"の本筋であると思いましたがどうでしょう。

千年以上の時を紡いできた源氏物語は現代にも通じるものがたくさんあります。権力者にとって結婚はいつの時代も道具に過ぎません。人は血筋で判断するからです。そして巨大な権力の渦で信頼出来るのは血縁者のみ。おっと、政治の話はここまでにしておきますが仮にまひろが正室の座に落ち着いてしまったら源氏物語はきっと作られなかったでしょう。二人が別れて安堵した視聴者は多かったのではないでしょうか。

さて寛和の変が終わって私の関心事は"七日関白"へと移りました。どういう描き方をされるのか今から楽しみにしています。『それぞれの人の心には東野幸治がいる。』創造主ことキングコング西野亮廣さんが某ネット番組で仰られた言葉です。転落劇に胸高鳴る私にもどうやら東野さんがいるようです。

そろそろ本題に参りますね。"わら天神宮"後編になります。


あれ?ちょっとまって?

参道正面に六勝神社ってどゆこと?


本殿が気になりますが、先に六勝神社へお参りをすることにしました。


六勝ろくしょう神社
御祭神:倉稲魂命うかのみたまのみことほか五柱神
御神徳:開運必勝、試験合格、商売繫盛

六勝神社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱神(二十二社、上七社のうち平野以外)をお祀りした神社で、平安京遷都の際、平野神社の地主として勧請され、当初は六所神社、六請明神社等と称されていました。859年に初めて祭祀を行い、その後西園寺家の鎮守として崇敬されてきました。
西園寺家に伝来した「管見記かんけんき」からは1429年~1441年に当社で猿楽がもよおされていたことが窺えます。また、江戸時代の文豪近松門左衛門の作品「女殺油地獄おんなごろしあぶらのじごく」に登場する白稲荷法印の台詞に「胴取りの祈りは、四三五六社大明神」(勝負師、博奕打は六社大明神に祈願する)とあるように、古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として崇敬を集めていました。1873年、敷地神社境内に遷座される際、社号を「必勝」の意によって六勝神社と改めました。その後、1919年と1935年に改修が行なわれ、現在に至ります。

駒札より引用

俗なたとえで大変申し訳ありません。六勝神社は有名ブランドを集めた百貨店のようなものになります。「いいとこ取りなんてけしからん。それぞれの神社へ直接お参りする事のほうが大事だ。」百貨店ではなく直営店へ行けと思う方がもしかしたらいらっしゃるかもしれません。しかしその発想って今だからこそ言えることです。当時の移動手段にもちろん電車やバスはありません。 労力や費用があまりにもかかりすぎるということで、伊勢講、稲荷講、大師講といった信者団体が作られてお金を集めて代表者がお参りを代行したという時代がありました。今でも京都では飲食店同士が集まって、持ち回りで代表者が愛宕神社で千日詣りをし、みんなの神符を受け取りに行くそうです。元気なうちなら自分の足でお参りできますが人間はどうしたって年を取っていきます。需要に応えるために各地の有名な神様を地元の神社に勧請する風習が出来上がったのでしょう。コロナ禍における御守や御朱印のインターネット販売は六勝神社や三社託宣のアップデート版といったところでしょうか。


なんだろう。

本堂のある西側へ行ってみると何やら意味ありげの道を発見しました。この先は行き止まりになっているみたい。


明治末期から大正期にかけて行われた京都市三大事業での道路拡張に続き、市区改正道路(都市計画道路)として、京都市電の敷設とともに昭和初期に開通した比較的歴史の浅い通りである。

Wikipedia「西大路通」より

おそらく西大路通が出来る前まではここが表参道だったのでしょう。車道にしては狭いので明治中期あたりには馬車が通っていたのかもしれません。公式サイトや駒札に載っていない古道に想像を膨らませて愉しむ私でございます。

ちなみに現在この道はお弓祭の射場として使われています。


置き場所がなかったのでしょうか。

神楽殿に薦樽こもだるが置かれていました。仮に置いているだけなのかもしれませんがなかなか珍しい光景です。


神楽殿の屋根です。入母屋造になります。


そしてこちらが拝殿になります。


本坪鈴の向かい、拝殿正面に見える飾りは神紋を表しているのでしょうか。

素晴らしい彫刻ですよね。


わら天神宮(敷地神社)
御祭神:木花開耶姫命
御神徳:安産、子授け、縁結び、こどもの成長守護

わら天神宮の正式名称は敷地神社しきちじんじゃといい、その起源は北山の神という山を神格化した存在でした。828年の大雨、大地震の際、時の淳和じゅんな天皇が北山の神に幣帛を奉られた旨が「類聚国史るいじゅうこくし」に記載されており、その創建は平安時代以前と推定されます。
831年、この地に氷室が設けられることとなり、加賀国の人々が夫役として指定されました。彼らは移住にあたり、崇敬していた菅生石部すごういそべ神社の分霊を勧請し、その御母、木花開耶姫命このはなさくやひめのみことを御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。
1397年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両社を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神社の通称である敷地神社としました。その後は応仁の乱などで一時荒廃しましたが、仮社殿を設けて御神徳を受け継ぎ、1847年の大補修、1935年の改修を経て現在に至ります。
現在地へ遷座後、当社は「天神宮」と称していました。また、古来より稲わらで編んだ籠に神饌しんせんを入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産の御守として妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらの御守の珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました。

駒札より引用

わら天神宮の源流は、北陸新幹線延伸で大きな賑わいを見せている加賀温泉駅最寄りにある菅生石部すごういそべ神社になります。通称を敷地天神であったことから、わら天神宮の名称も敷地神社となりました。ちなみに中世に菅生石部神社一帯が北野天満宮の社領となっていたことから天神という通称になったそうです。牛の像が全然見当たらないし近くに北野天満宮があるのになぜ「わら天神宮」という名前なんだろうとずっと不思議に思っていましたが、菅生石部神社の社史を拝見して全ての合点がいきました。


鉄道に関する余談になりますが、北陸新幹線延伸の京都・大阪間で着工の目処がまったく立っていないようですね。松井山手新駅が出来たらめっちゃ便利なので一刻も早く開通してほしいのですが、京都府内の残土処理や地下水、そしてトンネル建設の工事費高騰が深刻な問題になっていてそれらが原因で止まっているそうです。

私が生きているうちに新幹線松井山手駅を見ることはなさそう。リニア建設に猛反発している静岡県知事をあんまり馬鹿にはできません。京都にとっても地下水大事だからなぁ。


京都で子授けや安産祈願といえばわら天神宮、もしくは東天王社こと岡崎神社が有名ですよね。私が旅の最初のほうでお参りした三嶋神社も、神様の使者である鰻に子授けを願うお社になります。

わら天神宮の授与品に腹巻タイプの帯があるのですがなんとワコール製なんだそうですよ。京都の企業と提携しているんですね。とっても素敵なことだと思います。


『次はわら天神前。わら天神前~。』

私がわら天神宮の存在を知るキッカケはバス停留所名になります。すごくインパクトのある名前だったのでずっと記憶に残っていました。今回参拝できて本当に良かったです。


ちなみに二番目に覚えている京都市内のバス停留所は「裁判所前」になります。出来ることなら一生お世話になりたくないですね裁判所。

わら天神宮こと敷地神社の紹介は以上になります。ご精読ありがとうございました。次回は多くの外国人観光客が行き交うあの神社へ向かいます。



今回の参拝スポット


追記

note公式マガジンに記事が掲載されました。ありがとうございます。


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