当たり前を考える
3月は人事発表の時期。慣れた環境が変わることは人間誰しもストレスで、そのストレスを超えるとまた素敵な出逢いがあることがわかっていてもなおストレスで、その事実を受け入れるのに時間がかかることは今年痛いほどに感じたのだ。
僕は今の学校が好きだ。自分のことを好きだと言ってくれる子どもに囲まれて、笑いの絶えない職員室があって、ちゃんと先生として見てくれて色んな相談をかけてくれる保護者がいて、僕は今、幸せと呼ぶには申し分ない環境の中で仕事をしている。
もちろん学校が自分にとって居心地の良い場所であるためにはたくさんの苦労をしてきた。そういうのを乗り越えてやっと出来上がった居場所を簡単に手放したくないのは誰しも同じことじゃないだろうか?
こう見えてセンシティブでナイーブでとてもメンタルが強い側の人間とは言えない僕は、ちょっと気を揉むことがあるとわかりやすくその不安が身体に出る。
昔から県大会や発表会、大きな試験の前には目をパチクリさせて、大人になってからはそのストレスが発疹となり左胸にできたその跡は未だに消えない。今回も例外なくその不安は身体に出て、眠れなくなった。
「なんかあった?」と心配されても、人事が怖いだなんてなんだか恥ずかしくて言えなかった。どうせ「考えても仕方のないこと考えても時間の無駄でしょ」と笑われてしまうのが落ちだ。「ちょっと行事が忙しくて眠れないんすよ」なんて、楽しくてとても悩みの種になるものではなかった行事の忙しさを理由に考えても仕方ないことに悩んでいるちょっと恥ずかしい自分を必死で隠そうとしていた。
人事発表の当日はとても緊張していて、子どもの前で作った笑顔は彼らにどう映っていただろうか?ぎこちなく下手くそな笑顔は何かを悟らせてしまっただろうか?
「来年もよろしく」
その一言でここ1ヶ月ぐらい締めつけられていた心臓がやっと正常な心拍を取り戻した気がする。
「めちゃくちゃ嬉しいことがあった時、何食う?」
「その時になってみないとわかんないけど、俺一人で焼肉とか行けるかも多分」
そんなことを親友と安い寿司を食べながら話をしたことがある。
その日僕はいつも頼む牛丼を大盛りにして食べた。「一人で食べる飯に1000円はかけられない」昔から貧乏性の僕は、一人で焼肉なんか行けず、人生の中でも指折りの嬉しいことがあっても変わらずに僕の当たり前を守ったのである。
それは僕にとってとても興味深い話だった。
「来年学校に残れるなら、それだけでいいわ。もう何も望まない」
そこまでして残りたかった学校に残る事ができると決まった当日はとても幸せで、朝まで眠ることができた。「もうなんだって頑張れるぜ」とスッキリと目覚めたのを覚えている。
ただその幸福感は長くは続かなかった。次の日あたりから朝目覚めた時に感じるのは、1日を始める時に感じるいつも通りのネガティブな感情であり、何が来たって戦えると思っていた幸福感もめんどくささを超えてこない。
「来年学校に残れるなら、それだけでいいわ。もう何も望まない」
そう思っていたはずなのに次は部活や学年、分掌や授業時数に至るまで次々と希望が出てくる。
どれだけ喉から手が出るほど欲しかったものも、得た瞬間あって当たり前、いてくれて当たり前になる。終いには、「自分のものだから持っていて当たり前」なんて傲慢さも抱えながら。
おそらく人が人として生きていく中で無意識に当たり前にあるものを尊いものだとして生きていくのは難しい。当たり前に感謝するって超難しいのだ。あるんだもん。明日も高確率で。きっと明日も生きていて、きっと明日も目は見えて、きっと明日も耳が聞こえる。
「得た瞬間ありがたみがなくなってしまう」誰かが言ってたけど、本当にそんなもんなんだなとその儚さを感じる。
きっと当たり前にあることの尊さなんて、いつか失う、そのいつかが来ないと本当にわからない。僕はその傲慢さで、これまでたくさんのものを失ってきた。
「頑張ってきて得た対価なんだから得て当たり前」ってスタンスだとひとりよがりというか、そういうのってすぐ失いそうだ。
じゃあ当たり前に感謝しようと意識をしていても、ふと気を抜くと忘れてしまう。明日もあるのが当たり前のものに気を取られるなんて馬鹿みたい、なんて傲慢さと共に。
だから無意識にありがたいと思うことなんて難しいんだから、意識して感謝をする必要がありそうだ。無意識にあるものをそこから意識的に取り出して感謝をするの。もうそれしかない。
そうするとどうなるかって?
ちょっとだけ1日を気持ちよく迎えられそうな気がしないかい?
色んな当たり前を失った今年、僕はその大きさに絶望したけれど、また新しく生まれた当たり前はそれはそれで悪くないなと思った。
明日から7年目。楽しく。朗らかに。
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