芸術の有用性と無用性 (映画「悪の法則」から考える)


※「悪の法則」のネタバレあり

  

 コーマック・マッカーシーという作家に興味を持って、その過程で「悪の法則」という映画を見ました。この映画はコーマック・マッカーシー脚本で、監督はリドリー・スコットです。

 作品的には、結構変化球な作品というか、最初は私も普通に見ていたんですが、最後まで見てかなり特殊な映画だと感じました。非常に良い作品だとも思いましたが、普通のハリウッド映画だと思って見ると肩透かしを食うだろうから、それで賛否両論になっていると思います。

 話としては、ごく普通の、ちょっといい暮らしをしている弁護士が、一度限りの事と思って金目当てで麻薬ビジネスに手を出すけれど、それが仇になって次々とおそろしい目に遭うというような話です。弁護士には美人の婚約者がいて、この婚約者も、キャラクターとしては尖っておらず、凡庸な人です。だから、話的には凡庸な人がちょっとしたきっかけで恐ろしい目に遭うというもので、これだけ読むとあんまり面白くない気がするんですけど、コーマック・マッカーシーの作家性が加わると、大分イメージと違うものになってきます。

 作品のテーマそのものは意外に簡単で、「現実とは不条理なものである」という事です。これがテーマです。これだけ見ると、やはり、そんなに面白くないような気がすると思いますが、このテーマの深め方が優れているので、奥行きのある作品になっている。

 作中では黒幕であるキャメロン・ディアスが、裏で全ての段取りを組んでいて、数々の悪行を成していくんですが、このキャラクターは象徴的に描かれている。キリスト教的に言えば「悪魔」に相当するようなキャラクターで、要するに、現実の不条理さの権化として描かれている。このキャラクターは人間味がない描き方をされています。

 それで、弁護士はキャメロン・ディアスの策略もあってどんどんひどい目に遭うんですが、婚約者を麻薬組織にさらわれてしまう。麻薬組織は見せしめで殺すのを決意している状態です。弁護士は麻薬組織と関係するメキシコの有力者と取引して、解放してもらおうと電話で話しますが、相手は哲学的な話で返します。有力者の男は、弁護士に「お前は今、始めて現実に出会ったのだ」という事を諭す。

 ここの箇所がこの文章で言及したい事なので、詳しく話します。その男は要するに、弁護士はそれまでそこそこにいい暮らしをしてきて、これまで危機とか苦難、あるいは凄惨な現実というものがあっても、いつもテレビの向こう側の出来事のように他人事と生きてきた。(当然、これは、先進国で「そこそこ」の生き方を良しとしている我々全体の比喩でもあるわけです) しかし、今は、一回限りの麻薬ビジネスに欲に目がくらんで手を出してしまい、偶然も絡んで、もう二度と取り返しのつかない状態に陥っている。

 奪われた恋人は帰ってこない。殺されるのは確実だし、殺されるだけではなく、それよりももっともっとひどい目に遭わされた後、死ぬかもしれない。だがその現実にしてしまったのは弁護士、お前だと。

 さて、そこで男はマチャードという詩人の名前を挙げて弁護士に教訓を垂れます。この話が興味深い。

 マチャードというのは実在した詩人です。男が言うには、マチャードはある時、若くて美しい女性と結婚した。(wikiを見るとマチャード34才の時に16才の少女と結婚したとある) マチャードは少女を溺愛し、どんな物語、詩、それら全てよりも遥かに大切なものとして少女を扱った。偉大な詩人になるよりも、愛する少女と一時間でも長くいる方がずっとずっと大切な事だった。

 ところが、少女は若くして病気で死んでしまう。マチャードは悲しみ、そして偉大な詩人となった。有力者の男はそういう話をする。

 この話は、弁護士に向けられたものなので、弁護士の愛する女性が亡くなる事の「意味」について話しています。弁護士は「私は偉大な詩人になんかなりたくない」と言う。つまり彼女に生きていて欲しいという事です。まあ当然の感情でしょう。

 ここで印象に残ったのが「不可逆的」という事です。悲しみは不可逆であって、何かが失われる事で悲しみが生まれるが、悲しみそのものは何とも取り替えが効かない。たとえ、あらゆるものを差し出したとしても、もう死んだ人間は戻ってこないのです。

 この不可逆性という観点からマチャードの詩について考えてみます。要は芸術論に持っていきたいわけですが。マチャードの詩は読んだ事はないんですが、彼が歴史に残る詩人になったのはおそらく、彼自身が大切なものを失ったという現実を受け入れたからでしょう。だからこそ、マチャードは偉大な詩人になった。

 しかし、マチャードはそんなものは望んでいなかった。それよりも愛する女性と一時間でも、一分でも長く一緒にいたかった。それが文学そのものよりもずっと大切だった。にも関わらずーーこの「にも関わらず」が人生ですがーー彼女は消えてしまった。死んでしまった。そして偉大な詩人が生まれた。

 ここには不可逆的な関係があって、興味深い。詩人は現象の最後に現れる。文学・芸術・歌というのは、我々を奮い立たせて事物に突入させる…もちろんそういう効果もある。しかし、もう一度効果がある時がある。それは、全てが終わって、悲しみだけが支配した場所。そこで芸術は歌になる。鎮魂の歌となる。鎮魂、という現象が芸術と宗教の深い根としてあった事も想起する必要があるでしょう。

 例えば、今、小説を書いている人と話すと「作家になりたいから書いている」という人が多い。ほとんどと言ってもいい。彼らの作品に感じる不満は、おそらくマチャードが「偉大な詩人になるしかなかった」という事実と真逆であるように思う。作家になりたい、偉大になりたくて、褒められたくて、いい地位を手に入れて何かを行う人間は事物の内部にいて、その中で上昇しようとしている。

 これをマチャードの経験として考えれば、美しい少女と「一時間でも」長く一緒にいたい、と願っている状態に似ている。そういう風に現実、現象の内部において幸福になる。その為に詩も小説もあるとされる。マチャードもまた、文学全部を代償にしても、少女と一緒にいたかった。

 しかし、そうはならなかった。だからこそ、詩が生まれた。ここに芸術の根源的な意味があると考えたい。

 マチャードが偉大な詩人になったのは、人生の不可逆性を受け入れ、それが悲しみに包まれていると「知った」からであって、しかしそれを知る事は彼の人生の目的ではなかった。あったのは愛する人と一緒にいたいという事。この現実が終わる所から詩が、芸術が始まる。

 現代の芸術の問題点はおそらく、現実の内部に芸術が組み入れられている事にあると思います。芸術は現実が終わった場所から始まる。また、誰だって現実は終わって欲しくない。現実の不条理さは受け入れたくはないわけです。エンターテインメントはだからこそ、終わらない現実を描く事にシフトする。そこでは、詩は生まれない。

 しかしーー「しかし」と何度も言いますがーー現実はそうではない。どれだけ幻想を塗りたくろうと、現実は我々を襲う。不条理な、悲惨な現実が我々に襲いかかる。あらゆる悲惨な事柄が決して他人事ではないと気付く時がやってくる。この映画が繰り返し訴えているのはそういう事なわけです。

 先に言ったように、この現実が終わる所から芸術は始まります。ここに芸術の有意味性と無意味性が同時にある。

 このポイントで芸術が有意味なのは、それがあらゆる利益、価値といった拘束を脱して、ただ己自身を歌う美しい歌となる事にある。それは現実全般に対する鎮魂の歌なわけです。そこに「意味」が発生する。

 しかし、この意味は、現実が絶対的に耐えられないものとして、どうにも抗えないものとして目の前に現れた人間への有意味性です。逆に言えば、現実の内部にいて、上昇しようとしている人にとっては芸術はつまらないものに見えるに相違ない。あるいは良くて、ただ自分を楽しませるもの、余技として、娯楽として心地よくさせてくれるという以上の意味はない。

 最近では有用性、利益というものがほとんど絶対的な価値として君臨しています。役に立つものがいいという考え方です。この「役に立つもの」の中に組み入れられて芸術もまた弱まっているのが今の状態でしょう。最近の作家のインタビューを読んでいたら「今の時代に追いつきたいから話題のものを作品に盛り込んだ」というような事を言っていましたが、こんな考え方では、文学は最先端を競う流行りの中の駄馬に成り下がるでしょう。せめて駄馬であって欲しいとでも考えて書いているんでしょうか。

 繰り返し強調しておきたい事ですが、現実の内部、つまりマチャードが、美しい女性と一緒にいたいと願っている間は文学はむしろ不要なものになります。吉本隆明もよく「どんな素晴らしい恋愛小説も、現に恋愛にはまり込んでいるカップルを振り向かせる事はできない」と言っていました。この時、文学とか芸術は現実に対する色褪せた現実の代用物に過ぎません。

 しかし、現実は必ずどこかで終わります。現実が終わった、もう自分には「先」はない、と思う時は必ずやってきます。それがマチャードにとっては愛する人の死だった。

 詳述はできませんが、この瞬間は必ず来るのか、これを回避する方法はないのか、と言われれば、私は必ず来ると思います。必然であると思います。更に突っ込んでいくと、むしろそれは「望ましい」事とすら言えるでしょうが、さすがに私も「望ましい」と言える境地にはないので、その言葉は今は控えておきます。

 現代は、役に立つとか有益とか言うものの中に芸術を組み込もうとしており、芸術はそういうものとは相性が悪いので疎外されていく傾向にあります。今は現実の内部における模索時代とも言えるでしょう。

 しかし、日本では戦争に負けた後(あくまでも「敗北」の後)、優れた映画作品が沢山輩出されました。それは芸術の根本に、終わった現実に対する鎮魂という作用があるからではないかと思います。芸術は現実の外に出て、外部からもう一度それを眺めるのです。

 整理すると、芸術の有用性とは、現実内部の有用性が終わった後から効力を発揮するという事です。現実の内部、実際に幸福で満ち足りた人からすれば、芸術は色褪せた現実に過ぎない。

 だから、今の風潮では芸術は端に追いやられますし、軽蔑もされます。「アート」という語でおもちゃ扱いもされます。現実の中でいかに楽しくやっていくか、心地よく生きていくか、それが絶対とされているような世界だからです。この世界は、愛する少女と結婚しようとしている男(後の詩人)のようなものです。

 この現実が、この世界が破綻した時、芸術はおそらく再び必要とされるようになるでしょう。その時は近づいているのかもしれません。そしてそれは我々にとって不幸な時代かもしれません。

 我々もまた、マチャードと同じように、別に詩人である事を望んでいません。現実の外に出た詩人である事を望む人間はいません。内部でチヤホヤされたいのがむしろ普通です。ですが、現実がそのようにうまく行かない時、必然的にその外に連れ出され、人として、時間の終端のようなものに出会う時、その現実を受け入れざるを得なくなってようやく詩は始まります。詩人が詩人となる時はそこです。そこに芸術が有用である空間が設立されます。

 この有用性こそが、芸術が芸術である空間だと思います。この場所は今は疎外されていますが、その内、また盛り返す事に「なってしまう」でしょう。というのはいくらエンターテインメントで世界を上塗りしても世界の本質を変える事はできないからです。その時に再び、詩人が生まれる場所が発生する事でしょう。芸術というのは本来、そういうものだと思います。そういう事を、「悪の法則」という映画を機縁に私なりに考えてみました。これだけこちら側の思考を触発してくれたのだから、やはりコーマック・マッカーシーの脚本は良いものだと感じています。「悪の法則」という映画をきっかけに自分なりの芸術観を披露してみましたが、この話はここで終わる事にしたいと思います。

 

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