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♯2 今野 裕一インタビュー

カフカ・カフェへようこそ。

ここは、いよいよ来月初旬に控えた井上弘久ソロライブ「変身」@パラボリカ・ビスの公演までに、作品にまつわるコラムやインタビューを順次展開していく場所です。

◆井上弘久 Facebookページ
https://www.facebook.com/HirohisaOfficial

◆井上弘久 「変身」イベントページhttps://www.facebook.com/events/341774626020402/

◆yaso カフカを読む、カフカを謡う、カフカを想うカフカ トリビュートPart4 井上 弘久 「変身」紹介ページ
http://www.yaso-peyotl.com/archives/2015/04/inoue_kafka.html

今回は、本企画をプロデュースされた雑誌「夜想」編集長であり、ギャラリー・カフェ&ショップ パラボリカ・ビスのオーナーである今野裕一さんにお話をうかがいました。パラボリカ・ビス2Fのカフェ&ショップ コスタディーバにて。

雑誌の出版とギャラリー運営という2次元と3次元の橋渡しをされている今野さんですが、演劇も含めたこれからのメディアのあり方について、現状の問題と照らし合わせながらたくさんお話していただきました。

紅茶のお供に、おしゃべりはいかが?

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―今野さんにはいろいろお伺いしたいことがあるんですけれど…
この前立ち話をしたときに、「ネットでなんでも調べられる時世だからこそ、イベントの時代だ」とおっしゃっていましたね。
あのあと、わたしも例にもれずネットでいろいろ調べてですね(笑)、2009年のweb DICEの記事で、UPLINKを運営されている浅井さんとの対談を拝見したんです。
▶今野裕一×浅井隆 対談前編「復刊した『夜想』は若い人にむけて発信したい」http://www.webdice.jp/dice/detail/1667/

ああ…!あれね。ネットで「みんな調べちゃう」って言い方してるけど、あのインタビューはその時のネットの状態を語っているので。ネットが“劣化コピー”の温床だっていうようなことを話していたと思うんだけれど…だからネットが駄目という意味ではないですよ。

自分の名前で検索するとあれが一番上にあがっちゃうんですよ…(笑)
すごく上手にキャッチーなタイトルをつけてるけど、本来は「ある状況においてある使い方をすると、ネットが劣化コピーの温床になる」ということを言っているわけで、ネットが悪しきものだとは言っていないんだけれども、そういう風にわりと単純化されてあのインタビューがとられるので、そこが問題かな。

おもしろかったのは、あのときお客さんは20人いるかいないかで、(トークで)放言するからネットには出さないでね…今でいうと拡散するなよっていう話をして、しゃべりだしたんですよ。
その場で書かれたか対談が終わってすぐアップされてたかわかんないんだけど、2ちゃんねるで
炎上したんです。

書かれてすぐにスレが立って、今野って誰よ、浅井って誰よってなって…それだけで2000…スレッドがふたつまわった。結局誰だかわからなくってみんな一生懸命検索かけるんだけど、ペヨトル(出版社。1978-2000年まで運営)って出てくるんだけどペヨトルって何って…みんなわかんないんですよ。ネットの上でひっかかっているひとたちが、「夜想」とかをもうわからないっていうようなことがあって。ああ、メディアが腐ったなって思いました。2ちゃんねるの中でひとりだけぼくのことを知っているひとが出てきて「みんなでこんなこと言ってるけど、聞いたら今野さん怒るよなあ」ってつぶやいたひとがいて…(笑)

検証したわけじゃないけど、紙のメディアがうまくいかなくなる最終段階が2012、3年くらいから如実になってきてるんじゃないかと。

生まれた時からネット環境にある子どもたち…物語に一番最初に紙で出会わないで全部ネットから知識を得るといった習慣のある子どもたちが、物心つきはじめて、大きな影響力をもつようになったのかなあと。
自分がもっているメディアを本気で組み替えないと、と思います。簡単には、身体との関係を新たにつくるということかな。

―雑誌である「夜想」と、ギャラリーであるパラボリカ・ビスはそのあとから運営されているわけですけれども…
DICEのインタビューで印象的だったのは、「夜想」がサムネイルだとしたら、実際にギャラリーに足を運んで観に行くという体として、作品を体感してもらうということが、“身体性の回復”につながるとおっしゃっていたところなんですが。
2009年からそのことをここで実証されてきて、今一番感じていることはなんですか?

うーん…今現場の波を一番前で受けているという印象はあるんですが。
波が動いているときにその場所にいる場合、実際に分析ってできないんですよ。距離をとってみないとわからないところもあって、僕も最近は「夜想」のこととか聞かれたら少しは言うけど、「夜想」の状態はコメントできない。「夜想」は一回やめてるんですね、2000年くらいで。

やめてるときにはじめて、ひとが「夜想」ってこんな雑誌だったからよかったのにとか言ってくれたんですね。その時に「夜想」ってこんな雑誌なのかって改めて考えた。逆に、動いているときに、あんまり「夜想」についてのコメントとか聞いたことがないし、自分も考えたことがなくて、一冊やったら次出すとか、なにをやるかってことしか考えてないので…今は分析はやっていないんですね。

変化をさせながら動かしているので、自分のなかではその均衡を見ながらやっているんだけれど、答えが出るような出ないような部分も多くて、それが現状でメディアを動かしていることとか、生きてることだと思うんですけどね。だからまた止まった時に失敗だとかうまくいってたとか見えるんだろうね。

しかも、メディアとか芸術とか文化のあり方は、言ったこと自体で固定されてしまうのであまりしゃべりたくないけど、2009年の時点でのことでも、いまだにそういうことになってる。で、現状で感じてる簡単なことっていうと、ネットはまだメディアとしての稼働率が上がると思うんだけど、ネット的になればなるだけ、現場の身体性は必要だと思う。たぶん観る人たちにとっても必要なんじゃないかな。

来てくれる動機を上手に設定してあげればひとは来てくれるし、ネットでは絶対体験できない部分をここ(パラボリカ・ビス)でやっているわけだけれども、それは有効…かなと思う。9年前にはじめたときよりもそれは必要とされてるんじゃないかなという実感はありますね。

ただ、身体性を感じさせるとか回復させるためになにかをやるっていうときに、身体性というものが60年代70年代に言われていた肉体の復権とか…昔はパフォーマンスなんていう言葉がなかったからね、見直された身体がその当時指していたものではないので、回復するっていうよりも、今の身体性をつくるっていうことなんじゃないかなと思う。

だから高橋悠治さん(音楽家)も昨日ここで「カフカ・ノート」のことを話すというパフォーマンスしていたけれども、機会があれば、再演に興味をもっているかもしれない今の身体性についてどうなのとか、たとえば観客のなかに音が入っていくときっていうのはどうなのかとか。確認したいんだと思うんですね。

今、肉体の復権とか言っているけれど、ほんとうはそうじゃなくて、ネット的なバーチャル的なものが拡がって当たり前に駆使しているときに、どう身体を立てたら演劇として成立するか。踊りとして成立するのか、そんなことを強く思う。
過去のことの検証もある程度しなくちゃいけないんだと思うんだけど、それにしても今表現として有効な身体というものはたぶん、つくりださなくちゃいけないんだと思う。

ネットが身体に影響を及ぼす時代になってきているわけだけれど、そのこと自体を考えながら、その上での身体性を考えなくちゃいけないんだと思う。


たとえばこのあいだ、リアルタイムで中継しながらコンビニでいろんな異物を入れて追っかけられてた少年がいたじゃないですか。捕まえられないだろうといってたけど捕まってしまったわけだけれど。

あれと、例えばISISにネットで公表されながら殺されてしまったという事件があった。後藤さんとかも、あれだけ世界中のひとに映像として晒されながら、身体が殺されて消えていくわけですよね。
ああいう身体のあり方っていうものが、全然もう昔の身体のあり方とちがってしまっていて。しかも、両方ともライブのように見せてそうでなかったかもしれない。

これから殺されるかもしれないことを突きつけられている身体と、その映像と、映像を観ている我々という身体の関係…このネットと身体の関係は今までにないもの。
映像と身体という関係でいくと、向こう(コンビニ事件の少年)は自分の意志でやったいたずらかもしれないけれど、リアルタイムで犯行が伝えられ、実際に逮捕されて収監される。その身体は、我々となにも変わるところはなくて…

今、身体は、なんの情報もないアルカイックな普通のものとして、なんにもないものとして存在はできない。観客もネットを通じて身体を見る機会が圧倒的に増えている。

ほんとうにいろいろなものに閉鎖されて純粋培養的に「劇場」をつくって、客に情報をカットした中で、身体を置くっていうことをしないと、身体の純粋性が、昔の流儀でいえば保たれないかもしれない。
そんなこと自体がもうできないわけで。身体よりもいろんなイメージによる先入観のほうが先に見る人の身体にできてきちゃっているから。

喋っていても、肉声で語られたものと、それを原稿に起こしてネットで見られるものとでは違うわけだし、あるいはDOMMUNEみたいにその場で語られたことが一回限りで放映されるっていうものをみたときの印象と…全部が全部ちがってきているわけで。しかもそれを同じように受けとめるひともいるし。昔はネットと切り離されて身体は存在できていたけれど、今はそうはいかない。

ここで最近よくやっているのが、コミックの原作の絵とか下絵とかを展示してるんですよ。
プロダクツで大量に売られている原画をみせる。そうすると、コンピューターで描いているかと思ったら手で描いているんだとか、わかるわけじゃないですか。そういうものをみたときに表現の力を知られるというか、印刷されたものでは伝わらない、雑誌では伝わらないものが伝わる、というのが身体性だと思うんですね。そういうレベルの部分ではやることはたくさんある。

「カフカの読みかた」(「夜想」最新ナンバー)でも、カフカの身体性を回復すれば、ブロート(カフカの親友。遺稿をすべて焼き尽くすように頼まれたが、カフカの死後、出版に尽力を尽くした人物)の解釈をかいくぐって原典に触れられるんじゃないかというのが僕の仮説なんです。

カフカをモチーフにしていた作家の人たちはそれをきちんとやっていった。例えば今ここで展示している森村泰昌(美術家。数多のセルフポートレイト作品を製作)のカフカ作品は、作るのに、「耳はこんな感じかね」とか(笑)カフカになるという工程そのものが必要だったりするわけで。

なにを以て成果とするかはわかんないですよ。「夜想」もハードにしすぎたら売れないし。でも、身体的なバイブレーションで共感するっていうことがあって、メディアは…僕にとっては成功と言えないし、場所(パラボリカ・ビス)というメディアもがいてやっているけれど。そういうことが雑誌を作っているのと同じようなメディア力というか、でも波及力とつながっていないとダメで…むずかしい。

寺山(修司)さんの演劇に出会ったことと笠井(叡)さんの踊りを近くで観たことが僕の人生を変えています。演劇のような虚構のものが人生を変えるということもあるわけで、メディアもそのくらいの…

これだけメディアが悪くなると、むしろ変革かけるなら今だと思うし、それはインディという独立性からかもしれない。助成金がなければ演劇ができないっていう時期に身体をはってがんばってたりするひとが、可能性がある。これから先はハードな態度をしているひとしか残らないから、いいんじゃない。今の身体がどうあるのかっていうことを考えて表現していくひとしか僕には興味ない。

―これもまた少し前にネットで取沙汰されてた「ラーメン発見伝」という漫画の話なんですが、「観客はラーメンを食べているんじゃない。情報を食べているんだ」というセリフがありまして。

本当の味がわかる一割の客のために自分の仕事のやりがいがあって、残りの九割はカモだ…だいぶ意訳かもしれませんけど。そう考えるときに、ものをつくって売るときに、誰に見てもらいたいのかということがありますよね。
「いろんなひとに見てほしい」と漠然とした発言がありますけれど、そういうことでは作戦がよほどないと無理なのかなと思います。

僕は京都に長いこと滞在したときがあって。井上八千代(京舞の踊り手)のおっかけとかいろいろやっていたんだけれど。割烹とかにも出会っていろいろ食べもののことを教わったりね。

そのとき、味を追求している割烹だったんだけれども、あるとき、女の店主のひととしゃべっていたときに「味のわかるひとってどれくらいいるんですか?」って聞いてみた。
だいたいそこは顧客が3000人くらいいて、東京からもみんな食べにくるところだったんだけど「うーん、3人かな」って。

ちゃんと顔が思い浮かんで名前のわかる3人だと思うんだけれどね。3人のためにつくっているようなところもあるんだけれど…そのわかっているひとっているのはもともと少数なのかも。昔、宮島達夫(現代美術家)と話した時にも、作品がわかるひとってどれくらいいるのかって話をしたら「0.03%」だって言っていたね。10000人いて3人いるってそんな感じなんだろうけれど。

その構造自体は昔からそんな変わってないような気がする。そう言ってしまってはいけないんだけれど、「夜想」も本当にピュアなものをガッと組み上げたら、500人売れたらいいという感じなんじゃないですか。それから3000から1万売れてるっていうのは、仕事でどれだけ魅力をもっているかということで、すき間とか相互性とか…

―すき間というのは、行間のことですか?

いや、もっと大きな意味ですね。あるていど満足いく特集をつくっても、売れないんですよ。雑誌として本当の意味では機能しなくなってしまう。なんだろう。自分の満足になっちゃうのかな。

たとえば割烹の話でいうと、究極の味について、これはこうでしょ?って本当に見抜いたことを言葉にする。それは3000人に3人の割合しかわからない話なわけですね。そういう究極の話をしたときに、残りの2907人は楽しくないわけですよ。求道のために食べてるわけじゃなくて、美味しいものを食べたくて食べてるわけだから。娯楽のために食べてるわけだから。表現をするというのは、みせることだから、その楽しいという相互性が必要。

割烹とかがすごいのは、お客が、すきなものをすきなように頼み、すきなように食べる場所なわけですね。究極はそうなんですよ。ダメな客をなるべく排除するようなシステムになっているけれど、ダメな客がわがままを言っても、食べてもらって喜んで帰ってもらうというようにもなっているんですね。それは究極の上演でもあるわけで、雑誌でもあるわけで。

3人しかわからなくていいものをつくると言ってしまってつくるのは、メディアじゃないし、雑誌でもない。必要なひとだけに渡すのだと一対一の関係でしかなくて、そうじゃなくて、なんかわかんないけど買っちゃったらよかったとかそういう不合理なことも含めてメディアなんですね。

つくり手も究極のほうを求めるわけだけれども、それはそのひとにとっておもしろいだけかもしれない。つくることとみせることは違うので、そのままでは意味はない。だったらそれがわかる3人の前でパフォーマンスをすればいいわけで。究極のパフォーマンスを。そういうのがあってもいいと思うけど…

じゃあなぜひとに見せるんだってなった時に、すごく美味しい食べ物を、わかってるかわかってないかという基準じゃなくて、わかってないけど食べたら美味しいということがあるから、それが大事。お金をとってひとの前でやるわけで。
さっき言った店主の間違ってるところは、1割を相手するのために、残りはカモだっていう、維持するために9割を相手にするということは、つくる側が絶対に言っちゃいけないことだし、思っちゃいけないことで。そこを含めて存在のあり方なんだと。

―結構意訳しちゃってる部分があるかもしれませんが…たしかにそうですね。

芸術であるのか芸能であるのかのちがい。…なるべく多くのひとを楽しませる目的が先にあるのが芸能で、芸術は、表現したいことがありつつ、なおかつひとをいっぱい入れて成立させるということがあるから。絵を描くっていうことと絵をみせるっていう行為は違うわけだから。描くっていうことだけならば、作品が知られるのは死んじゃってからでもいいし。

だから、現状でみせていくっていうときに、わかんないひとにわかってもらうということも含めた表現と宣伝をする、ということがみせるっていう行為なんだと思う。味のわからない人もいる中でみせるっていうことがその店としての表現になるわけだし。わかんないやつはいいっていう雰囲気が出た瞬間、あんまり美しくないなあって。僕はやっぱり美しく存在すべきだなって思ってて。わかるということは魔物ですね(笑)

自分としても雑誌やってる時に、特集の対象はどこまでもわかろうかってやってるわけだけども、わかったからって、どうってことなかったりするのよ…(笑)雑誌にするときは。

わかってたほうがまあいいんだけど。世の中的には、(わからない)残りの部分の情報でイメージは形成されている。ウワサで良いと聞いたら見に来てもよく見ないでよかったねって帰る…そういう良いウワサがあるものに限って「こんなもの観ちゃうの?」っていうようなものになってることが往々にしてあるわけで。情報で見てそれを食べてるっていう度合いがだんだんひどくなってきてる。

その情報が合ってればいいんだけど、みんなが頼る情報っていうのは、自分に美味しい楽なよりダメな情報を食べるっていうのがあって。ネット社会の中での劣化コピーっていうのは、情報が出回るうちに元の情報の情報の角がどんどんとれて、残っていくのはつまんないくだらない、みんながわかりやすいものになっていくっていうことで。情報っていうのはみんなが知りたいように、ありたいようになっていくんだけど、すごいものをより楽に観たいとか…自分を許す、相手を許す、ダメなものを許す…っていう傾向にあるよね。
問題なのは劣化することよりも、劣化物を、そっちのほうが食べて美味しいと思うこと。

原発の情報っていうのも、シビアな情報があるのに、結局みんなはそれを見ない…たとえそこを真剣に考えるひとたちがいたとしても、政治はまったくそこと関係なく動かせるっていう、なんだろうね…っていう。
行動を決める主観を形成しているのは劣化コピーなのかもしれない。

ここ(パラボリカ・ビス)は売らないとやってけないから売ってもらうけど、僕が言うのは「いいものを持ってきてください」「ほかでできないものを持ってきてください」「うちは専門のギャラリーじゃないから、特殊ギャラリーだから、尖ったものを持ってきてください」って。
何が売れるかじゃなくて、何を作りたいかでしょ、原理は。

昔は表現が良ければある程度成立するくらいひとはついてきてくれたんだけど、それがなくなるのかな。ついにそれで生きていけなくなる現実が来るのかと。情報による価値観が優先されるので、そこにあるいいものをみていいっていってもらえるような…新しくていいものやると(観客の反応の)動きが鈍いっていうのは知ってるけど、それにしても自分の目で見ていいと判断できる人はもともと少ないにしても、相当減ってると思う。

保守的だから、定着して実績ができてからいいってなったりするから、ひとがいいって言わないから俺がいいっていうんだ!みたいな感じの部分が多くて「何をつくりたいかでしょ」が成立しないくらいの割合になってる。
そこらへんとの戦いはちょっとシビアなのかなって思ってる。

―情報として食べられてしまう可能性がある、というかそういう現状を当たり前のものとして、情報を展開する段階からなにか仕掛けていかないと、難しくなってきていると感じます。

情報の展開の仕方自体がパフォーマンス本体と拮抗するようなことが必要だと思う。情報を表現に重ねないと。宣伝のためのメディア発信じゃなくて。そのことだけでなにかを伝え始めてるっていう…
いまやってるようなこと(インタビュー)とか、語られなければ知りえないようなコアな部分が、別の情報を知ることによって現場の身体性にいい風に転じることもできる―そういうことはありえる。

よくあるキャッチコピーでいま注目されているとか、今話題のとか、なんとか…とか言うけれど、そういうくだらない冠を使わないで、情報の展開自体が作品に影響するやり方はあると思うんだよね。
そういうようなメディアの組み方を作らないとダメかなと思うんですよね。

僕も長いこと自分の仕事で一番得意なのはなにかっていったら、メディア・セッターかな、昔は。

―メディア・セッター。

メディアをつくるひと、新しくセットするってことですね。

―概念としてとしてではなく、実際にそういう役割があるってことですか?

アメリカとかではメディアセッターっていう言葉があって、メディアを新しく切り出すひとっていう意味なんだけど。

ここがメディアになって、雑誌の立体版みたいな形でギャラリーをやっていかないとっていう意味ではそういう自負はあった。それをやらないと雑誌も生きていけないなという思いがあって。映像がこれだけ氾濫したら…電子書籍は反射原稿なわけですよ。テレビの映像も向こうから光が出てるわけですよ。紙との違いは大きくて、後者の…光っているものを見続けると、光っているものがきれいにみえるんだよね。そうすると印刷が汚く見えてくるんですよね。色のあり方だってちがうし、色味だってちがうわけですよ。

映像を見たときの感じって、今の世代の人たちと僕らでは全然違う。ここ何十年かの世界なわけで、生まれた時からその映像を見てきている子たちが増えている。この身体感覚の変化に合わせてメディアのほうもあり方を考えなくちゃいけないんだけど、なかなか追いついていないっていう感じがするよね。
合わせていいのか?とも思う。

メディアって昔は発信する側が必要だから、その需要に合わせて変化してきたけど、いまはメディアのハードの側からどんどん進化しちゃってるでしょ。便利っていうんで中身のこと考えないで、形態だけで突き進んでいっちゃうようなところがある。企業の側の、こう使ったらいいだろうっていう仮説によって基づいているメディアがどんどん広がってきているよね。

APPLEだけには、こういうものがほしいという夢のような形を実現してきたわけだから、APPLEだけにはジョブズが死ぬまではそういう方向性の「こう使ったらおもしろい」っていうコンセプトが先行でやってきたから…その先はそういうもの(理想)がないから。

SONYが売れなくなってきてるのはそういうことだと思う。昔は黒木さん(SONY元取締役代表)とかが、理想をもってものをつくっての提案だった。ウォークマンというやり方はどう?って。今は商品をつくっているわけで。売れるものはなにかとまず考える。メディアに使う意図みたいなものがないから、すごいちがうよなって思うんだよ。

描きたい絵があってこれから絵を描く技術を身につけるっていうのが本来の方法だと思うんだけど、先に絵の技術が手につけて、さあこの技術を使ってなにをしようかっていうことになっていて、それに似てる。

例えばLINEにしたって、もうすでにメディアが形式を先行していて、それによってみんなの頭の中の図式が変わってしまった。で表現者たちが、LINE使ってなんかやれるのとか…そんなん(使って作品)やってもしょうがないかねとかって話になる。絵を描く人にとってLINEが必要になってくるとか、そういうことはもうありえないわけですよ。逆になっている。

LINEが便利だから使ってるんじゃなくて、ああいうやりかたが好きな欲望を立たせるようなものなんだよね。やっているうちにアディクションになって常にここ(手元)に置いてLINEを見てなきゃ気がすまないっていう性格をつくりだす道具なんだよね。
必要じゃないのに使ってしまう欲望を起こさせる。ゲームも、コンテンツだけでなく、一回触ったらどうしたら手放せなくするかっていうことを考える。

そうするとメディアにはなりえない。メディアってどこかで発信する役割が条件だと思うんだけど、今は使い方にアディクションさせるっていうメディアのほうが多いから…
こんだけ追いつめられていると、メディアを切り返さないと生きていけないだろうなっていうのはあります。

そうなると、逆に中身を考えるひとはわかる3人にだけわかればいいってところに追い込められていく。9割は操作してからめとれるから。そうしたらそのほかのひとは、別にいいものがなくても情報さえじょうずに作ってればお金さえあれば成立するんだからそれでいいじゃんって、そういうものになってしまう。

ハンナ・アーレントっていうひとが、ナチズムはどうやって機能したのかとか、官僚制ってどういう風に動くのかとか、帝国主義ってどういう仕組みかって、分析したひとがいました。あと最後までカフカを研究したガタリもそんなことを考えていました。―つまりいま、政府がああいうことになってしまって、原発事故にふたをして戦争の寸前まで持っていけてしまうのは、どうしてなの、どうして止められないの?その操られてしまうひとのことを考えないと。人間の構造はいったい何なのっていうメカニズムがわからないと…向こうはこちらの想像を結果操っているわけだけれども、こちらはそれすらできなくて、100人のお客を集めるのに手間取っちゃってってなるわけでしょう。

同じようにメディアを使っていると思うんだけど、自分たちが有効な、なにかを発信できるような形でやっていかないと、Facebookで宣伝したらいいやとかただ単にチラシを大量にまけばいいやっていうことはちがうんじゃないかな。なんか方法を考え出さないといけないんじゃないかな。

3人以上のお客を入れるために、ウソの情報を使ってここのラーメン屋が美味しいぞっていったところが勝つわけでしょう。それじゃなくて美味いラーメンが流行ればいいじゃんってわけにはいかなくて。
そういう危機的状況においては、表現する身体っていうのはからめとられていって。自信をもってやっていることすら、いいのかこれでってなっちゃう。やっぱり身体ってモチベーションで動く動物だから、評価がなかったら美味しいものつくれないわけですよ。
美味しいねっていわれるからつくれるわけで、昔のガンコおやじみたいなわかるやつだけにわかればいいんだっていうことが成立するような幸せな時代じゃないって思うんですね。

今まで言ったのはは分析であって回答も方向自体はぜんぜんないんだけど。ただ否定以前の分析。変化はやりながら考えるしかないし。いろんな人間が試行錯誤しながらメディアの逆の使い方―僕はされてると思うんだけど、それをするっていう側に変えていくしかないと思うんだけど。

メディアって有効じゃなきゃ意味がないので。こちら側がやり返した分効いてくれないと方法としてはそんなに合ってないと思う。逆に差し込むことで別の反応が起きてくれないと、効果としては有効じゃないんだね。差し込んだ状態でそれをチューンして作り直し、ハッカー的に返すことをしていかないとダメなんだと思う。でもむずかしい。ついつい向こうが使ってるやり方になりがち。

みんなに聞きたいくらい…。そこらへん、どうしたらいいかなあって。

井上さんはちゃんと芝居をすればいいんだ。それをみんなにいいねって思ってもらうにはどうしたらいいかは周辺の責任でもある。それは一つずつ方法を試して証明していくしかないよね。

Facebookだっていつまでもエースじゃないし、LINEにしたって短い言葉で相手を罵倒しているうちにほんとうにひとが死んじゃうみたいなシステムなんだっていうことの分析をだんだんできるだろうし、メディアって短命だから。mixiだって…2ちゃんねるだってあんなに落ちてるんだから。

―そう考えると、表現はものすごく長く続いてきたメディアですね。

そう。身体表現はものすごく長いメディアだから、今の時点で新しい感覚のひととくっつけるっていうことをしないと。インディと上位の少数者の経済的間にメディアのでっかい層みたいなのがあって、そこからイレギュラーな情報とイレギュラーなイメージを流すわけだから。ほんものに辿りつかない、ほんとうの身体に辿りつかないっていう構造ができちゃってるわけだから。ほんとうっていうか、なにかを表現しているいい身体にぶつからせるっていうことは必要かなと。

これだけネットが盛んになるとライブの持つインパクトが逆に上がるから、そういう意味ではあるていど現場はやれる要素っていうのはあるんだと思います。

たとえばうちがやってることのなかに、上演解説があって、ある時期がたったら、ネタも含めてどんどん過程を公開して見せていくっていうことをやっている。

なぜかっていったら、日本で言ったら山村浩二さん(アニメーター)の作品がほんの少しのひとにしか見られていない。もっともっとプロのひとたちに見てもらってもいいわけだから、表現の別のあり方もあるんじゃないかなって。昔みたいに作品がすべてを語り、作品さえ見てればいいっていうことは、もうないと思いますし。その時代が終わったってことは、メディアが介在する―説明することだったり中をみせることだったりっていうこと自体もメディアのあり方だから。ちがう面をみせていくことによって、ひとつの作品がどんどんひろがりをもっていく。

そういうものをつくらなきゃいけないって感じているのが、高橋悠治さんがやってきたことなんじゃないかと思うんですね。
カフカに関しても、開かれているし完成されていないから、何度でもつくれるし、何度見てもおもしろい。ここはたまたまカフカを扱ってきたところがあるけれど、未完成だけどどんどん広げていけるとか…一回限りで完結できるような感じじゃない作品のあり方にしていかないと、こういうメディアの時代では。

一回で見て理解できるとかってもうないと思うんですよね。美術作品にしてもそのひとの歴史をぜんぶ見ないと理解できないようになっているんですけれど。特にコンテンポラリーの作品は。演劇の作品もそうで、今日観てアハハってわかって帰って完結してしまうっていうのはコンテンポラリー…現在時でやっている作品ではもうないんじゃないか。

松本修さん(MODE主宰)も自分の作品を客観視するために今回の企画(カフカトリビュート)に参加するんだろうし。「日本の客にはここは受けないから、どうやろう」…というような検証をね。
うちは本興行はできないけれど、そういったサブの興行―つまり雑誌で松本さんの特集をやるのと同じようなレベルでのパフォーマンスをみせるっていうことなんだろうね。
限りなく作品表現に近いけど、メディア性をもってやってるっていうのが僕がここでやろうとしていることなので。演劇の本公演は劇場でやればいい。美術だったらギャラリーとか美術館でやればいい。

ここでやるのは、もっと未然なものというか、例えば作品のエスキース(下絵)をやることによって作品本体とかそのひとの仕事がよく見えるようなこと。ガイドはしないんだけどそういうような役割を果たせるようなればいいんじゃないか、と…
「夜想」は新人の発掘もやっていたし、あるイメージを突いた巨匠の別の面とか、本来持っている面を炙り出すような特集してきた。同じようなレベルのことをここでやっていけたら、ここの機能も上がるしもっとおもしろくなるんじゃないかって。立体版の夜想として、そういうメディアのあり方であれば、有効なんじゃないかと。
スピンオフっていうかちょっとずれてるんだけど、作品本体に還元される場であったらなと思います。

作品を支えているひとたちが見える、それ自体をメディア化するっていうことが必要なんだと思います。みんなの知的な関心でなにかを観たいなって思うのが理想だし、こちらとしてもそういうものを出していきたい。

井上さんがいまの時代に「変身」をやるのはピッタリだと思うし、そのピッタリ感が伝わればいいと思うし…続けていくことが大事だと思う。

いいものに喜んでもらって入ってもらうというサイクルをつくらなければいけない。

もともとは「夜想」のプロモーションのためにやってるはずなのに、それにこんなにエネルギーを割かなければいけないという…(笑)
まあ言ってるだけで、やりたいこととして自分の中でやっているからね。やってる自分がおもしろくなくてどうしてひとが楽しめるのよ!ってことだからね。
こんなものがここで観られるんだっていうのがないとやっていけないからね。おもしろくて、できれば初めて自分が目にするものと出会いたいっていうのがメディアに求めることだから。

―いい意味で、こんなはずじゃなかったっていうことが必要だと仰っていましたよね。

やっぱりサプライズがないとね。思いがけないことっていうか…寺山さんから年賀状で毎年「演劇0年」っていうのを…それだけ書いてある年賀状っていうのを毎年もらっていたんだけど。

―「演劇ゼロ年」?

うん。つまりその年が、自分にとっても演劇にとってもスタートの年だっていう意味なんだけど。

寺山さんは晴海の見本市会場(東京国際見本市会場。上演が行われたのは1981年)でやってたこともあるんだけど、オープニングは暗転にして、扉を細く開けた中を一人ずつしか入れないようにする。

入った瞬間巨大な闇…あのひとたちすごいバカで、完全暗転にするために、全部の窓に黒い紗幕を張ってるんだよね。その闇の中を歩いていくと、遠くに光っているものがポツンと見えて、そこへ向かっていくと、中に巨大な『100年の孤独』のセットがあって、ひとりずつ客席に座っていくという…

―贅沢ですね…

そういうものって体験するとぜんぜんちがうわけだけど。お金はある程度かかっているけど、そんなに極端なことをしているわけじゃなくて、暗闇を通って、会場に行くっていうただそれだけの行為だから…全員客が入るとドンって扉が閉まって、後ろをバイクがぐるぐる走るんですよ。ただのスーパーカブがまわっているだけなんだけど、ものすごい音が反響するからすごい怖い。客として入って、逃げられない(笑)これから二時間動けないしどうすんのよって…鳥がきらいな…アレルギーのひとと観に行ってたから、(当時舞台に)よく出していたから、「これ鳥出ないよね?だいじょうぶだよね」って怖い思いをしながら観るわけだけど(笑)

でもそれも、終わってしまえばゼロだよ。って全部みせるときもあるし。終わったら元に戻るわけじゃないですか、あっという間に(会場を)バラして。その空間が寺山さん好きで。なにもなかったっていう。

パラボリカ・ビスもそうやって、展示や作家ごとにカスタマイズして組み替えるっていうことを考えてて。こないだ来たひとが、あれ、ここに扉あったっけ…?みたいなことができたらいいなって。

寺山さんに教わったことは、「ゼロから立ち上げよう、ゼロへ戻せ」っていうことで。そういうことはすごい重要だし、できるようにならないと。
何かの上に乗っかって仕事するっていうのが難しくなっているけれど、同時にゼロにすることが効くっていうことがあるから平等でもあると思うんだよね。

井上さんも1000人の客の前でやれるチャンスがあると思うんだけど。ああいう太田省吾の転形劇場のような大きな影響力のある劇団が乱立していた時にはひとりでやっても太刀打ちできなかったかもしれないけれど、今なら、やり方によっては、注目を集めることもできるかもしれない。

それが演劇におけるメディアの革命だと思うんですよね。もしできたら。簡単ではないけれど。でもそこを含めて演劇なんじゃないかと思いますけどね。
ここで10人しか集まんなかったひとが、集客を伸ばすことそのこと自体がね。

―つくり手にとってそういう「場」というのが圧倒的になさすぎると感じます。そういう意味で、今野さんは唯一無二の活動をされているなと思います。

結局、支えているのはひとだからね。
井上さんひとり来ただけじゃだめで、チームになっているからいけるわけで。気持ちだけで集まっている集団があるっていうことだけが、戦える唯一のチャンスかな。

結局人間の情熱が一番強いんですよ、お金をかけるという意味では。
その点では井上さんはすごい財産を持っているわけだと思いますし、その手があるからこそこっちもいろんな手を考えるわけで。

たくさんのひとに見せれば、もっともっといい役者になるから、それは、事の次第じゃない。あとは運よく流れを掴む力を誰が持っているかということですよ。やっぱり不合理なことを起こさせるとか、起こすとかやんなきゃだめで。

井上さんが「変身」をセリフとかに変えないでほぼ覚えて演じるなんていう不合理なことをやってるんだから、周りが奇跡を起こしてあげないと、いかんなあと。そんなに簡単じゃないからできあがったことを奇跡というんであって(笑)突破するにはそういうことを考えていかなきゃいけないわけであって。

みんなが階段を一歩ずつしか上がっていけないと思っている時代だし、実際にそういうふうにしていくわけだけど、いやいやいや、二段跳びで上がろうよとか、考えないと。
カタギの仕事じゃないから、結局は。いいものなんだから一発勝負かけようぜっていうような部分っていうのはみんなでもってたらいいんじゃないかな…

僕はそんなことを思っているけど、誰かがそこを突破してくれれば、みんなそこに突っこむわけだから…誰かがそこを見つけないと(笑)ゲームでもなんでもそうだけど、いけたってなったらみんなそこを行くんだよ。テトリスが日本に初めて入ってきたとき、20000点を越えられないっていう常識があって。頭がいいゲーマーたちがこのへんが限界かなと思っていたら、誰かが「大阪の子が23000点越えたって」っていう話がきて、みんな「えっ、いくの?!」ってなって。一時間くらいみんなで考えてたら「これ、脇にぶつければいいんだよ」とかってどんんどん突破していく。

一人目は大変なんですよ。一人目いくやつが、世の中をつくっていく。それをやらないといけないんだよ、誰かが。自分のジャンルの中の20000点突破っていうのがあって、それをやればいいんだね。それを達成してみんなで攻めればあちこちに穴が開くから、いい流れになるよね。
それはね、能力じゃないんだよ。わかったら実際に越えられるわけで。道はあるはずなんだけど、道があるかわかんないんだよ。

―まさにカフカ的な状況ですね…

そうそう、そういうことも含めてカフカは、突破できなかったひとだから、ああいう風な形になってるんだろうし、そういう意味では現代的だし。ハンナ・アーレントっていう大衆の心のを研究したひとも、「カフカ論」っていうのがあって。カフカは、官僚制で、どこをつついてもうまくいかない、ちがう答えが返ってきてしまうという官僚制のメカニズムを書いている。―そういう時代とそういうところに生きてたんだと思うけど―あれはリアリズムだ、って指摘していたんだけど。

今まさにそんな状況で、ここを突破しないと、カフカのまま終わっちゃう。
カフカのままで終わりたくないから、カフカを使いながら、カフカを抜けようとしている。
カフカ、君が抜けられなかった道を僕らは抜けてみたいなあ…っていう。実は感想なんだよね、カフカをやっている。

―「カフカを使う」という言葉を聞いて、今野さんが今ここでやっている仕事についてひとつ腑に落ちました。雑誌でカフカの特集を組んだり、立体の「夜想」として上演企画を立てたりということの。上演に関してはシリーズ化していますけど、続かざるを得なかったのかなと思いました。

みんながやめない限りなにかを提案して、やっていく。高橋悠治さんが言っていたように「未完のままシステムをつないで拡げていく」っていうことが表現なんじゃないのって。
全体性っていうものを想定しながらやっていくっていうのはモダンの形式なんじゃないの?っていうことだし。
(高橋)悠治さんは上演に必要な盛り上がりの終わりすらなくていいんじゃないと。僕らはできれば悠治さん方式でどこまでもつないでいくやり方ができたらおもしろいなって…なおかつそこにチャームがあって、ひとが集まるっていうことがあってやっていきたいですね。
わかってるひとは3人かもしれないけど、みんなも喜んでるっていうような状況。

―わけわかんなくてもおもしろいもの、は最強だと思います。

そして3人以上に増やすために解説とかをすれば、もっと味わえて美味しいと思うんですよ。作品が。それはあとで納得すればいいので。その(パフォーマンスの)瞬間は、みんなの心を魅了することが必要。それがメディアの役割なんだけど、それがなかなか機能しなくなっているし、自分も機能しなくなってきてるし。

―いやいや、そんなことないです!

雑誌とかも落ちてきているし。自分を責めるというよりは、社会の状況が変わってきてるわけだし、メディアが変わってきちゃったっていうことなんだと思うけどね。30年来使ってた方法が使えないのかっていうことで、えらそうにしゃべってるってことじゃなくてみんなであり方をつくりださなきゃならないものなんだと思うし―

―もともと演劇はメディアだったわけですもんね。

演劇を現代でやるってなったとき、そこに演劇論は含まれているし逃れられない。ひとに伝えるってこと自体がメディアだしね。

意図的にかなりやんないと動かなくなってるから。観客の目を信頼したいっていうのはあるけど、まず作品に辿りつけない現実っていうのは認めざるをえなくて、そこで積極的になにかをしないとなっていうのはあります。できればウソはつかず。単純な方法でいいものはいいと攻める。

世界で一番注目してる…ってされてないよって、されてないから言うんだろうと。

―美味しい飲み屋さんは呼び込まないからなあ(笑)

呼ばなくても来る。

―高いですしね。

自分の目で判断してお金を払ってだまされるのが一番いいよ。

ここ最近感じるけど、自分がいいと思ったもので連れていった友人が不快な思いをするとメンツが立たないっていう風潮があって。わかんない演劇に友だち連れてけないっていうのが…。
わたしだけが知っているのはもったいないから観に行こうよって誇りがないとだめなんだよね。

世の中的に評判がいいものしかいかなくなる…新しいものが出にくいというサイクル。

キーワードを知らなきゃ検索できないということがあるよね。未知のものを探すっていう体験がないから、何かに出会ったときにググっちゃう。自分の感性よりもグーグルの情報を信頼してしまう。そこの回路をひっくり返さないと…メディアチェンジを起こさないとね。

…こんなところかしら。

―ハイ。本日はどうも、ありがとうございました。バラの紅茶もとても美味しかったです。

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▶profile

語り手:
今野 裕一[ こんの・ゆういち ]

夜想編集長。 夜想創刊以来、文学、美術、思想、歌舞伎、コンピュータ、サブカルチャーなど多岐に渡って特集を続けている。 ダンスの台本・演出、展覧会のディレクション、イベントのプロデュースなどの現場での仕事も多い。

聞き手:
山田 真実[ やまだ・まみ ]

ttu演出家。今企画にはドラマトゥルクとして参加。http://ttu.main.jp/

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