備忘録 9 わたしの時間とあなたの時間

朝一仕事を済ませて、お風呂に入っているとき、本山達雄さんの名著「ゾウの時間とネズミの時間」の話を思い出した。体の大きなゾウと体の小さなネズミでは、心臓の鼓動の早さが違い、それによって生きている間の流れる時間の長さが違うという科学的な普及書である。この話を思い返しながら、自分の時間のことを考えた。自分と自分と相対している人{ここでは、あなたと呼ぶ)は、同じ時間と同じ場所を共有しているが、同じ時間を過ごしてることに成るのだろうか?もっと遠く離れてくらしている場合はどうだろうか?

最新の物理学では、離れた場所での同じ時間、つまり同時というのを証明する、あるいは決定することができないという話を本で読んだことがある。それであれば、目の前のあなたと私はわずかに距離が離れているから、同じように同時というのを決定することは出来ないのではないか?時間だけではない。私が見ているのは、目の前のあなたであって、私ではない。同様に、あなたが見ているのは、私であって、あなたではない。同時に同じ場所で同じ時間(同じ時間というのがあればの話だが)に、星空を見上げるわたしとあなたは、本当に同じ時間に同じ人生を過ごしたことになるのだろうか?

同じ場所で同じ(ような)時間を過ごしていても、そのように感じるのに、どんなに仲の良い二人でも、大半の時間はお互いに別々の場所で別々の行動をしている。それぞれの人生は、そのような別の時間の流れの集合体だ。そう考えると、それぞれの人生はどんなに孤独なのだろう。よく語られるように、生まれるときはひとは一人だし、死ぬときも一人であるが、それ以前に生きることは、本当に孤独な時の流れなのだと考えると、少しさみしくなってくる。

よくアイデンティティがないとか、私は何者なんだろう?とか言う問いが出てくるが、本来人は一人一人別の時間と場所と経験の集合体だから、独立した存在で、生きているだけで、アイデンティティはあるはずだ。そして私は、何者でもなく、私自身でしかない。

しかし、これも良く言われるように、人は一人では生きてはいけない。人生のありとあらゆる場面で、他の人の助けを得て、他の人と関わり、生きている。自覚できる他人との関わりだけではなく、毎日の食事だけでも、どれだけの人の活動によって、目の前にならぶ料理とその食事ができあがったか分からない。自分の存在だって、両親が過ごした人生との関わりから発生しているし、遡れば沢山の祖先、霊長類、昆虫、微生物、水や隕石まで、私の生を支えてくれている。

再び、時間に戻ろう。私の時間は、私だけのものだし、その流れが今の自分を作り、そしてお迎えが来るまで、新しい時間を作りつづけるはずだ。でも、その自分だけの時間から、他人と関われる何かを生み出すことはできる。それは、会話だったり、今書いている文章だったり、絵だったり、仕事だったり、あるいは、エレベーターに乗るときの譲りあいだったりするかもしれない。そうした、他の人がもっている別の人生に良い影響を与えるような何かを生産しながら、今日もまた自分だけの時間を刻んでいこうと思う。それしか出来ないし、そのことがとても尊いのだろう。