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「世界湿地の日」に、土地に問う

昨日、2月2日は「世界湿地の日」でした。

昨日公開された、こちらの記事によると「過去200年の間に、湿地は農地やインフラ開発のために埋め立てられた。世界の湿地の約90%が劣化または消失し、過去50年間だけでも35%が消失。2000年以降、その速度は加速している。」とのこと。

今年のテーマは「劣化した湿地の回復と修復」ですが、そもそも人にとって役に立たない(ように見える)土地は開発するべき、開発したってかまわないという態度がそこにはあったのかもしれません。言うまでもなく、湿地は人にとっても重要な存在です。

野山を開発することに対して、宮澤賢治の思想を伺わせる一節があることを『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』(澤口たまみ著)で知りました。「世界湿地の日」に向き合うにふさわしい視点かと思い、同書から抜粋します。


土地に問う | 開発 development


そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へ向いて、
声をそろえて叫びました。
「ここへ畑起こしてもいいかあ」
「いいぞお」森が一斉にこたえました。
みんなは又叫びました。
「ここに家建ててもいいかあ」
「ようし」森はいっぺんにこたえました。
みんなはまた声をそろえてたずねました。
「ここで火たいてもいいかあ」
「いいぞお」森はいっぺんにこたえました。
みんなはまた叫びました。
「すこし木貰つてもいいかあ」
「ようし」森は一斉にこたえました。

童話集『注文の多い料理店』「狼森と笊森、盗森」
岩手山麓の牧場は緩やかな起伏が続く(岩手県雫石町小岩井農場)撮影/澤口たまみ

狼森オイノもり笊森ざるもり盗森ぬすともり」には、緩やかに遷移してゆく噴火のあとの原野に、慎ましく自然と折り合いをつけながら住みついてゆく人びとの姿が描かれています。

噴火がやっとしずまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方からだんだん生えて、とうとうそこらいっぱいになり、それから柏や松も生え出し、しまいに、いまの四つの森ができました。

これらの森は、盛岡の西に位置する日本最大の民間牧場、小岩井農場の北部に実在します。登場する森のうち、狼森は標高379メートルの明瞭なピークを持ち、小岩井農場を訪ねると、いまでも眺めることができます。

小岩井農場の開設は1891(明治24)年、鉄道庁長官だった井上勝が、日本鉄道会社副社長の小野義眞と、三菱社の岩﨑彌之助の協力を得て実現しました。農場の名は、創始者三人の名字から一文字ずつをとったものです。

この農場ができる前、一帯は岩手山の噴火による火山灰土壌に覆われ、酸性が強く排水が悪いため、じめじめして木も疎らな原野が広がっていたそうです。井上は、鉄道を敷設するに当たって多くの「美田良圃」を潰してきたことに悔恨の念を抱いており、その原野を美しい農場に変えようと決意したと伝えられます。

開発に際しては、暗渠による排水と石灰による酸性土壌の中和が行われ、植林が進められました。その農法や経営は近代的で、子どもたちは岩手初の私立小学校に通いました。1901(明治34)年にはエアシャー、ホルスタイン、ブラウンスイスという三種の乳牛が輸入され、翌年にはバターの生産も始まっています。

盛岡高等農林学校で農業を学んだ賢治にとって、小岩井農場はじつに魅力的な場所だったに違いありません。反面、それが農民主体ではなく大きな権力と財力によって実現したことや、岩手山麓の原野と引き換えであったことは、いささかの失望を伴っていたものと推察します。湿性の原野もまた、動植物にとっては貴重な生息地です。

賢治は鉄道が大好きでした。しかし鉄道は、井上も悩んでいたように田畑を潰します。その田畑も、野原や森を開墾した結果です。自然は決して不変なものではありませんが、人為による改変は激烈で、環境の変化によって絶滅する生物種も、年々その数を増しています。「ここへ畑起してもいいかあ」と土地に尋ねる精神性は、わたしたちが手放してはいけないもののひとつでしょう。

わたし自身も「ここへ家建ててもいいかあ」と尋ねてみたことがあります。いま住んでいる土地は、もともとは田んぼで、埋め立てるとすめなくなる生きものがいることから、庭の一角に小さな池を掘りました。それはほんとうにささやかな水辺ですが、春ともなればシュレーゲルアオガエルが、夜な夜な愛らしい声で鳴くのです。

『自然をこんなふうに見てごらん 宮澤賢治のことば』(澤口たまみ著)より)



いま既に劣化・消失の危機にある自然に対しても、「その土地をそんなふうにしてしまって本当によいのか」と問うていくことは必要なことのように思います。

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