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24-April-2022 グルーヴってなんなんでしょうね

"グルーヴとはなにか - obakeweb

「グルーヴ[groove]」という音楽用語がある。ファンクやソウルを聞く人ならお馴染み、EWFの「Let's Groove」やFunkadelicの「One Nation Under A Groove」で歌われているアレや、JBの『In the Jungle Groove』やMaceo Parkerの『Life on …
https://obakeweb.hatenablog.com/entry/groove

(上記ブログポストを読んだことをきっかけとして、2022/04/21と2022/04/24につらつらとツイートで書いたものを雰囲気で書き換えた文章です。)


面白いです。名曲youtubeもたくさん貼られていて、楽しい。

残念ながら言及文献については未確認なのですが、「グルーヴ」が指す意味の中心を考えたときにまずあるのは、「数秒を単位に構成される反復的でビート的演奏や働きかけに非間欠的で永続的的な感覚を促すある種の効果がある」ってことですよね。で「ある種」やその成立要件について語りや研究があるところで。その研究の具体的な例が上のブログには、ある程度分野は限定されつつ、いくつも紹介されていて、それでとても興味深かったです。

ここで「ビート的演奏」と書いたのは、とくに一般用語ではないです。「ビート」というだけでも複数の用法があって、一般語として「ビート的」と「演奏」とをくっつけただけでは特定の意味にならないところですが、今回は簡単にいうために、文脈依存の感じで用いた言葉です。これについては、この文章全体での印象を通してある程度限定していけたらそれで良いという感じの気軽さで用いていますが、ここでも簡単にだけ書いておくとつまり、私たちがふだん20世紀と21世紀のポピュラーミュージックとして接しているものはビックバンドによるものもコンボバンドによるものもコンピュータのシーケンサで統合されたものも、大体全部これに含まれるものだというふうなことです。それくらいの話です。

それで、その「ビート的演奏」を、分析なり検討なりということでもうちょっとミクロに定量的に扱おうというときに「マイクロタイミング」という相対化のやりかたがひとつあって、上のブログポストで紹介されている論文でもそれが重要なテーマやモチーフになっている様子でした。

またそれと同様なこととか、他にも、アクセント的なもののありようと効果についても論旨に混ぜたりしたい場合、あとは、もうちょっとそのような部分こそ注目して扱いたいような場合(とくに、演奏全体に区別なくおしなべて使用するということではなくて、ある種のアクセントアップビート部分の構成上の重要さやその実際的な表現のありようや、それと記譜的な一般化との差異などについてこそ扱いたいような場合)、また逆に、特徴的というかラベル的というか、その独特さのありようを大づかみに言いたいときとかには、「ポケット」っていう言い方が今では前よりももっと広く使われるようになって、そのことで状況が便利に整えられたような感じも受けています。

ポケット」の問題意識というのはまさに「マイクロタイミング」についての問題意識と重なるものですから、これらはひとつのものだといいたくなる場合もあるかもしれません。しかし実際には「グルーヴ」「マイクロタイミング」「ポケット」あるいはさらにその他の語が「別のものだ」とも「完全に重なるものだ」とも言えないところがあって、「そこが便利」だともいえるし、同時に、「それじゃあ分かりづらくて困るという気持ちにも同情する」というふうにもいえるところなのですよね……。

そのように、用語はいつの間にか増えています。たんなるジャンルやスタイルごとの語彙の違いという場合もありますけれども、用語が増えて、より表現し分けたり、指示し分けたり、認識しわけたりしやすくなってもいるというふうに思います。その点で、全体としては良い話だなと感じています。もし現在の状況でこれらの語さえなくてすべて「調子」とか「リズム」とかいった言葉だけで済まそうとするなら、もうそれは、見通しが悪すぎてとっても困ってしまうのは目に見えていますものね。

同じような周辺で、あとから増えてポピュラリティを得ている用語(外来語)ということでいうと、「ロックする」という語もあります。フレーズ強拍やそれに続く表情とリズムセクション複数人からの表現が噛み合ってひとつの強い効果になっている、みたいなことを特に指したいときに「ロック(🔐LOCK)している」っていう)のも多分、その前から用いられていた「タテを揃える」みたいなのに比べるとさらにもっと活きいきした、そして余計な強迫観念まで含んだりしない言い方として一般化してる印象を持っていますけれどもどうかな。個人的な印象すぎるかな。

タイム」というのもあります。これは、「グルーヴの~」といいたいけどあえて曖昧にしたいとか「ポケットが~」といいたいけどあえて曖昧にしたいとかいう場合に使われたりもしてる気もするけれど、あえて「それは意味の中心ではない」と言い切りたいところでいえば、「メトロノームのような安定したbpm表現を行うことができる」とか、「演奏タイミングによる連続性のある効果や表現について指摘したい」というときや、「そのためのロックがほどけない」というような(外来の要因に揺るがされたり自然に状態が崩壊しないということでの)ロバスト性みたいな意図を語りたい場面などでも「タイム」っていう用語は便利に使われている感じがします。

そのうえ「タイム感」となるとまた便利に用いられていて(○○感とか○○性というのはだいたいもう全部そうですけれども……)、そのロバスト性部分のような大ざっぱなところを「~が良い」「~が悪い」という場合にも使われていますから「マイクロタイミングによる表現が特徴的だ」とか「マイクロタイミングを操作するのが上手い」とか「ポリリズミックな切り換わり表現によどみがない」とか拍が伸縮することに関して(:そんな概念は西洋音楽的意識においてはふつうにはないかもしれませんけれども)その状況に追われずに影響力ある立場に居続けられる感じとか、とても便利に選ばれているふうです。

このあたりには、「誉めるのに細かいこととか厳密さとかには構わない」的な、なにか私たちの持っている傾向みたいなのが出ちゃいがちなのと、その裏返しとして「けなす場合にも厳密さは不要」みたいな傾向とに巻き込まれやすかったりしがちなのがこれらそれぞれにもあって、そこはまあでも一般的にそうだよなー、まあしかたないとこだよなーみたいなのも思うんですけども。つまりまあ「タイム」はもしかしたら、自分よりも他人に対して多めに使いがちなのかもしれないですね。でもやっぱり「あって良かった用語かな」というふうには感じるところです。

ところで「グルーヴ」的なものをいま「ポケット」論者みたいなところから考えたときに、私自身の理解では「マイクロタイミング」の影響が効果に与える大きさというのは(:演奏で重要なのは発音の相対的な位置だけではなく、同時に音量や音質についてのコントロールもまたそうなわけですけど、ここではひとまず「マイクロタイミング」の語に話の流れを託すことにしますね)フレーズのどこでも一様ということはなくて、やはりどこだって重要ですけれども、それでも特に効果に影響の大きい重要な部分とそれ以外の部分とがある、というふうです。そこで、上のブログポストを読んだときに私は、「そういうことも言及先論文では実験実証されてるのかしら、それとも未整理かしら」という関心を持ちました。

また、日本語で引用されている『共同体主義的な理論がふさわしい』という箇所については、そこだけ読めば私にはしごくもっともだと感じられたのですけれども、しかしここでは『当初の目的からするとやや唐突な話運びで、ちょっとイマイチなオチ』と述べられています。これは、「もとの論文を読んでみないと分かんないところだなー」と思われる部分です。それで、ここで紹介されている元論文がフリーアクセスかどうかも確認してないのですけれども、「英語で音楽の(…どころか美学や哲学分野の)論文かー、手に余るよなー、でも面白そうなのご紹介されちゃったなー、先々で読んでみたいなー」みたいに思ってるところです。


ところで、上のポストの別の部分からの別の話も扱いたいのですけれども、上のブログポストには「レアグルーヴ」への言及がありますね。それで、そのあたりからの話の寄り道なんですけれども。

リズム」や「ビート」がそうであるように、「グルーヴ」にも、音楽におけるある要素や性質を指し示すのではなくて、実際の個別の演奏や録音のあるまとまりやオブジェクトやフィギュアとも言えそうな対象のことを指して用いる場合があります。これはもう同じ語の別の用法ということなのですけれども、そうはいっても、これらの違った用法も実際には、なんとなく曖昧に、ひとつながりの感覚でも用いられていますよね。

私たちにはどこか、ある性質を見てそれを「グルーヴ」というふうに指しつつも、同時にそれを、なにか手触りをもったオブジェクトとして感じたがっていたり、また、ある実際のものごと(演奏が納められた録音物とか)を、それが備えた性質も併せて表現してしまいたいというような感覚があるのかもしれません。それはさておき、このように「レアグルーヴ」といういう場合には、主には録音物のことを指しています(緩く書いてみると、「過去に販売されていた素敵な発掘音源」みたいな感じの意味合いです)。

この「レアグルーヴ」というのは、DJ分野やビートメイキング分野からの語彙です。そこでは、上のブログポストで紹介されているような録音物をクラブや飲食店で演奏したり、部分的にサンプリング(:再録音のことです。現在の通常の用法では、過去の制約を引き継いだところもあり、数秒程度におさまるような、そう長くなかったり、一連のまとまり感のある対象、あるいはそれらを構成する部分的な瞬間をもとの録音作品から切り取るようにして、操作可能な形で録音しなおす場合にそういうことが多いですが、実際には現在ではより長時間の再録音が可能ですからこれは現実の制約ではなくて、用法としての習慣的なものです)した上でさまざまに操作することで別の録音作品や演奏作品の構成要素にしてしまうという活用がなされてきました。

その一例として、ブレイクビーツ(:上のサンプリングの説明のなかにあるひとまとまりの切り取りをした対象のことをこういったりします。ふつう、演奏の節目などにあるドラム独奏の部分を対象に再録音をします。その再録音されたもの自体や、それを再構築した表現についてもこう呼んだりします)を使ったドラムンベース(:90年代後半くらいからある、エレクトリックな手法によるダンスミュージック、あるいはダンスミュージックをもとにした音楽スタイルのことです)、なかでもドラムマシンをベースパターンに対して倍速で走らせてるみたいなのでなくて、サンプルを貼って作ってる感じのとか貼られたタイプのものについてここで少し扱いたいのですけれども。

レアグルーヴ」から1小節や2小節程度の長さで切り取るようにサンプリングして作品の構成要素として利用する場合に、扱う録音物が安定した地の合奏部分ではなくて「フィルイン」と呼ばれるような節目を示す短い独奏的な変奏部分であったり、どんどん盛り上がって進んでいく後奏部分であったりということで、演奏されたフレーズが均等な拍の時間間隔で表現されてはおらずフレーズの演奏し始めに寄って詰まって感じられるような場合や、合奏全体がどんどんbpmを速く変化しかけている途中であったりすることで、その部分をサンプリングしたのちにコピー・アンド・ペースト的に繰り返し用いたりすると、「貼りはじめ側に詰まって後ろが時間的に少し余ってないか?」というふうな印象が繰り返されることがあります。あるいは同様の効果を得ようと、あえてそのように聞こえるようにサンプル部分を、シーケンサ(:発音・演奏の順序を管理するための装置やソフトウェアのことです)が用意する基準のグリッドから微妙に(つまりマイクロタイミングで)ずらして構成する場合もあるかもしれません。

これは簡単に言い表せば、ビート)の開始とされる位置・一般に指揮棒が振り下ろされる標準のタイミングからみて、サンプルの発音タイミングが、あるべきところから、マイクロタイミングレベルではやくあらわれている、あるいは、ずれているということだと思います。このような状態は、ある観点からは、正確性に欠ける、好ましくないものかもしれません。

しかしそのような状態にある繰り返し表現自体も、実際にはある種の「ループ感覚(ループ感・繰り返し感覚)」において、私たちはすぐに「そういうものだ」と聞き馴染みを得るものですし、そしてそれに対して「良い調子のものだ」と好評価を持つということは、またふつうのことでもあります。

このあたりことからも、「私たちの抱く演奏に対しての好印象は何に由来するのだろうか?」という疑問が生じるところでもあります(ここでの話を大いに先に進めて書いてしまえば、例えば上で「標準的」と示した「グリッド」のようなものは、「規範的にとらえることはあっても、それ自体は美的な価値判断に先行する実際的な仕組みなのだろうか?」「そうでないとしたら、私たちの感覚を裏側で構成しているルールや機序には他にどんなものがあるのだろうか?」というようなことでもあります。そういう話題を検証可能なサイズに分解して扱おうと試みているのがおそらく、上のブログポストで言及されている論文であったり、上のブログポスト自体であったりするわけですよね)。

さて、ドラムンベースの話でした。そこまで話を動かしましょう。ドラムンベースの典型的なスタイルというのは、「レアグルーヴ」のレベルでは「ベースギターの演奏1:ドラムキットの演奏1(1対1)」という時間進行だったものを、「ベースギター(シンセサイザーによるそれに置き換えられることも多いですが)の演奏1:ドラムキットの演奏2(1対2)」というふうに構成しなおすというものです。1回分だったドラムのスペースに2回分のドラムの演奏を速度を早回しにして詰め込んでしまうのです。

そのなかで、例えばサンプリングからの演奏はひと通りだけではなくて、別の箇所由来のものが入れ替わり立ち替わりであらわれたり、ひとつの箇所由来であってもさらに部分的な入れ替え操作や抜き差しの操作を経て、一定ではないあらわれかたをするように構築されなおされるようなものもあります。

こういうものに対しても私たちは「良いグルーヴだ」というような感想を持ち得ます。仮にドラムの部分のサンプルの1回分が詰まってつんのめったように感じられていてもやっぱりそうです。

これに関しては、たとえばドラムキット部分がそれだけをとってみたときに断続的だったり間欠的だったりチグハグだったりつんのめっていたりしたとしたとしても、同時に演奏されるベースラインであるとか、サンプリングされ繰り返しコピー・アンド・ペーストされたドラム演奏がもたらすループ感とか、またそれらを用いて構成・演出されたストップ・アンド・ゴーな感じやクレシェンドを通して「ループされている要素・オブジェクトが、演奏を構成構築するための必要な要素だ」と感じられるようなことなどによって、「狭い範囲で捉えてぎこちないようなものでも、より広い範囲ではスムーズさの構成要素となってるじゃん」ということで、自然と受け入れられるようなこともあるからだという説明が可能だと考えられそうです。

それで、とくにこの点について述べようと思ってこの話を始めたのですが、この場合、ブレイクビーツの1単位が(例えばレアグルーヴ自体の演奏由来で)「良いグルーヴのある対象だ」ということと、ドラムンベーススタイルの演奏としての「良いグルーヴのある対象だ」というのは、「これら2者は非連続だけれども、入れ子状態になっていて関係はある」みたいなことが指摘できるわけです。だから、「良いグルーヴのある要素」が「(チグハグだったりつんのめっていたりすることで)良いグルーヴがあるとはいえない要素」を構成して、それらがまた「良いグルーヴのある要素」を構成するということがあり得るんですよね。

ただそのとき、入れ子になったそれぞれは、別のマナー由来のもの――つまり、別の『共同体』由来のもの――である場合もあるというのが、ここでの論点です。DJやビートメイクの行為それ自体に、ある音楽マナーで作成されたものを別の文脈に投げ入れることで別の価値を生じさせるというようなことを繰り返しているという経緯がありますから、このような例としても引きやすいのですけれども。

それで、このような「入れ子」構造が『共同体』を越えたりするということは、もともとの(『レアグルーヴ』のほうの)要素を「良いグルーヴだ」と評価しても、ドラムンベーススタイルのほうには「良いグルーヴだ」といわない人も当然いるわけですよね。よくありそうなところでは、「もとの録音は好きだけれどもそういう使い方はして欲しくないなあ」とか、反対に、「もとの録音のことは知らないけれどもこのトラック(:DJやビートメイカーによる演奏は「トラック」というふうに呼ばれることがよくあります)は良いなあ」とかそういう感じのことですが、苛烈なものになると、「そのような用い方をするなんて侮辱的だ」というようなことにさえなるかもしれないです。

でもこれ、たんに好みの問題なら「いろんな趣味がありますもんね」ということで済む話かもしれませんが、例えば「宗教的な意味合いのある音をサンプリングして再構築して作成されたトラックだということになると話はどう?」みたいなこともひと繋がりの問題意識のものなのであって、つまり、『共同体』を超えるということに無意識すぎるのは危なっかしいものだというところに繋げて述べたくて、この例を扱った次第なのですが。

このあたりは、「音楽に国境はない」論みたいなものや「良い音楽は良いのだ」みたいな立場の取り方とは少しぶつかるところですよね。「良いものを良いといって何が悪い」みたいなときに、「良い」の所属する脈絡を示しそびれてしまうこととか。あとそれに、どこの踊りを見ても「自然とからだが動き出すね、みたいなクリシェで誉めるというのがどうなの?」というような話とも繋がるところでもあると思います。

すでに上でも「誉めるときにもけなすときにも雑になりがちな私たち」というようなことを書きましたけれども、このあたりをもう少しだけでも丁寧に扱うことって可能なものなのでしょうか? それとも、「『共同体』との関係性を持てないところでは丁寧になりようがない話」ということになってしまうばかりのものでしょうか?

なにかことさらに『共同体』というと「現代的な環境で音楽を楽しむ私たち」というような話とは少し遠い語彙のような感じもしてしまうかもしれないですが、マナーを共有できる集団とか、語彙を共有できる集団というふうに考えたときに、それは、そこここに、多層的に存在していることも簡単に気がつくことができます。また、『共同体』の外からもたらされたものに好奇心や関心や、あるいは逆に、根拠を待たない嫌悪感を持ってしまうのが私たちの性質だ、というふうなことも同時に思い出します。そこではもしかするとやはり、私たちに備わった「雑さ」のようなものが現れやすいかもしれないな、ということを考えたりするところです。

そうなると、ある場合の「美的」みたいなのって、「それ、好奇的な、オリエンタリズム目線じゃない?」みたいな、「逆オリエンタリズム目線」のようなもの発生したりもして、すわ「文化盗用論争」みたいなのにさえ近接しかねない話でもあったりしそうでもあります(:「オリエンタリズム」や「文化の盗用」についての説明は、今回は省略させてください)。そういったことを視野に入れつつも、マナーを超えるためのマナー、『共同体』を超えるための共同性というようなものを私たちは、今の時代性において、持ち得るものでしょうか? ということを、問いのための問いということでも、とくにきれい事ということでもなく、素朴に、わりと切実に、思ったりもするものです。

このあたりは、「相対化や一般化の失敗は危なっかしいなー」みたいな話ということにもなりそうに思うところではあります。つまり、個人レベルでの話と社会レベルの話をていねいに扱い分ける必要を感じるところですし、別の個人や別の社会(『共同体』)を一様で区別のないものとして扱ったりすることをつとめて避けないといけないなと感じられる話です。

そして、個人目線のドキドキワクワクみたいなのは、別々の個人として語り考える言葉を(社会の言葉から援用したりしつつ)なんとか涵養していきたいところではあるんですけど――しかし、どーなんでしょうね、とかいうとってもあやふやなところですが、「相対化」や「一般化」というのは私たちが世界を認識したり考えたりする上で必須の行為ですから、たくさん行う上ではそれを失敗することもあるかもしれないとしても、やはり成功のためにそれを行いたいところですし、その失敗が暴力的なものに結びついて欲しくもないです。それで、それを多少なりともうまくやるための方法を探したいという感じが強くあるところなんです。これはある意味では一種の人権問題としての世界認識とか自己認識とかということにも繋がっているのではないかなと思えてしまう話題なのですが。うーん……。


で、ずいぶん逸れたところからまた戻るけど、戻る先は「グルーヴ」についてですよね。

私はここまで、「グルーヴ」っていう名付けも「ポケット」っていう名付けも、「気が利いてるし見事だなー」って思っていました(反語とかじゃないですよ。今もそう思っています)。溝にはまるのも穴にはまるのも「能動とともにある受動」という感じで、グルーヴを受容している私というものをよく示していると感じます。だから、その言葉を知らなくても、それを初めて聞いて「ああ、あれのことか」って分かるような上手さだと感じていたもので。

ただ、それらが「上手い」言い回しだからこそ、それだけに、それを始点にして砕いたりほどいたりするのが難しいということはあると思うのです。けれどもそれは、グルーヴが難解な言葉だとか、言葉を尽くして説明を試みる価値のない対象だとか、そういうのは無粋なだけだとか、要素の実験が無為だとかいうことではないという話ですよね(実験や調査なんかについてはその仮説や仮定、設計とかが適切でないようなことは、都度起こり得るだろうとは思われるのですが)。そして、それらが今後うまく進むと、分かってたつもりのことが分かってなかったって気がつけたりもするというものですから、そうなれば、これは成功のほうの一般化ということになりますよね。

上記ブログポストで紹介されていたようないくつかの研究の流れについて、上手く進んで欲しい研究分野だなと思っています。


また扱うトピックを変えます。今度は、少しマクロというか、引いたところからグルーヴの語を扱いなおしてみようと思います。この稿の一番はじめに「数秒を単位に構成される反復的でビート的演奏や働きかけに非間欠的で永続的的な感覚を促すある種の効果がある」というふうに、唐突というか、いくらかぶち上げるように書いてしまったことへの、ささやかな言及をします。

さて、この稿では実は、「グルーヴ」というものはまず、「ヨーロッパ的なものとアメリカ大陸的なもののリズム・アンド・ブルースにおける転換的な結実~ロックンロールにおける再度の一般化~その後ファンクミュージックによる再結実」という比較的短い展開のなかで再確認されたものを指す言葉として重要な役割があるのだろうなということで考えています(ここまでとくに書いていませんでしたし、このあともこれ自体についてはほとんど書かないままなのですけれども)。

そのことはおそらく、20世紀を覆ったモダニズムのなかで、「鳴り物」としての打楽器が「楽器」としての打楽器へと扱われ方を変えていったことと動きをともにしている話なのだとも思われます。

それはつまり、旋律におけるアクセント(個別の強調表現)や調子の良さ(間欠的な要素による構造表現)を補強し裏付ける役割(さらにメタ的・構造的なところでの強調表現)といったところに役割があるという打楽器というものから、打楽器や打楽器的な演奏によっても「旋律的」ともいえる、聴者の耳や心を奪い続ける役割を担い得るのだというふうに前提が動いたことが、重要で必要な変化だったのだと思います。いま私たちが「グルーヴ」と呼んでいるものが実現するためには、そのような流れにおける、楽器や演奏システムの成長がともにあったこともあわせて指摘する必要があるだろうというわけです。

ここで打楽器的な楽器とか打楽器的な演奏というのは、叩いて演奏するという操作上のことだけではなくて、本来的にはアタック(:伸びる音に対しての、音が発せられた短い瞬間だけの大きさのこと)が強くて自在には音の長さを表現し変えることが難しい楽器であるとか、音程や音質の使い分けに一定の制限があるというような楽器のありようを模型化した言いかたです。打楽器の振る舞いがひととおりの模型に還元できるわけもないのですが、厳密さは忘れて、今回はわりと、たんに便利なラベルという気軽な感じでこれを用いています。

「そういった楽器はそれだけでは退屈なものであって、聞き続けるような音楽のためには脇役や、よくてもせいぜい限定的な助演までである。音楽というドラマを演じるにあたって主役にはなり得ない」というところから転換して、打楽器的なものがその演奏の効果によって連続性や永続性の表現そのもの(言いかたを換えてみれば「世界観」そのものというふうにもなるかもしれないです)を担うことになったのは、この人類史上では決してはじめてのことではないはずですが(というか、この動き自体にも、他の地域での音楽や楽器のありようが影響を及ぼしていることはあきらかに否定しようのない話ですが)それでも、北アメリカ大陸での歴史の流れが多くヨーロッパのバックグラウンドを持った移民の人たちのマナーや認知こそを支配的なものとしていただろう以上、ここでは、語るべき大きな変化だということになる点なのです。

打楽器的なもので旋律の性質を担うとか、連続性や永続性の表現を担うというふうに書いたことを、あらためて検討してみます。これらは言い換えれば、聴き手が連続して意識を委ね得る対象を演奏で実現するということです。そのためには、断続的・間欠的・アクセント的といったふうであった「打楽器的なもの」の主な位置づけを、その実際の個別の音響のありようとは別に、それらが生じさせる効果としての連続性を実現し、音楽上で注目される役割に位置づけなおしていくという転換があったことでしょう(とっくに「転換後」である今では、非打楽器的な性質の楽器を打楽器的な表現のために利用する工夫さえも発展目覚ましいので、こうしてそのことを書いていると、なんだかまるで変なことを書いているかのようでもありますけれども)。

旋律的であるということは、これは実際の様相としては、まとまったフレーズを構成できるということ(そのこと自体が私たちの耳を奪い、引きつけます)だとか、あるフレーズと別のフレーズとは区別して聴き分けることができるような個別の特徴が備わっているということだとか、また、一定程度長い演奏の始まりや終わりをそれらのフレーズ自体によって示すことができるということなどが大きな要件ということになるのではないでしょうか。

また、それらの積み重ねで耳や関心を奪い続けるシステムが作られていった間には、それら自体が演奏に関しても聴取に関しても、社会や『共同体』における音楽上のマナーに加わっていったことが経緯としてあるのだと考えられます。これはつまり音響を音楽に(鳴り物を楽器に)変えていった社会的な経緯ということですよね。音の方も変わったことでしょうけれども、同時にか遅れてか、それを聴く人たちのほうも変わったはずなのです。

(実際的には、打楽器的な演奏により個別のフレーズを表現するということには、それ以前に長い歴史のある、軍楽隊による、信号としての演奏表現の伝統やノウハウが太く流れ込んでいます。そこを足場の大きなひとつとして、打楽器的な演奏は、そのスタイルを築いていったといって良いと思います。一方で軍楽隊的な演奏もいまでは、信号としてだけでも儀式としてだけでもなく、音楽表現として受容されるようになっています。これはもちろん、昔の軍楽隊が音楽としては全く受容されていなかったという話ではないですけれども、やはり相互影響がある話ですね。)

ところで、言葉を使った演奏(歌唱)とともにある楽器演奏においては、つねに替え歌的なものの可能性がありますから、楽曲の性質というほどの演奏のまとまりのバリエーションというのは、必ずしも沢山は求められるわけではないかもしれないところです。言葉とともにありさえすれば、ある程度しばらくは飽きられずに、スタイルやシステムはゆっくりと成長することができるかもしれないし、聴き手の音楽マナー意識もその間に転換していくことがあるだろう、というわけです。ですからここでより重要なのは、スタイルでありシステムでありマナーであって、楽曲というのは、それらよりもいくらか優先順位が高くないところにあるものだともいえるかもしれません。

(しかし現在となっては、もちろんすでに、まさに打楽器のみによる「楽曲」というのも沢山うまれていますから、今の考えからいえば「わざわざ何をいっているのだろう」という話でもあるかもしれませんし、「打楽器とはプリミティブなものであっていつでもまず音楽の歴史の前提になるものだ」というふうな考えがあるとしたら、やっぱりこれもまた「何をいっているのだろう」かもしれませんけれども……。)

「音楽的」ということが拡張されたともそぎ落とされたとも言い得そうな近現代におけるこの歩みは、歩んだ先で、ある意味では旋律と伴奏の、その主客までもを転換させたかもしれません。もちろんこの時点ではすでに、「主旋律と伴奏」というような簡単な話には還元できない、複雑な構成の音楽はすでに歴史のあるものでしたし、「主旋律と伴奏」という考え方自体が、今の時点の考え方の枠組みを今回の説明のために乱暴に当てはめているだけのいいかげんな例えであるという指摘はまぬがれ得ないものですけれども、ここではその乱暴さをある種の見通しの良さのために援用して、大股で論を進めています。

ただそれでも、「演奏の流れを紡ぐ役割が打楽器や打楽器的な演奏によって担われるように進んだ」という転換を経たことによって、打楽器的な音響や打楽器的な役割こそが音楽の聴取や演奏の目的にさえなったかもしれないということは、今回の機会を通じて述べておきたい点なのです。そしてこのことが「グルーヴ」という言葉の出現を裏打ちしたのだといえそうに考えるところです。

逆にいえば「グルーヴ」というものは、それを成り立たせた要素の多くについては、「旋律と伴奏」とか、「アクセントと非アクセント」ということを分けて扱わない脈絡とは、直接にはあまり接続してこなかったものだとも指摘できるかもしれないです。「グルーヴ」というものを語るときに「シンコペーション」とか「ウラ拍」といった用語があらわれがちなことは、これらの事情とも関係が深いものと考えています(これについてはおそらくけっこう飛躍を含んだものでありますけれども、今後のためのメモを兼ねて書いておくところです)。

しかし同時にまた、欧米的なモダニズムのなかで、欧米からそれ以外の地域を見回したときの揺さぶり返しというのは、この流れを構成するひとつの大きな要素であるというのはまったく否定できないところでもあります。つまり、アフリカ地域や南米地域やアジア地域からの「素朴な(もしかしたら「非進歩的」な)」やり方が、好奇的で消費的なオリエンタリズムとしてではく、「本来あるべき・取り戻すべきやり方」とか、「今のアイデンティティに欠けたピース」とかいうものとして扱われただろうところもまた、ファンクミュージック(やそれを支えたモダニズム自体)の成立や成長のためには、ひとつ重要な要素だったのだろうということは通常でも指摘されるだろう話です。

それは、「文化人類学や博物学といったものの発展の果実をパーツ的とかモジュール的とかで用いるやり方こそがある種のモダニズムのあり方だ」というところからも指摘されそうですし(時代としては前後しますけれども、先に話題にした「サンプリング」というのも、そういうののひとつですよね)、移民としてのアメリカ人が中国地域やインド地域南米地域等々にバックグラウンドをもつ人たちによっても構成されていたということからも指摘されそうですし、またなかでもとくによくいわれる点として、奴隷貿易をバックグラウンドに持つ黒人社会の、そのアイデンティティのルーツとしての象徴的なアフリカ、というふうなこととしても指摘されそうなので、要素として、決して決して、小さな話ではないのですけれども。

(ところで、もちろん、現在の花形楽器であるピアノ的な楽器もギター的な楽器も、古くは現在のような音の長さもふくよかな低音も演奏し得ないものだったということでいえば、それらは今よりもさらにずっと「打楽器的だった」という経緯を持つものですから、こういった話は、どの脈絡から語るかによって部分的な語り口が違ってくるものではあります。ですから、部分的に取り出すときには混乱を生じさせやすいところかもしれません。しかしながらここでは、アクセントのための楽器や演奏が主脈や主構造を担うということになったという点を主要な脈絡として扱いたいと思って書いています。)

一方で、またもや重ねて、「社会」や「共同体」についての話をします。それはつまり、「演奏する場のことを考えたら楽器の話だけで済むわけはない」ということでいっても、「社会のどこに楽器があるか?」ということでいっても、社会におけるキリスト教的な資源のことに思いいたさないわけにはいかないからです。そこにはキリスト教的な歴史的で社会的な資源に対する、個人や社会は「ある点でしかない」という、のっぴきならなさ、アイデンティティ、取り戻せなさ、そういったものとしてのよろこびや慈しみや慰さめのありようというのも、習い性というか、文化的、論理的、倫理的な血肉として、否定できない大きな要素として抱えていたり、支えられていたりしたというのは間違いなく今に太く繋がるところだというのは容易に想像されますよね。

しかし、そうでありながら、それでも「グルーヴ」的なものは、反発としても呼応としても、反キリスト教的なもの・脱キリスト教的なもののためにも援用されるようになっていったところが現実の顛末です。

そのありようから見ても、「何をグルーヴと呼ぶか?」ということは、その時々の社会を見ようとしたり語ろうとしたりするところとはやはり切り離せないものだという指摘に、今回何度目かに、戻らざるを得ません。それだけに今ではもうとうてい、単相的だったり単線的なものとしては扱うことのできない話です(キリスト教の動きそれ自体も、過去からの長年の間に、各地域での人のありようや習慣やフォークソングや世界観などを取り込んで進んできたのだろうということもありつつのものだという話ですし…)。

こういう話は、現在のディキシーランドジャズが今もキリスト教の賛美歌を重要なモチーフにしていながら、同時にまるで反キリスト教道徳的なポップソングも扱っているというようなところでもそうですし、非キリスト教地域での「グルーヴミュージック」や「ビートミュージック(近年のある特定のダンスミュージックスタイルの呼称としてではなくて、ここで扱っているような音楽全般をいうとしたらこういう言い方になるだろうというところでのビートミュージックです)」を考えるときにも、そのオリジナリティの構成要素としては、どうも切り離せそうもない話ということになりそうだというところなのです。

このことは、非キリスト教地域で育って暮らす非キリスト教徒の私自身には、ときどきとても扱いづらいです。

こういった話題も分かちがたいのですから、先に「旋律との主客が転換した」というふうに書いたものの、やはりそれでも「グルーヴ」の歩みは旋律や言葉とともにあって相互に影響的だったということでいえば、これはもう、きれいに分けてしまうことはできないのも仕方がない話とか、「そういう性質のものだ」とするしかないところではないでしょうか。そう考えながらも、今回はあえて特徴となり得そうなところを繋いでみようと取り出して、その脈絡において書いてみている、といった感じです。

(そこで、一方で、そうやって進みながら変化を生じていくことのなかにある「変わらなさ」のようなものを指摘しようとすることを通して「グルーヴ」というものを何か「変わらない芯のようなもの」だと捉えたいという動きも、都度つどに生じる話だとは思われます。ある種の「ほんとうの○○」思想というか。さてこれについてはどう扱うべきなのでしょうね。考える補助線などとしては有効だとは思うのですが、私自身は、それ以上のものではないように位置づけたいあたりなのですが…。)


さて、ここまで述べたところの話をあらためて見直してみたときに(つまり同じようなことをまた書きますけれども)この、ファンクミュージックに至り、さらにカレンダーを進めていった動きを古式にのっとり仮に「ジャズムーブメント」と呼ぶとすれば、南米の各地域からのそれの語り直し、アフリカの各地域からのそれの語りなおし、そしてアジアの各地域からのそれの語りなおし、さらにヨーロッパ地域からの語りなおしといったことを通して、それはらまた、それぞれの「プライド」のものとして扱われたりしてきたところが(すでに、とっくに)あるようです。「プライド」という場合に、「プライドが高い」というような場合のスノッブさとか余剰さとかについての場合もあれば、もっと個人の自己認知に欠くべからざるものということでの、それ以上には削り得ないものとしての「プライド」という場合もあるわけですが、ここでは特に後者を見つめるということについて書いています。

その動きは、いま振り返る時間感覚からいえば、「グルーヴ」音楽の誕生や成長と同時代的に始まって、現在に続いているところだといってもそれほど間違いではなさそうな話だとしたいと思います。なにしろモダニズム以降の現代の出来事ですもんね。世界が「繋がっている」というのは、ある種の前提になっているところです。そしてそこでは実際問題として、「グルーヴ」のある音楽スタイルは、それぞれの「プライド」を語るための容れ物であり、それを支える構造物としても、すでにそのように扱われてきたようなのです。

他の人の「プライド」の問題を否定するというのはそうそうできることではありません。だからこの点に関してもまた、「グルーヴ」の存在する範囲について整理しようとしたときに、よりそぎ落とした格好で扱う難しさがある部分であり、また同時に、これらのことを何かひとつだけの価値基準からシンプルに「植民地的」とも「文化盗用的」とも扱ったり断じたりし得ないところでもあり、今という点や個人という点が、もっと広いひろがりの上に存在するしかないものであるという前提を、どうしても考えから排するというわけにもいかないあたりだとも考えられます。

しかし、人と人が必ずしも直接にはつながらず、メディアや市場を通じた一方的な認知であったり消費であったりしながら繋がっているのがまた、現代の実情でもあります。人づての伝言ゲームしかない時代には、その時代なりの困りごとあったのは間違いないところですが、これはこれでまた、困りものです。「社会的」というのはさらにまた、これらのあたりのことでもあります。


これらのようなことがあって、「グルーヴ」についての語りというのは、全体を一度に扱うことが困難な、断片のコラージュとして何が語り得るか? という、なんだかとてもモダニズム〜ポストモダニズムっぽい話でもあるなあという感じがあったりもするところです。

私たちは常に、前時代を引きずりながら今を生きています。前時代こそが今なのかしら? わかんないですね。ときどき、いやんなっちゃうところですけれども。


なんの話でしたっけ?

忘れた!

(この稿おわり)

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