オンライン演劇覚書1

昨日、「『未開の議場』-オンライン版-」を観た。脚本・演出はカムヰヤッセンの北川大輔。もともとカムヰヤッセンで上演した戯曲をリメイクして「「商店街のお祭りの実行委員会が、オンラインで会議をする」という設定の、生放送の会話劇」に仕立てたらしい。「俳優は稽古から本番まですべてを、Zoomというオンライン会議アプリで行」い、観客は「会議の様子を、YouTubeLiveで配信」しているものを観る。北川は「お芝居を作ります。オンラインで」と言っているのでこれは演劇として作られたものだということになる。

さて、ではこの試みの何が演劇なのだろうか。別に喧嘩を売っているわけではなく、これを素材として「何をもって演劇と考え(てい)るのか」「演劇とは何か」ということを考えるのも面白いだろうという話だ。だからこの文章は『未開の議場』のレビューではなく「オンライン演劇覚書」と題されている。作品の中身にはほとんど触れず、問題とするのは形式だ。

ちなみに、きちんと調べたわけではないが、英語圏ではあまり映像配信の形式を使った作品に対して「オンライン演劇」というような呼称は用いられていないように思う。theaterという単語が演劇と劇場の両方を指すからだろうか。私が観た範囲ではLive cam performanceという言い方が一般的なようだ。内容的にはリーディング的なものが多い印象である。人々が集う場所としての劇場という意味ではオンラインでもtheaterという言葉は使われていて、対面で集えないからこそむしろその意味は重い。

「『未開の議場』-オンライン版-」の公式サイトのトップには

きたるべき移民時代・外国人労働力の受け入れが現実味を帯びる昨今に、日本の抱える外国人との問題を描き出す二時間一幕の会議劇。

を、パソコンの前でいっしょに覗き見してみませんか。
意思をもって集まった、豪華13人の俳優たち。14人目の参加者、あなたの参加で、この会議は「劇」になります

とある。観客の存在が演劇を演劇たらしめるというのはよく言われることなのでひとまずは了解できる文言のように思えるが、果たして本当にそうだろうか(いや、「会話劇」を「覗き見」するという言い方からは観客が存在する以前からそれは演劇なのだという認識もうかがえるのだがそれはさておき)。

問題はやはり「場」の共有ということになるだろう。劇場での上演では当たり前に時空間が共有されていたが、オンラインではまずは共有されるべき空間の問い直しが必要となる。「『未開の議場』-オンライン版-」ではその場を「オンライン会議アプリ」という空間に設定したわけだ。(ところで、空間の共有はどこまで可能なのだろうか。たとえば想像のなかで劇場の、舞台の範囲を広げていき、自宅をも劇場の範囲に含めること、自宅にいながらにして「演劇」に参加することは可能か。)

しかし、パソコンやスマホの画面上で観られることになる配信は他の配信映像や映画などとどう違うのか。2018年にはパソコンの画面上ですべてが完結する『search/サーチ』という映画も公開されている。今回の「『未開の議場』-オンライン版-」に従来の演劇との共通点を見出すとすれば、「生」であることがそれにあたるだろうか。となると、問題はむしろ空間の共有よりも時間の共有だということになる。

だが、「『未開の議場』-オンライン版-」における俳優と観客との「時間の共有」の感覚は極めて薄く(というかほぼ皆無で)、これが録画であっても作品として大きな違いはないように私には思えた。いや、厳密に言えば、Zoomの画面上で展開される会話にリアルタイム感はたしかにある。会議アプリを使ったことのある観客ならばなおさらそう感じるだろう。会議アプリはオンラインでリアルタイムの会議をするためのツールなのだから当然だ。だが、パソコンの前に座った自分がZoomの画面を開いていてそれを見ているにも関わらず、その会議に参加はしていない/できないという奇妙な状況は観客を画面内の時間から切り離すことになる。つまり、そこにあるリアルタイム感はたとえそれが録画であったとしても生じる類のものなのだ。

多少なりとも観客を画面内の時間に引き込もうとするならば、たとえば観客を会議の参加者のひとりに仕立てあげるという方法が考えられるだろう。インタラクティブであれば没入感はより増すかもしれないが、そうでなくても機器の不具合で観客が演じる「会議の参加者」役は聞いているだけになってしまっているという設定を導入すれば成立はするし、それを使った仕掛けも考えられる。しかしこれだってインタラクティブなものにしなければ録画で成立するわけで、生配信という形式は単に「演劇」のガワをなぞっているだけのように思える。

17世紀のフランス、新古典主義の演劇では三一致の法則というのが重視された。時間、場所、アクション(筋)がそれぞれひとつに限定された演劇こそがよいという基準のようなもので、それを遵守することで「簡潔さ、強烈さ、形式の迫力がある劇」(『西洋演劇用語辞典』より)が生まれるとされていた。「『未開の議場』-オンライン版-」は概ね三一致の法則に当てはまるが、そもそも三一致の法則は演劇の十分条件でないことは言うまでもない。

「『未開の議場』-オンライン版-」において唯一、時間の共有を感じられたのは(それは私にとって演劇らしきものとして感知された)、俳優の使っているバーチャル背景がエラーを起こした瞬間だった。「オンライン会議アプリ」には自室を映し出す代わりにバーチャルな背景を設定できるものがあって、俳優の何人かは自分の演じる役がいるのにふさわしい空間をバーチャル背景として設定している。私が気づいた範囲ではJAとスーパーのバックヤードはバーチャル背景だと思われ、それらは時折、人物の輪郭を侵食するなどのエラーを起こしていた(ニュースの天気予報コーナーなどでも生じるあの現象である)。これはつまり、生配信であるがゆえに俳優が空間的制約を受けているということだ。あらかじめ録画された映像であればバーチャル背景の出番はない。その場に行って撮影すればいいのだから。だが、生配信ではそうはいかない場合もある。ゆえにバーチャル背景が用いられることになるのだが、バーチャル背景=生ではない映像が用いられているということが露呈する瞬間にこそ、あるいは唯一そこにのみ「生」らしき瞬間が感知されるというのはなかなか皮肉なことではないだろうか。


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「『未開の議場』-オンライン版-」は無料公開・カンパ制。本日4月19日(日)20時の回が最後。当初は観たからには作品が面白いかどうかに関わらずカンパするつもりでいたのだが、「面白かったら」カンパしてくださいという文言があり、私にとって作品そのものはまったく面白いとは思えなかったのでカンパはやめた。しかしカンパもしないのに作品をネタにして文章を書くのも気持ち悪い。ということで折衷案としてこの文章に対する投げ銭は半分を「『未開の議場』-オンライン版-」へのカンパに回すことにした。

投げ銭はいつでもウェルカムです! 次の観劇資金として使わせていただきますm(_ _)m