オンライン演劇覚書2

ところで、私が思う「演劇らしさ」、私が演劇に期待するもの、私が何かを演劇であると感じるときの判断基準になっているものは何かというと「嘘」である。正確に言えば、「嘘を嘘と知りながら真に受けることを前提とした奇妙な形式」ということになるだろうか。もちろんあらゆるフィクションは多少なりともこのような側面を持つのだが、演劇の多くは生身の俳優が別人を演じるというかたちを取るのでその「あからさまな嘘」が意識されやすい。私にとって演劇が「生」であることの意味の大部分はそこ、つまり、嘘の下地としての現実(俳優や劇場など)の存在にある。逆に言えば嘘の下地の部分が担保されているのであれば生でなくても「演劇」を感じることができるはずだ。観客である私はいつだって「生」であるしかない。

私が映像に演劇を感じることが困難なのは、映像は映像になってしまった瞬間にそこに映し出された「現実」しかなくなるからだろう。そういう意味では、映像制作の作為=嘘をあからさまに示しながらも嘘をつき続ける『シティキラーの環』は舞台の映像化だからという意味ではなく演劇的なものとして私には感じられたのであった。

また、ゆうめい『俺』は俳優・田中祐希がたまたま観た「小林さん」なる人物による配信を再現するという作品で、その前提自体を説明する場面から作品をはじめることで作品のなかに現実と嘘のレイヤーを作り出していた。しかしより「演劇的」だったのは本番の配信に先がけて5回配信された稽古の方で、そこでは当然、稽古が中断されフィードバックが行なわれるたびに俳優・田中祐希の「現実」がより一層強調されることになる。

作品にドキュメンタリー的な要素を持ち込むことは俳優の「こちら側」=観客から観た画面の向こうに現実と嘘の「二層構造」を作るためには有効な手段だ。それは観客にとって「遠い」そこが現実であることを強調するからだ。だが一方で、その多くは「現実」のインパクトにあまりに頼っていて、たとえばいわゆるYouTuberの配信と違わなくなってしまうのではないかという気もする。

しかも、観客から観た「画面の向こう」=俳優の「こちら側」を作品に組み込むというのは出演者のプライバシーの切り売りになりがちであって、もちろん出演者が了解していれば他人がとやかく言うことではないのだが、私個人としてはなかなか見るのがしんどいと思ってしまう。さらに、舞台版の『俺』に関しては「本人」以外もスマホを通して舞台に「出演」させられていた部分があるようで、これは以前ゆうめいの他の作品でも感じたことなのだが、他人を作品に利用するのはどうなのよ……という気持ちもある。作品の説明として「劇世界と現実世界とを行き来する」という言葉があり、また「小林さん」の話が「まるで自分だな」と思ったからそれを再現してみようと思ったという前口上もあるので、そのような同一化自体が作品のテーマであり、それゆえの形式でもあることは理解できるのだが、そこにある暴力性が他人にも向いてしまっているということにはもう少し自覚的であるべきだと思う。

話が逸れた。すでに多く指摘されていることだと思われるが、そう考えると、VTuber(バーチャルYouTuber)というのはその存在様式からしてすでに演劇的である(ちなみにゆうめいの池田亮がスペースノットブランクに原作を書き下ろした『ウエア』はもともとはVTuberの話だったらしい)。第一にキャラを演じていることを前提としているという点において、第二にキャラに演じさせているという点において。観客にとっての「画面の向こう」にあからさまな「嘘」を持ち込もうとするならば、キャラクターを媒介とする、というのは一つの手段として有効だろう。実在か非実在かの違いこそあるものの(しかし本当にそうか?)『俺』も基本的にはこの構造に拠っている。

さて、しかしもちろん現実と嘘の二層構造は俳優の側にのみ構築されるものではない。観客の側にそれを作ることももちろん可能なはずだ。dracom『STAY WITH ROOM』はその方向でつくられた作品としてみることができるだろう。

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