⭕日々の泡沫 [うつろう日乗]3



ある日、何かが来る…そのことをずっと待っていた。
これまでもずっと待ち続け…訪れたら来たものを軀に入れる。そして嵌まる。
30代の後半に歌舞伎がやってきて、だからそれでも能はいまだ誰も、何もにないので、能にはほとんど関与していない。見ることも含めて。絵は青木画廊で入ってきて、日舞は梅幸さんから入ってきて…舞踏は、誰だったんだろう、いつだったんだろう。気がつかない間に入ってくるものもある。入ってこなければ、なんとなく待ち続ける。それはデュラスの『太平洋の防波堤』のようでもある。しかしながら、もちろんそんなロマンティークなものではないし、あくまでも受け手の、享受する側の姿勢。

そうしているうちに、突然[老]が訪れた。正確に言えばすっかり老に入っていたことを、ある日、気づかされてしまったのだ。
それは人間にしたらちょうど自分と同い年の猫の、ストレスによる急性すい臓炎からはじまった。飼い猫ではない猫の、治療につき合うということを最近よくするようになった。すい臓炎を患った猫が舞い込んできた。猫のすい臓炎の話は余り聞かないので、猫の病気の本を探していたら、たまたま国立博物館のミュージャムショップで『ネコの老いじたく』壱岐田鶴子を見つけた。はじめにこう書いてある。—生物学的には老化は、「時間の経過とともに生じる個体の機能や形態の衰退の過程」で、体は多くの細胞から成り立っていますが、細胞は老化すると分裂・増殖しなくなります。と。猫を自分に置き換えて、あ、何をしても駄目ということかと、すっと体が白い感覚になった。老に入りすぐそばに死があるのか…と、納得した。壱岐田はクールに愛のある老猫へ向かうことを描いているのだが、この文章を読むのは飼い主であって猫ではないので、クールにすぱっと[老]が書かれている。人の老化について書く時は、工夫によって遅らすことができるというような慰めをまず書いて、希望的観測を書く。でないと人は老を受け止められない。しかし細胞分裂の衰えはすっかり始まってラストを迎えそうなところまで来ている。僕の[老]の身体認識はこの文章とともに向こうから来た。

[老]がアプリオリに軀に入ると、良いことがひとつだけある。ある種の文学作品がすっと入ってくるようになる。『失われた時を求めて』「見いだされた時Ⅱ」のところにこうある。

負傷者が急に死を受け入れるようになるのと同じく、ありえないことではない。たとえ意識ははっきりしていて、医者だの本人の生きたいという欲望だのはしきりに真相を隠そうとしても、当の負傷者たちはこれから起こることを見てとって、「ぼくはもう死ぬんだね。覚悟はできているよ」と言いながら、妻にあてて最後の別れの言葉を記すのである。
 そして事実、私が本を書き始める前に起こったのは、はなはだ奇妙なことで、それはまったく思いがけない形でやって来た。ある晩、私が外出したとき、みなは以前より私の顔色がよくなったと言い、私の髪が黒々としているのを不思議がった。ところがその日、私は階段を下りながら、三度も転びかけたのだ。外出は二時間ほどにすぎなかった。これども帰宅したとき、私は自分がもはや記憶力もなければ思考力もなく、肉体の力も、いかなる存在感も持合わせていないことを感じたのだ。~けれども私は、自分がもう何ひとつできないことを感じていた。(失われた時を求めて/プルースト/鈴木道彦訳)
作品に描かれた書いている作家は、プルーストではないけれど、プルーストは『失われた時を求めて』の第1巻を出した年に死んでいる。記憶と現代を混淆させる文体は、老と死を意識したところから完成をみたのでは…と、勝手に思っている。この視点を使うと『失われた時を求めて』はつるつると愉しめる。

手術をしてから、一年半ほどの日がたった。身体は回復し始めている。
だが意識の方は、もう元に戻ることはあり得ない。断崖の端から、ちらりとでも下を覗いてしまったから。

あの日夜を思いだすと、意識がすくむ。
(断崖の年/日野啓三/あとがき)

須賀淳子は「本によまれて」で、『断崖の年』について、
不意に彼の心身を襲った異変を媒体として、小説と記録、虚構と現実の間隙を縫って書いたこの短編集を、新しいテーマと、新しい方法による、再度の移行への端緒かもしれないと思って読んだ。
と、書き、日野啓三は、これからどんな道を歩くのだろう。楽しみである。

日野啓三は、須賀淳子の読み取ったとおり、[死の身体的予感]を新しい方法での小説に結実させている。プルーストは言わずもがな『失われた時を求めて』を纏めあげている。

晩年に至って老を根源的に意識するか、しないか。意識をどう使うかというのは、作家によって異なる。それぞれのこと。人も[老]を衝撃的に受取って集大成する人と、それでもそのままの人もいる。自分は、[老]を受取ったからといって集大成するものもないし、そんなに変わることもない。人は生きてきた様にしか死ねない。と、誰かが言っていた。ぐだっとこのままなんだろうなと、そのこと自体も自分を鬱に仕立て上げる。意識は[老]を受取って、そのことによって見えるものも変わってしまうので必然的に状態は変わってくる。いけいけのテンションマックスの状態は、永遠にこない。それはよく分かる。そして、気づいてしまったのだ、自分ができていないことを。かなりずれこんだところを走っていたことを。だから夜想『山尾悠子』特集が突きつけた、[世界は言葉でできている]問題は、[老]の認知とも絡まって、衝撃と鬱をもたらした。

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