⭕日々の泡沫[うつろう日乗]6

本に読まれる。と、須賀敦子は書く。
須賀淳子は、子どもの頃から本が向こうから自分の中に入ってくる読み方をしていた。著作を読んでいるとどうも晩年もそうしていたように思う。
芝居に呑まれる。『唐十郎のせりふ』の新井高子さんはたぶんそんな風にして唐十郎の舞台とつきあってきたのだろう。本を読んで目から鱗が落ちた。というか目に鱗が付いているのに気がついた。

状況劇場が全盛の頃、僕は、寺山修司のところに通っていた。当時のことだから、ひとところに心を置いて他にはいかないというのが、観客のなんとなくの心情だった。紅テントも黒テントも良く知らないまま、寺山修司にどっぷりになっていた。唐十郎のロマンティシズム(当時、そう思っていた)は好きだったので、寺山さんにこっそり時々に見には行っていた。状況劇場では『犬狼都市』が好き。『下谷万年町』(蜷川演出)『ビニールの城』(石橋蓮司演出)とか…脚本を書き下ろした作品も見に行っていた。
のちに唐組を見て唐十郎の肉体が感じられなくなり、俳優たちに亡霊のようにとりついていた、李 麗仙、麿赤児、四谷シモン、不破万作…そして唐十郎。小林薫や根津甚八がちんぴらに見えた(それが良いんだけれど…)特権的肉体の欠けらもない舞台に、そんなものか…だいぶ新劇的になっているなぁとだけ思っていた。
でも、そうじゃなかった。『唐十郎のせりふ』は、1988年、唐組が結成されて以降の唐十郎の演劇について多く書かれている。唐は、演劇のあり方をかなり変えていた。特権的肉体の不在を知っていたのだ。

舞台を見慣れると、戯曲を読んだりしない。見たもので、戯曲も演出も受取れると思うからだ。新井さんは、芝居に呑まれて、泣いて、笑って、で、戯曲を読んで、戯曲が生まれるにあたって唐十郎がインスパイヤーされているものを身体に入れて…挿入歌が新井さんの琴線に焼き付き、その言葉を反芻したりもする。呑まれるように芝居を受取り、反芻し、推敲し…詩を詠むようににして唐十郎を文字にする。自分流にではなく、徹底して唐十郎の側に立って。唐十郎の芝居はそばに居ないと分からない、のだ。新井高子さんにそれを教わった。芝居は…分かる必要なんか全然、ないんだけど、もし分かろうとするなら、唐十郎の演劇に分け入って楽しもうとするなら、テントと同じ地べたに立って、唐十郎と同じ目線で、肉体で舞台に向う必要がある。それをしたのが新井高子、まとまって読めるのが『唐十郎のせりふ』だ。

以前、夜想で『夢野久作』の特集を組んだときに、中井英夫がNHKの『夢野久作』の対談から帰ってきて、まいっとな唐十郎、夢野久作読んでないよ、でたらめばかり言って…と憤慨していたが、そのとき唐十郎は誤読する人だと思って、現在に至っていたが、『唐十郎のせりふ』を読むと、ネルヴァルのように読むと、登場人物に憑依するようにして展開していく書き手であることが良く分かる。しかも一人ではなくて、風景ごと、登場人物全部に、憑依できる…つまり演劇的な幻視者なのだと。
『唐十郎のせりふ』には、舞台を見ること、戯曲を読むこと、演劇人に向うことに関して、まだまだ受取るべきことが書かれている。それら全部が、詩人・新井高子の生きる姿勢から来ていることに、心うたれる。

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