ペヨトル興亡史Ⅱ 3×3+1(最終章コーダ)


ある夏の夕方だった。オリンピックの最中だというのに世界に異常気象が伝えられ、コロナは見えない力で都市・東京を圧倒していった。もう最期にしよう、誰かがそう言った。そうだな。Kは思った。出かける前に猫がふと10年ぶりに膝にのってきたのを思いだし、ため息をついた。どっちかな。
お別れはふっとくる。挨拶はため息だ。ため息をついて人は死ぬ。父親が死んだときもそうだった。弟shinjiは、明け方に息を引き取るから立ち会をすすめた医師を無視して帰って行った。葬式だけは自分の思いのままにするぞ。固い決意だった。Kはまったく理解していない、目の前の父親が、最期が…、をどう迎えるかでいっぱいだった。母親は手を握ろうともせず、そっぽを向いていた。父親の手を握った。男の手を1時間以上握るのは、M以来だ。命大丈夫かすら分からないまま、ベッドで検査結果を待っているとき、Mに呼び出された。手を握ってくれと。結果、肋骨を10本以上折って一本が肺ぎりぎりに迫っていた。息も荒く「僕は20世紀にとどまる、Kは21世紀を走ってくれ」と落ち着いていた。あのあとMは、「20世紀へのレクイエム」というシリーズで世界の注目を浴びた。Kは、俺は…ホントに21世紀を走れたのか? 走っていたのか? 夢を見ていただけか? ゆっくりとあたりが暗くなった。机の上だけがぼーっと明るくなっている。ピンクの錠剤が置かれていた。飲めということか。よし、飲んでやろうじゃないか。飲むと視界が明るくなった。エスカレーターの一番上で、青白く太っている男ふたりに、左右からぴったりとくっつかれ身動きがとれなくなっている自分が見えた。離せよ。デブ。自分で降りるから…。身じろぎをしてもぴくりともしない、予想どおりだがな…のを確かめて、思いっきり身体を預けてた青白いデブを倒そうと、力を入れ…。あれっ、エスカレーターから墜ちていく映像が見えた。やったな。振り返ったつもりだったが、踵を返して去っていく重たい足音しか聞こえなかった。エスカレーターは永遠に降りていくように長く、だんだんどこにいるのか分からなくなってきた。頭が下になっているのか、手は動くか…腹はだいぶでっぱってきたが、あのデブほどではない。やったね、声の気配が降ってきた。見上げると、エスカレーターの最上部に、さらに台の上に乗った弟shinjiがいた。台なんかに乗るなよ。

兄ちゃん、意外だったよ。もっと上手に抵抗してくれると思っていたのに。ちょっと情けないな、がっかりだよ。もっと楽しませてくれると思ったのに、やっぱり歳だね。いやそもそもその程度の能力で、法螺を吹いて、まわりを騙してたんだろ。反省しなよ、もう遅いけど。
満足かshinji? せいいっぱい聞こえるようにはりあげた。質問されるとは思わなかったのか一瞬、表情が凍ったが、にやりと余裕をみせて微笑んだ。口角が歪んで、今まで一度もみたことのない笑い方だった。やっぱりな。計算と悪意だったんだ。天然かもしれないと…と思った、思い続けたが…ということはshinjiは完璧にKを陥れて、せいこうした、んだ。Kは子供の頃、神経衰弱で一枚もとれずshinjiに負けたのを思い出した。最後まで沈黙して負けていくと思ったのか? お前のやったことを暴いてやる。挑発は負け惜しみにしかならない。もうshinjiは動揺していなかった。沈黙と無視が必須の技だね。
最期まで喋りすぎだね。兄ちゃん。分析する頭と見巧者の目が誇りなんだろう、兄ちゃんは。『夜想』の後書きにそう書いてたよね。見えても分析できても駄目なんだ。人にどう見てもらえるか、どう尊敬してもらえるか、だよ。
兄ちゃんには著作物がないでしょ。出版社やってるのにね、僕は60冊も本を出している。編集者に頼まれてね。世間がどう見るかだよ。不良でアウトローの言うことを聞くか、名門で大学教授で生徒にも信頼されて、たくさんの読者をもっている優秀な人の言うことを聞くか? 兄ちゃん職務質問受けるでしょ。shinjiは生まれてこのかた職務質問を受けたことがなかった。惨めさだけがましていく、いや、惨めに思うことはないのに、そう思わされている? いや、逆転はあるのか。shinjiは話しやめなかった。早く引導を渡して欲しいと思ってるね、そんなに簡単にこの手は話さないよ。もっと苦しめばいいな。
どうしてこんなことする?…。俺がお前を苦しめたか?いつもお前は勝利者だったじゃないか。
理由がないわけじゃないが…、いや、理由はないな。今となってはこうしてやりたかっただけかもしれないshinjiは勝ち誇っていた。
夢、を見ているのかと思ったが、夢ならその夢はもう終わる。まるで…カフカの『訴訟』みたいだな…と思ったところでKの息はとまった。Kは悲しさだけを生き残して、目には涙が滲んでいた。


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