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「なにがやりたいの?」って聞かれるのは私が悪い

きちんと正社員なのに「将来なにがやりたいの?」と聞かれることが多い。税金も年金も支払っているにも関わらず、だ。その度に、「なんで親しくないのに自分の将来について言わなきゃいけないんだろう」とずんずん土足で踏み荒らされた気持ちなる。

就職活動をしていたときから、「なんで知らないおじさんに自分のことを話さなきゃいけないんだろう」と思っていた。みんな嫌だけど頑張っていることくらい重々承知なんだけど、どうしても言えなかった。3回目の面接中に、「大きい野望を持って生きていきたい、もう就活したくない」と堂々と発言し、場は盛り上がったが堂々と落ちた。生涯年収は確実に下がった。

ゼミの先生は私のことを心配してくれて「君は頭で考えすぎなのかもしれないね。『燃えよドラゴン』をみるように。Don’t think feel」と教えてくれた。素直なので、言われた通り、『燃えよドラゴン』をみた。名台詞は割と序盤に出て来た。映画は暴力的だったので早送りでみた。悪いので先生にはみたふりをしてお礼を言った。「将来なにがやりたいか」説明する気は起らなかった。

ちなみに、友人のタカイさんに「ラクダに乗れるから」と説得され、インドにも行った。インドに行くと人生観が変わると聞いたことがあった。インドに行き、ヨガでもしたら就活する気が起きるかもしれない、ついでに痩せるかもしれないとムシのいいことを思った。しかし、インドに行っても人生観は変わらなかったし、ラクダにも乗れなかった。痩せもしなかった。ただ、ご飯に多少の虫が入っても平気で食べれるようになっただけだ。先生に「インドに行ったけど就活する気は起きませんでした。残念です」とインドのおじさんがプリントされたお気に入りのはがきを出した。返事はなかった。

最近、唱えたい説がある。人間は「将来なにがやりたいの」と聞かれる回数が決まっている。というものだ。山本(2015)。就職活動で聞かれなかった分、いまもなお聞かれるはめになっているのかもしれない。あと何回だよ、と毎日ため息をついている。時々、「あまり知らないおじさんには言いたくありません」とはっきり言う。でも、そう言って興味を惹ける相手にしか絶対に言わない。不器用なのか器用なのか自分でも分からなくなる。

なんでこんなに「将来なにがやりたいの」と聞かれたくないのだろうか。たぶん、理由が二つある。一つは、「自分のことをわかってくれているか」を基準として人を判別する気難しい癖があること。もう一つは「そもそもやりたいことがない」ということ。いろいろと、屁理屈をこねまわしたが、要はやりたいことがないってことなんだろう。

今の会社に入る時、1時間くらい面接をした。私は、「文章を書いて食っていきたいんです」と言った。社長は案の定「やりたいことがないの?将来どうなりたいの?」と聞いてきた。「わかんないです」と正直に答えたら「自分の将来もわからないやつが、書き手になんてなれるわけない」と言われた。

私はすいませんと断って、トイレに籠城した。どうしてズカズカとこうやって、人の心に入ってくるんだろうか。私はただ、文章を書いて、手取り15万円程度もらって、ご飯を食べて、時々仲の良い友達と飲みに行ければいいのに。やりたいことは、それから見つけるんじゃ駄目なのか。もうここから出たくないと思った。敵の陣地に籠城するしかない。しかし、私は生活をしないといけないのだ。長いうんこだったふりをして面接に戻った。

もう一つ仮説を立てるとするならば、「やりたいことがありそう」だから、色んなこと(著しく低い事務作業能力)を許されていて。そのフラストレーションを解消するために「やりたいことがあるの?」と聞かれているのかもしれない。山本(2015)。

私はやりたいこともないし、それなのに不完全だから、「やりたいことないの?」と聞かれて、なんでパトロンでもないのにそんなこと聞くの?と憤っている。口を出すなら金を出しやがれ、と昂ぶっている。きちんと納税し、年金を払っているんだぞ、と怒っている。しかし、きちんと納税し、年金を払っていても、きちんと能力がないと「やりたいことないの?」の呪縛から逃れられないのだ。

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