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「シンカー制度」の話

「「姉妹」制度があった中学時代の話」 を読んだ。女子の間で姉妹制度があるという話で、面白い女子校があるもんだと思っていたら、沖縄の話だった。

ライターの與座さんは1990年生まれなので、私と同級生だろう。姉妹制度は那覇市の話らしい。実際に那覇出身の方に話を聞くと、実際に同じような制度があったと言っていた。

ちなみに私はそのころ沖縄の北部の、海と川に挟まれた中学校に通っていた。川からは不発弾が出て、教室からはアスベストが出た。私たちに「姉妹制度」はなかったが、その代りに「仲間(シンカー)制度」があった。

與座さんは記事の中で「ヤンキーもおらず、悪いイジメもなかった」と書いている。ヤンキーの定義は難しいが、ケンカをして酒タバコをたしなむ、という点においては、だいたいみんなヤンキーだったと思う。学年の女子でタバコを吸っていなかった人は5人くらいだった。女子はてんぷら屋(注1)の裏の空き地にたまり、細いピーチ味のタバコなどを吸っていた。

◇「仲間(シンカー)制度」とはなにか

仲間のことを沖縄方言で「シンカー」という。

中学に入ると、学年の中からシンカーが仮選抜される。人数にして男性女性各10人弱くらいだ。この選抜の過程は不透明であり、3年生になって本当のシンカーが決定する。

シンカー制度は自治の制度だった。学校には細かいルールがいくつかあった(注2)。たとえば、3年生の教室の前の廊下は歩いちゃいけない。歩いたら「調子に乗っている」と目を付けられることになる。

たとえば、1年生のA君が廊下を歩いてしまったとしよう。そのときに、注意されるのはA君ではなく、1年生のシンカー(仮)たちだ。そして1年生のシンカー(仮)たちから、A君は注意を受けることになる。それでもA君が廊下を歩き続けたとしよう。そうすると、A君だけではなく、1年生のシンカー(仮)たちも、3年生の先輩からお墓で殴られることになっている。連帯責任なのだ。

実際には、こんなこともあった。2年生のときだ。ある女子2人がやっていた交換ノートを理科室に忘れてしまったことがあった。そこには3年生の悪口がぎっしりと書かれていたらしく、運悪く次の授業の3年生が目にすることになった。最悪である。

昼休みに3年生のシンカーたちが押し寄せてきた。このとき、悪口を書いた女子2人は直接先輩達に殴られなかった。シンカー(仮)の女子2人とタイマンすることになったからだ。お前らの学年の責任は、お前らで取りやがれということらしい。

◇私の「呼び出し」

私は地味な生徒であったが、学年において最速で先輩から呼び出しをくらった女のひとりである。

中学1年生の4月。ソフトテニス部に入っていたのだが、部活終わりに3年生の先輩3人から「ちょっと海に来てくれない」と言われた。私は死んだな、と思った。先輩たちはその日、ペンチでへそピアスをあけていた。ペンチで殴られると思った。

呼び出されたのは私と、同級生のYだった。私とYは暗い海で先輩達を待つことになった。

私はYに大きな砂山をつくることを提案した。こうなったらヤケクソだ。大きな山をつくった。「こんなときは風林火山だ」と思ったからだ。

少し遅れて、3人の先輩たちがきた。大きな砂山を見て、「はは、ウケる」と言った。火のような怒りは回避した。風林火山作戦が成功したと思った。

先輩たちはたどたどしく、「テニスがうまいから調子に乗らないでほしい」と私に言い、Yに「目つきが悪いからどうにかしろ」と言った。私は小学生からテニスをやっていたので、先輩達よりちょっとテニスが上手かった。Yについてはそういう顔としか言えなかったのでかわいそうだった。たぶん、私のついでに呼ばれたんだろう。

最後に「次調子にのっていたらボコる」と言われ、「このことは絶対言うなよ」と口止めをされて解放された。死ななくてよかったと思った。Yがすぐ喋ったので、このことは学校全体に広がった。

ここまではよくある話であるが、ここからが興味深かった。3年生のシンカーの先輩たちが私のところにやってきて「あの呼び出しはダメ。あいつらに嫌なことされたら言って」と言われたのだ。あの呼び出しは、3年生のシンカー達の承認を得てない呼び出しだったらしい。個人的感情で暴力を加えることは許されないのだ。

◇原因と対策

このようなシンカー制度があるのは、他校との抗争があったからだろう。

特に山の近くにある中学校(以下、「山中学」と記す)と仲が悪かった。

たとえば、先輩たちの卒業式の日には、山中学が中学最後のケンカを仕掛けにきたといわれている。そして、中学近くの林でケンカをしたという。本当かどうかはわからないが、あり得ない話ではない。目撃したことはないが、「今週の日曜日に山中学とケンカする」という話もよく聞いた。改造自転車で乗り込むのだ。あり得ない話ではない。

というわけで、シンカー制度をつくり、戦力を確保していた可能性がある。

当時、平和に暮らしたかった私にとっては、関わりたくない制度だったが、みんなシンカーになりたがった。特に私たちの学年の女子はAグループとBグループに分かれており、どちらがシンカーになるのかが大きな関心だった。私は比較的Aグループと仲が良かったが、部活のメンバーはBグループに属しているなど、なかなか複雑な立ち位置だった。いかにそこから距離をおきながら、友人関係を円滑に保つのかが私にとっての大きな課題だった。

ちなみに、先述した交換ノートを忘れた2人がBグループだったために、Aグループのメンバーが自動的にシンカーになることになった。

仲が良かったAグループの子たちは、私とも仲良くしていたが、やはりヒソヒソとシンカー関係の業務で相談することがあり、それはそれで疎外感があった。暴力は嫌だが、仲間外れも寂しいものだ。

ちなみに、そういった制度について、たぶん先生たちは気づいていたが何もしなかった。殴られるのはお腹などの見えない場所なので、もしかしたら本当に気づいていない先生もいたかもしれない。

ケンカや飲酒、タバコが見つかったら、そこに居合わせただけでも、内申書に辛いことを書かれることになっていて、それはひとつの歯止めになっていただろう。私も「なんで内申が下がるのにシンカーになるなんて、バカだなぁ」と思っていた。

ただ、シンカー制度がある以上、誰かがケンカをしないといけない。先輩が酒を飲み、タバコを吸っているときに、止められる後輩なんていない。たぶんそれは、先輩達もずっとそうだったのだ。学校制度の方が実情に合わないのは確かだった。

ちなみに卒業式の日には、男子のシンカーたちが「卒業暴走」をする。県道を改造したチャリで走るのだ。暴走するだけではなく、見に行くだけでも、内申に響くぞと先生たちから脅されていたが、これも実情に合わない制度である。やらなかったら、先輩たちにボコボコにされるんだから。そんなので進路が左右されるなんてめちゃくちゃな話だ。

実際、私たちの地域は貧しかったので、進路について真剣に考えられるチャンスがみんなに与えられていたわけでもなかった。そのことに気づいたのは、私がずっと大人になってからだ。

◇さいごに

色々と書いたが、中学時代は割と楽しく過ごした。同級生はfacebookでもつながっているし、今でも仲の良い友達もいる。なんならこのシンカー制度も、面白いネタとして人に話している。私が東京に出て、関係のない人間になっているからだ。

いま私の通っていた中学は、周辺の開発が少しずつ進んでいて、山中学とケンカしていた林も、カラフルな遊具がそろう小ぎれいな公園になっている。生徒数も1.5倍に増えたらしい。シンカー制度がまだあるのかはわからないし、卒業暴走があるのかもわからない。少なくとも、後輩たちは暴力におびえずに過ごしていて欲しいと思う。

(注1)沖縄では1個50円くらいからてんぷらを売っていて、スナック感覚で食べ、集まりなどがあると持って行く。ソースをつける。サツマイモ、白身魚、イカ、やさい、モズクなどが一般的。白身魚とイカは形がにているので、一般的にかじってみないとどっちなのかわからない。たまにどっちがどっちだか見分けることのできる神の目をもった人間がいる。学校の近くのてんぷら屋の白身魚はナイルパーチを使っていて、『ダーウィンの悪夢』を見たときに「あ、てんぷらだ」と思った。
(注2)他の学校では、「1年生はジャージのチャックを下まで下ろしてはいけない(暑くても)」「3年生になるまで、地元のお祭りで浴衣を着てはいけない」などがあった。

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