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さらば、初めてのエヴァンゲリオン

※この記事は『シン・エヴァンゲリオン:||』に関するネタバレを含みますので、ネタバレ感度(?)の高い方は読むのをお控えください。

※また、今現在『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と『シン・エヴァンゲリオン :||』のみ視聴を終えた段階で、テレビシリーズと旧劇場版は未視聴です。
僕自身はかなりネタバレ感度が高く、テレビシリーズと旧劇場版を観終えるまではネット上に転がるエヴァネタ、感想・考察系記事、さらには各公式サイトの閲覧さえもほぼ絶つと決め込んでいる状態ですので、「?」なことを言っていてもサッと流してください。

2021年7月14日。
映画鑑賞後、超水道メンバーの蜂八さんに手短に感想を伝えたところ「ぜひ文章にして読ませてください」とご要望を頂いたため、そのまま深夜テンションで書き上げたものを、後日手直しした(出来てないかもしれない)ものです。


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終演を一週間後に控えた2021年7月14日、都内の某映画館で『シン・エヴァンゲリオン:||』を観た。

スタッフロールが完全に流れきり、館内の照明が点くまで、誰一人身動きせず、音も立てなかった。
気付けばお尻が痛くて、そういえば一度も体勢を直さなかったことを思い出す。

とりあえずスマホの電源を入れようとカバンから取り出したが、手に力が入らず、スマホを床に落としてしまった。
席を立つ時、脚にも力が入らずフラフラして、そういえばずいぶん体に力を入れていたなと思い出す。

映画館を出て、ずーっと気になりつつも一切聴かないように努めてきた宇多田ヒカルをAppleMusicで検索し、一番最初に表示された再生リストを流していたら、まるでこの世界がまだスクリーンの中のような錯覚に陥った。
光も、人並みも、車の行き交いも、スクリーンの中の出来事のようだった。

フラフラ、ふわふわした足取りのまま電車に乗り、過ぎ去る夜景をぼんやり眺めていたら、ようやく、じんわりと喪失感のようなものが押し寄せてくるではないか。

なんだろうこれは。うーん、どこかで感じたことのある感覚に似ている。
あぁ、これは…たぶん、恋に似ている。

でもこれは片想いだ。
そして、相手はもう、この世を去ってしまった後だった。


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生まれてから20代を終えるまで、ずーっと、エヴァンゲリオンという作品にほぼ触れずにきた。

いつだったか金曜ロードショーでエヴァンゲリオンが放送された際、アスカが初めて登場するシーンだけは観たことがあった。が、その日はあまりにも眠かったので眠気に耐えきれず寝た記憶がある。
周りにはエヴァが大好きという友人もいたが、特別エヴァに対して語ってもらった記憶がない(覚えていない説もある)。

それほどエヴァンゲリオンという作品には無関心というか、興味がなかったのだ。正直なところ、死ぬまで観ないくらいのつもりでいた。

しかし、ある時から興味を抱くようになった。


最初のきっかけは『シン・ゴジラ』だ。
まともに庵野秀明監督作品を観たのはそれが最初だった。ゴジラを観ていたはずなのに、周りが「エヴァンゲリオンだ」としか言わないせいで否が応でも気になってしまったというものだ。
今観れば分かるネタもたくさんあるのだろう。それでも当時は、知らないなりに映画として純粋に楽しむことができた。

その後しばらく経ってから同じく庵野秀明監督作のアニメ『彼氏彼女の事情』を観た。
昔のアニメ作品を視聴するのにハマっていた時期で、特に理由はなくサブスクリプションで並んでいたものをたまたま選んだのだが、作画も良いし、演出や構成、心理描写などが非常に印象的で、とても良いアニメだった。
(これも今観たら「エヴァンゲリオンだ」と言いたくなるのかもしれない)

そして時は経ち、2021年3月『シン・エヴァンゲリオン:||』劇場公開。
ついに、明確に「エヴァンゲリオン」を意識した。
5月に20代を終え、ある種の節目を迎えたことも相まってふと考える。

これでも創作に携わる絵描きの端くれだし、同一視するのは非常に失礼なことだが──『ghostpia』という作品をずいぶん長く作り続けている身でもある。
四半世紀に渡って続いてきた作品が終わるという、歴史的な瞬間だ。
多くのファンの心を掴んでやまない作品が、どうして支持されているのか、そしてどのように終わりを迎えるのか、この目で確かめるべきなのでは。
去年『ルパン三世 カリオストロの城』が劇場で再上映されていて、大好きな作品を劇場で観ることが叶っていたく感動したし、せっかく上映していて観れるチャンスがあるのだから、やはり劇場作は劇場で観ないと後悔するのではないか。

…といった、永きにわたる自問の果てに、ついに重い腰を上げて視聴を始めた。


テレビシリーズから観たほうがいい気もしていたが、悠長にしていて劇場公開が終わってしまったら元も子もないので、まずは序破Qだけを視聴しよう。そう考えて序を観た時点で、すでに圧倒されてしまった。

いやいや、映画として、完璧じゃないか……。

自問などしてる暇があればさっさと観るべきだった。
『シン・ゴジラ』や『彼氏彼女の事情』を楽しんだ人間がこの作品を嫌いなわけがなかった(個人の感想です)。

「序からだと話についていけないんじゃ?」と脳裏をよぎったが、これも全くの杞憂だった。
いや、正確には理解が追いつかない部分は確かにあった。
それでも話は面白いと思えたし、そもそも話が分からなくても、アニメーションとか画作りがかっこいいだけでめっちゃ楽しめる人間なので全く問題なかった。

そんな僕でも流石に破、Qと観終えた後、
「いや待て、自分はテレビシリーズと旧劇場版を先に観るべきだったのでは…??」
という後悔を強く感じた(し、今でもその世界線を思わずにはいられない)けれど、身の回りには僕みたいな境遇の人間はほとんどいなかったので、いずれ語り合うなら違う視点のほうが面白いだろう、と、テレビシリーズと旧劇場版は『シン・エヴァンゲリオン:||』視聴後に観るという姿勢を貫くことに。

そして劇場での鑑賞を終えると、冒頭に書いたとおりの感慨を得た、というわけである。


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世の中にはたくさん彼女(?)の情報が散らばっている。
インターネットの中では、あるいは自分の周りでは、その情報がすでに広まっているのだけれど、自分だけはあらゆる情報を持っていなかった。

四半世紀の足跡も、8年越しの再会の意味も、自分は知らない。

ずっと周りの熱量とは明らかな温度差を感じていたけれど、蓋を開けてみたら、どうやら実は好きだと分かってしまった。
好きなものはもっと知りたくなる。でも、その相手はすでにこの世を去ることが決まっていた(というより、もう去っていたという方が正しいだろう)わけで──
少なくとも今の自分には、約束された終わりを、なんとかいい形で迎えることしかできなかった。

もし、もっと早いうちからエヴァンゲリオンを追っていたらどうなっていたのだろうか?

四半世紀の足跡を想いながら、8年待ち焦がれることが出来たら、どんな気持ちを抱くのだろう。
同じ好きでも、それはきっと違うはずだ。


…とまぁ、なんだか感傷的な物言いになってしまったが、こうして考えていると実は「興味がなかった」のではなく、そう思い込んでいただけかもしれないな、という気がしてきた。

自分は結構天邪鬼なところがあるので、みんなが好きなものを素直に好きと思えない時もある(これは性格的なことなので致し方ない…けど、良いなと思ったものはちゃんと良いと言います!)。
しかし自分の場合、大抵のものは食わず嫌いなだけだ。多くの人から支持される作品は、自分にとっても刺さることは多い。

エヴァンゲリオンも同じように、実は心のどこかではずっと気になっていたからこそ、もしかしたら好きになってしまうような直感を抱いていたからこそ──いつか視聴するその時が来るまで、余計な先入観を排除するために、自分からあえてシャットアウトしていたのかもしれない。


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少し話は逸れるが、「原体験」という言葉をご存知だろうか。
デジタル大辞泉によると、

その人の思想が固まる前の経験で、以後の思想形成に大きな影響を与えたもの。

ということらしい。
言葉の定義としては幼少期の経験のことを指すようだが、大人であったとしても、原体験的な経験をすることはあるように思う。

何事も「初めて」の物事は記憶としても感覚としても色濃く残るものだ。
そういう色濃い経験はその後の行動原理にもなり得る。創作をしているからか、経験から得た感覚、気持ち、思想、思考は何らかの形で自分の作品に活きていると感じる瞬間も多い。

だからこそ「初めて」は何事も大事にすべき、と自分は思う。

例えば、自分が強烈に影響を受けるような運命的な作品があったとして。
事前に誰かから重大なネタバレや感想を聞いてしまったとしたら、果たしてその作品を鑑賞し終えた時に抱いた感想や受けた影響は、純粋に、その作品から受け取ったものだと自信をもって言えるだろうか。

仮に先入観やネタバレがあっても、そこに納得感があるなら何も問題はないと思う。
でも、少しでも納得できなかったとしたら、それが原因で相手を恨んだり、作品体験そのものが台無しになったと感じてしまうのは非常に残念なことだし、特別になり得た体験が特別でなくなってしまうというのは不幸なことだ。

余談だが、劇場で観ると決めてからのひと月は、ありとあらゆる方向に対してネタバレ感度が高まっていたせいで非常にエキサイティングな毎日だった。
一番やばかったのはアニメについて語る系のYoutube動画を開いた瞬間、サムネ・タイトル・概要欄で1ミリも触れていないのにふいに「エヴァンゲリオン」の解説が始まろうとした時である(「シンジが」と聞こえてすぐさま閉じて事なきを得た)。
お願いなので語る前に断りをいれてください………

脇道にずいぶん逸れたが、「もしかしたら好きになってしまうかも…」と思えるような作品は、あえて自分の方から遠ざけていることはままあるよな、という話である。

本当に無自覚だったが、エヴァンゲリオンもそういう作品の1つだったのだろう。

そんなこんなで遠ざけ続けてきた人間が言えることではないが、直感的に気になった作品があれば、先延ばしにせず旬のうちに触れておくのが一番だろう。
似た言葉で「推しは推せる時に推せ」というのがあるが、作品はいつでも観れると思ったら(多くの場合はそうなのだが)間違いだ。
くどいようだが、もしもっと早くに出会えていたら、もっと色んな楽しみ方や、リアルタイムに「待つ」という行為からまた別の作品体験や感覚を得ることが出来たのかも──なんて思ってしまったのだ。

でも、そういった寂寥感のようなものに浸って感傷的になってみるのも、まるで恋煩いのようだと思えば、まぁ…悪くはないかもしれない。


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そういえば『シン・エヴァンゲリオン:||』を観終えて、夜風に吹かれながら、ハッと気付いたことがある。

それは、僕がこの作品を見誤っていたことだ。

序破Qを観て、エヴァは「とびきり質の良いロボットアニメ」だと思っていた。
だけど、『シン・エヴァンゲリオン:||』を観て、そうじゃなかったことに気付いた。

いや、実際に「とびきり質の良いロボットアニメ」であることに変わりはないのだが、そうではなかった。

僕は観終えるまで「とびきり質の良いロボットアニメ」であるエヴァンゲリオンを期待していたので、その期待を超えていったことに、驚いたし、感動したし…とても嬉しかった。

観るまでは情報量に自分がついていけるかという不安もあったのだが、結局Qを観終えた時点で自分が抱いていた謎は半分以上(いや、もっとかもしれない)回収されないままであるにも関わらず、不思議と満たされたのは単なる「とびきり質の良いロボットアニメ」ではなかったからだろうか。

とはいえ、テレビシリーズも旧劇場版も未視聴なので、何が明らかで、何が明らかでないのかまだ判断がつかないし、恐らく僕は話の8割も理解できていないのだが、それでも、エヴァンゲリオンという作品が圧倒的に、完璧に「終わった」ということだけは分かる。

そして、アニメーターとしての庵野秀明監督の作品が、恐らくは今後観ることが出来ないんじゃないか、ということも…。


マンション前の坂道をフラフラと登りながら、あまりにも完璧に最期を迎えてしまったので、もう自分の中でもこれで本当に終わりということにして、テレビシリーズも旧劇場版も観ずに終えるのが一番幸せかもしれないとさえ考えた。

でも、最期を知ってしまった僕には、四半世紀の足跡を辿る責任があるのではないか、と思い直す。
それが亡き想い人への、せめてもの手向けになるのではないか…と。

それに『シン・エヴァンゲリオン:||』のタイトルに含まれる記号「:||」は、音楽記号で「リピート」を表している。

そうだ、きっと僕にとってのエヴァンゲリオンは、もう一周残されている。

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