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1度デザインを離れた人類がデザイナーになるまで

 初めまして、山眠るです。12月から、noteで日々の思考の断片をしたためていこうと思います。個人の書き物でありますが、たまにどこかのAdvent Calendarにも接続されるようです。早速ふうじ君からバトンを引き継ぎました。

 今日は自己紹介がてら、私がデザイナーになるまでの経緯を書いていこうと思います。


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私がデザイナーに就いたのはここ2年の話である。

高校では美術科目が多く設定されている美術科を、美大では情報デザインを学んだが、デザイナー就職は親の賛同を得られなかった。もっとも、私はまだ人生でやりたい事を見つけられておらず、特段落ち込むこともなく商社に就職した。就職後は一人暮らし資金を貯め、実家の規律から自律するためにマンションを契約して家を出た。お金はなかったが、誰からも制約を受けないキングボンビーライフは幸せだった。

1度目の退職

商社に就職して3年と半年が過ぎた頃、ある契機が訪れた。

私は元来体が弱く、アレルギー体質だ。幼少時、枕元には常に嘔吐対策の桶があり、電車やバスに乗ったものなら乗車5分で吐きまくっていた程で、母親の支えと治療によって今の健常者と差し障りない生活を手に入れた。

今回の契機とは鼻中隔湾曲症とアレルギー性鼻炎、花粉症、内腔で肥大した四箇所の切除と神経切除、鼻呼吸改善のための手術だ。本当は内斜視の手術も別途提案されていたのだが、斜視はイタチごっこになりそうなのと目に注射するのが怖過ぎたので拒否した。鼻の手術は全身麻酔で2回に分けて行われるため、その後の身体の影響を考え仕事を辞めた。

手術は事前に訴えていた優秀な麻酔科医をお願いします!という意味を医者に理解してもらい無事成功した。全身麻酔も局所麻酔も経験済みの私は、麻酔がかかりにくい事を自覚している。静脈麻酔を入れても眠らず延々と話し続ける。今回も感心されながら「本当だ全然眠らないねえ〜すごいね。もっと強くしよう。ところで、お酒すき?」と訊かれ、私は「大好き!」と答えたと同時にコテッと意識を手放した。

術後は圧迫止血なので口呼吸しか許されず、無呼吸症になりかけながらもなんとか生き抜き、鼻で呼吸する世界を手に入れた。手術関連で現金が尽きかけたので、半年の療養を経て、お尻から火を発射する某キャラクターのインフラ企業へ就職した。

コミュニケーションとデザイン

2社目ではグループ企業、法人、学校、官公庁、一般家庭の方々など、ありとあらゆる方と直接対話する機会に恵まれた。ここで私は少しずつ学生時代のデザインの知覚を取り戻していくことになる。それは顧客に情報を正しく伝達し問題解決に至ったかの考察、顧客を理想的な次の行動に繋げられたかの結果との向き合いの中で再会した。

私の最初の躓きはコンサルティング業務の中で起きた。テクニカルな詳細データと周辺知識、情報、情報にたどり着くためのキーワード。これらの情報粒度や階層構造をなかなかうまく伝えられなかった。自分がこれまでいかに聞き手の経験や知識量、推察能力に依存した会話を展開していたのかを思い知る機会だった。比較・抽象・概念化・判断・推理によって起ち上がる認識はいくらでも姿を変える。多様な文化背景、理解度に対して、私の伝達方法が圧倒的に不足していた。伝達失敗による悪影響にも苦慮した。顧客は不足した情報を後で感覚で補ってしまう事があるからだ。これは私が前もって言葉と形で先に差し出しておくべきものだった。私はなんの機微もない、覚えた事をただ読み上げることしかできていなかった。

また、相手の言葉上にない本質的な問題を見抜けていないが故の解決策のズレ。これもまた私を悩ませた。相手に気持ちよく帰ってもらうためのヒアリング能力、最終的に自由選択をしてもらうための形式付与。物語も作品も、全ては読む人の、みる人の中で完成する。その推察・斟酌ができなかった。相手が物事をどの方面から眺めているかを理解しなければ、人を有益に嗜め、その人に間違っていることを示すことはできない。ブーレーズ・パスカルの言葉を思い出す出来事だった。

2度目の退職

思い悩んだ出来事が日々のインプットとアウトプットによって改善に向かう頃、心のどこかでぼんやりとデザインへの探究心がむくむくと膨らんでいた。おそらく、改善プロセスがデザインプロセスに似ていることを感じ始めたのだと思う。

これまでも時折デザイン依頼がくることは仕事でもプライベートでもあった。私にはそれくらいがいいと思っていた。私は知識のインプットは好きだが自分のアウトプットに満足できた事がないし、熱しやすく蒸発しやすい。このマイナス面を認識している故に、デザイナーとして不向きだと思っていた。しかしある朝、膨らみ続ける探究心を抱き続けて仕事をすることに嫌気がさした。何に対して不誠実なのかわからないが、たまらなく今の状態が不誠実な気がした。今思うと、自分のやりたい事が見つかったかもしれない興奮と、衝動的な感情だったのかもしれない。私は出社してその足で上司に辞意を伝えた。上司は辞めて欲しくない、と少し泣いた。好きなチーム、好きな上司だったのでその姿に心が痛むと同時に、自分が必要とされるレベルにはなれていたんだという嬉しさも感じた。

私は退職まで日々の仕事を楽しみながら、今度は自分にどんな形を与えようかと考えはじめた。アンビバレントで、どんな仕事でも学び楽しめる自分に新しい形を与える。憧憬を抱きつつ、無理だろうと思っていた形を目指してみようと思った。決めてから次の会社に入るまでの約半年、毎日インプットとアウトプットを繰り返した。いや、ちょっと嘘をついた。たまに電池が切れたようにベッドで過ごしたりもしていたし、頭の中を入れ替えたくて、自然を求めてひたすら散歩に出かけたりもした。ただ、振り返ればこの半年~1年はあまりアウトプットに大きな成長はなかったように思う。思考法やアウトプットを学習するための学習効率を学んでいたように思う。あとは眼。判断する自分の目を養っていたようにも思う。

こうして私は形、デザイナーになった。形から入った。デザイナーができているのかはまだわからない。相変わらず私はアンビバレントでマージナル的で、自分を信じることが難しい。自分の施策やデザインが、UIが、体験が結果をもたらした時だけ気が抜ける。安心できる。

しかし最近は自分の良いところも発見する事ができた。何事も必ずサーヴェイから、煮詰らなかったり視野が狭くなったら異なるサービス検証をする事で思考の発散と収束を繰り返し、より良い形へ昇華させる事ができた。これはデッサンをしている時の感覚に近い。一に没入して全体が見えなくなると均衡を失ってしまうし、全体を同じような質感、筆致にしてしまうと抑揚のないつまらないものになってしまう。集中して、離れて俯瞰して、再び集中する。このひたむきな繰り返しによって情報設計は洗練されていく。
 また、これは普通のことだが、誰の意見にも耳を傾けることができた。存外、人の意見に耳を貸さない人類はいる。良いものを届けたい、作りたいという同じゴールを目指している仲間なはずなのに、意見を言われただけで憤怒してしまう人類を見たこともあった。私は意見を頂く時、私に見えていない・見落とした何かが見えているかもしれないと思う故に、まずその人の正しさを知ろうとする事を心がける。自分の設計がユーザーの何がしかを阻害していないかの再確認をする。自分の理解が誤解でないか考える。結果、私は、私の正しさが私と近しいユーザー以外を遠ざけてしまう可能性のある設計を回避することができた。この気持ちは、圧倒的忘却力を持つ私だが、ずっと忘れないでいたい。失意泰然、得意冷然。

長くなったのでおわることとする

思いのほか自己紹介ストーリーが長くなってしまった。
あれからまだたった2年。しかしてもう2年。私はこうして「デザイナー」になりました。次では、デザイナーになってからの様々を書いていけたらなと思います。デザインそのものについて書くことはそんなにないかもしれません。そんな事言いつつ全然違う事書くかもしれません。カモシカかもしれません。

次のAdvent Calendarは@rinistが書きます。少し先になりますが、お楽しみに。

不尽


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