安倍元総理の訃報を受けて考える「安倍晋三論」


安倍元内閣総理大臣が銃撃によってこの世を去られた。

このニュースは日本だけにとどまらず世界に広がり衝撃を与え様々な国の政治家や首長が悲しみを表明し、お悔やみのメッセージが送られた。

そんな中私もとても大きな衝撃を受け、悲しみを感じ、心に穴が開いたかのような喪失感が全身に覆いかぶさっている。

この喪失感は何なのか。

これを少しでも言語化、そして後のための記録として記したいと思い、このnoteを書いている。

前提として私は自民党支持者ではない。
また、安倍晋三氏が行ってきた政策に関しても賛同できるわけではない。

しかし、私は安倍氏が銃撃を受け、亡くなったという知らせをきき、
涙を流し悲しんだ。

人間が死ぬということはとても悲しいことである。
ましてや暴力によって人を殺してしまうというのはあってはならない。

しかし、私は人が殺されてしまったということ以上に安倍氏が銃撃され死んでしまったということに大きな悲しみを感じ、喪失感を覚えている。

このことを考えると私の中で安倍晋三という人物が大きな存在としてあったのだということが分かった。

安倍晋三はなぜ大きな存在なのだろうか?

なぜ私の心の中に大きな存在としてあるのだろうか。

一つに私が小学生から高校生までの間、長期政権として安倍政権があったということがあると思う。

私たちの世代、つまりゼロ年代世代は子供時代を安倍政権下で過ごしているためテレビや新聞、日常会話に至るまで、「日本の総理大臣といったら安倍晋三である」という一種の「常識」が飛び交っていた。

私は自民党から民主党に歴史的な政権交代を知っているわけでもないし、震災対応がダメダメだった菅政権も知らなければ、消費増税を決定した野田政権も知らないのだ。

ただただ安倍政権下の状態が日常に横たわっていた

そのなかでいわいる「アベガー」になったり、「ネトウヨ」になっていたこともあった。
なぜこれら性質が異なる政治主張を一転二転して受け入れられたのか。
それは子供時代に醸成された「総理大臣といったら安倍晋三」という価値観によるものだと考えられる。
このような価値観があるからこそ安倍氏に関するさまざまな主張をできるのではないだろうかとようやく自己完結的ではあるがこうして言語化していく中であきらかにすることができた。

ここで重要なのは、私の思想遍歴などではなく、少なくともゼロ年代に生まれた世代というのは是非に関わらず上記のような「総理大臣といったら安倍晋三」という価値観を持っているということだ。

総理大臣は安倍晋三という価値観

この価値観が日本国民に浸透しているのではないだろうか?

だからこそ前回の総裁選あたりに行われていた新聞による世論調査においても安倍氏の再登板を望む声がおおくあったのではないだろうか。

安倍氏の訃報から現在までのTwitterやネットのコメントを読む限り思想信条にかかわらず安倍氏の訃報に大きな喪失感を抱えているように見える。

これは私たちの中に「安倍晋三という総理大臣」という「常識」が存在しているからではないだろうかと考える深夜2時である。

最後に

今回衝動的ではあるがnoteを書いた。

これは誰かに読んでもらいたいとおもって書いているわけではなく、自分の精神状態というのを安定させるため、私が考えていることを思うがままに書き記し、後の自分に残そうと思って書いた。また、「安倍晋三」という存在がどれほどでかいものであったのかを再認識することができた。

安倍氏の訃報は本当に残念であり、悲しい事件でした。
心からお悔やみ申し上げるとともに安らかなお眠りにつかれますようにお祈りいたします。



違う視点で一つ確認しなければならないのは選挙とは別で考えなければならないということです。

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