「芸大卒のオペラ歌手は使いづらい」という現場の声

ちょっと小耳に挟んだんですが

「芸大卒(東京芸大)のオペラ歌手は、演技とかの引き出しがなさすぎて使いづらい」

という現場の声が、あるらしいです。

僕が聞いたサンプルはそれほど多くないですし、局地的な意見なのかなーとも思うのですが、僕としても「なんかわかる気がする…」と反論できず納得してしまったので、それについて書いてみます。

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というか、この指摘、すげえ由々しき事態だと思うんですよ。

芸大といえば、芸術系の大学としては日本で最も歴史が古く、いちおう、芸術大学としては国内最高峰ってことになっています。

あ、この記事で指している「芸大」というのは、「東京芸術大学」のみですからね。そのほか「芸大」という呼称で呼ばれている学校さんは、
「ありゃま、東芸はそんなこと言われてんのか。まあわかる気がするー」
とか思いながら読んでください。

で、ですよ。

いちおう国内最高峰って言われてる大学から輩出された人材が、いざ現場に出たところ「使えんなー!」って思われてるって、やばくないですか。

いったい全体、大学はどんな教育をしとんのんじゃ、と。

学生も、どんなつもりで勉強しとんのんじゃ、と。

そういう話になりますよ。国公立ですからね。国民の税金で研究し、勉強をしている身分でありますから。

その、税金で勉強した人材が、「それ相応の価値を市場に提供できていないよ?大丈夫なの?」っていう指摘ですから。これは大変です。

注目すべきなのは、使いづらい理由が「演技とかの引き出しがなさすぎ」という点です。

これ、じつは、僕も感じていました。自分のことを含め、自省を込めて、ですよ。

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さて、上に書いたように、東京芸術大学、通称「芸大」は、芸術系大学においての日本最高峰ということになっています。多くの高校生や浪人生が毎年その狭き門を目指してしのぎを削った末に入学してきます。

この「日本最高峰」という自負、たぶんね、というかぜったい、在学生にも卒業生にも教職員にも、あると思うんだよなー。

正直言って、僕自身も持ってますから。

「僕は(いちおう)東京芸術大学を卒業したんだ」っていう自負。

べつに、手ばなしで芸大を賞賛するわけではないですが、少なくとも、あの高倍率な実技試験を突破して入学し、バケモノみたいな教授陣や同級生のなかで揉まれ、自分の自信の鼻っ柱を折られまくりながら4年間(僕のばあいは5年間ですけど笑)を過ごしたという経験には、少なからず誇りというか、「まあ、よくあんな大変なことやったわ。いま同じことしろって言われてもぜったいイヤだけどな。」みたいな思いは持っています。

それに、卒業して社会に出たときにやはり「芸大卒」という肩書きは、なんというか、力を持っているんですよね。

「芸大卒」という経歴を知られた途端に、ある種、一目置かれるというか。
仕事の話をするにしても、この経歴だけでずいぶんスムーズに進んだ案件ってのは、たしかにあります。

そんな恩恵にあずかりながら、「俺は芸大卒だ」みたいな自己認識もしながら、芸大卒の(数多の)歌い手たちは、それぞれの現場で活躍をしていくことになるのです。

(余談ですが、上で「数多の」と書きましたが、本当に数多なのです。だって声楽科だけで毎年50名くらいの学部生が卒業していくんですもの。毎年50人の声楽家の供給、ほんとに必要なんかな、このご時世のクラシック市場に)

教授陣だって同じです。

芸大の声楽科の先生方のなかには、芸大を卒業された方もいらっしゃいますし、そうじゃない方もいらっしゃいます。

でも、おそらく「芸大で教鞭をとっている」ってだけで、他の音大の先生方よりも良い待遇を受けてるはずです。

変な話、「芸大の先生」っていう肩書きだけで、レッスン代ずいぶん上乗せできると思いますもん。あ、こういうのナイショの話ね。

そんなこんなで、学校の権威を使って芸大関係者はなかなか良い思いをすることができます。

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で、所属している人たちにも「芸大」という権威は強い影響力を持っていますから、カリキュラム自体にもその「芸大はスゴいんだぞ感」みたいなのが反映されるわけです。

つまりどういうことかというと。

あくまでも僕が在籍していたころの印象ですが、

芸大の声楽科に在籍しながら教わったことって、とっても「伝統的」で、「正統派」で、「オーセンティック」で、「スタンダード」なものだったなと思うのです。

他の科はどうか知りません。美術学部もどうなのかは知りません。

あくまでも、音楽学部声楽科では、という話です。

僕が在籍していたころの「伝統的で正統派」なオペラ、なり、声楽というものはつまり、そのころの教授陣が若いころから見聞きし実践してきたスタイル、ということです。

僕の先生方の先生方が実践していた演奏スタイル、と言い換えてもいいかもしれません。つまり、1900年代前半のオペラや声楽曲の演奏スタイルです。

この記事で問題として取り上げているオペラでいうと

・仁王立ちで
・話しかけるときにはナナメ45度の位置をとって
・あるいは独白では正面を向いて
・客席に声が届くことを第一に考えて
・楽器である体のカタチを崩さないような体勢で

歌う、ということですね。

「それの何がいけないんじゃ!!!」
「すげえいいことばっかりじゃないか!!!」

という声が聞こえてきそうですね。ひゃー。

いや、言い訳するわけじゃないですけど、上で挙げた項目は、僕もすげー大事だと思いますよ。基本として、まずは身につけた方がいい技術だと思います。

でも、あくまでもこれは基本ですから。

仁王立ちで微動だにせずネモリーノを歌って許されたのは、天下のパヴァロッティまでですからね。

いまはもう2017年。

20世紀後半から21世紀のオペラ界で求められている芝居としての技術は、どんどんどんどん発展しちゃってます。

それがオーセンティックなものと比較して「正しいかどうか」は問題じゃないのです。

さいきんの(特にドイツあたりから発信される新演出の)オペラを指して、「あんなのはオペラじゃない。オペラの良さをないがしろにしてる。」という批判はたくさんありますし、一理あります。

でも、グローバルスタンダードは1910年頃のオペラの作り方から、ずいぶんと変化してしまったのです。

この事実を受け入れないと、伝統的なオペラの発展と保持はされません。

世界のオペラ劇場のプロダクションを見回すと、寝転んで歌う、走り回る、飛び跳ねながら歌う、相手に寄りかかる、客席に背中を向けながら歌う。当たり前に行われています。

下手したら、壁に掛けられたハシゴみたいなのをよじ登りながら歌うとか、舞台上でシャワーを浴びながら歌うとか、ざらです。

この潮流を受け止め、理解し、いざとなったら実践できるような心構えと身体能力を持っていないと、現状のオペラ市場で歌手として活動することは難しいのでしょう。

そういった表面的なミザンス(舞台上での動きということね)だけではなく、芝居の種類としても、メソッド的な要素を要求されたり、リアリズム演劇や不条理演劇の手法を歌唱と両立させる必要が出てきていたりと、1910年ごろのオペラの作り方ではぜんぜん太刀打ちできないような状況になってきています。

いまこの記事読んでるオペラ歌手さんの中で、メソッド演劇って何?リアリズム?不条理?とか思っている人がいたとしたら。あなた、やばいですよ。「使えねえなー」って思われてる可能性、大です。

でも、そんな状態である原因は、あなただけにあるのではありません。

芸大の、オペラの授業の、カリキュラムが悪いのです。

グルックとヴェルディとクルト・ヴァイルの音楽的違いを説明することは、きっとできるでしょう。

でも、「オルフェオとエウリディーチェ」と「椿姫」と「三文オペラ」の演劇作品としての違いを説明できるオペラ歌手、どれぐらいいるでしょうか。

少なくて当然です。だって、学校ではそんなことほとんど教わってないのだもの。

1年の必修のオペラ史では概要として言及されましたが、それ以降の実技的な授業で、専門的に芝居としての種類の違いを教わった人なんて、ほとんどいないはず。いまはもうそんなことないのかもしれないですが。

オーセンティックで正統派なスタイルを教えられ、それを身につけることはとても大事です。すごーく大事です。その知識と技術は必ずや財産になります。

けれど、いまの市場=現場は、そういう「保守的な技術と知識」だけでは太刀打ちできないほどに複雑化・多様化しているのです。

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あと、芸大には「大きな声信仰」があると思います。

大きな声出る人が勝ち、みたいなやつ。

なにも、僕が大きな声でないから僻んでてそういうわけじゃないですよ。
まあ、たしかに僕は声が大きなタイプではありませんが。笑

大きな声を持っている人が、試験などで評価される傾向があります。

なぜならば、大きな声を持っている人は、大曲と言われる、ロマン派以降の名アリアを歌うことが得意だからです。そういう曲は舞台映えもしますし、難易度が高いということは審査する教授陣であればもちろん知っているからです。

それに、声の大小は、ちょっと聞いただけでもわかりやすい判断材料なのです。

音楽性なんかは、聞く側に膨大な知識と経験とセンスが必要となる評価基準ですが、声の大小はもう、誰でもわかります。だから、評価に結びつきやすい。

また、学内の試験は演奏時間が長くて9分です。少し体が大きく、楽器も大きい人であれば、パワープレイで押し切れるぐらいに短い時間なのです。

オペラ本編や長めの連作歌曲を演奏するときにそれをやってたら早々にエネルギー切れになるでしょうが、9分ぐらいだったらなんとかなります。

また、時間も短いので、その短い時間で印象に残る、ハデな演奏をした方が得です。

そのようなバイアスがかかった大学内での試験での結果が、学生たちの自尊心を外から満たすための装置になっています。

4年間のうちに「大きな声信仰」が身に沁みこむのも、わかる気がします。

ただ単に大きな声で歌うことを主眼としてしまうと、こぼれ落ちてしまう表現がたくさんあります。

たとえばオペラで、耳元で愛を囁くシーンがでてきたとしたら。あるいは、病気でいまにも死にそうな場面を演じるとしたら。これから人を殺す決意を大勢がいる城の大広間の片隅で周りに気付かれないように独白しなければならないとしたら。

芸大卒の歌手で、大きな声を有り難がる人って、やっぱり比率として多い気がします。

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もうひとつ。

大学の体制やステータスの弊害としての「使えない理由」を書いてきましたが、歌手自身にも「使えない原因」はあるはずです。当然ですが。

「共感力の低さ」が、そのひとつなのではないかなと思っています。

芸大は、すでに書きましたが、入学するのがなかなか大変です。

最近は下がってきましたが、ある時代までは声楽科でも8~10倍ほどの倍率がありました。

その狭き門をくぐり抜けてくるだけでも、相当のメンタリティを持っていると推測できます。

また、ただ歌が好きなだけという理由で入学する人もいますが、多くは「人前に立つのが好き」とか「目立つのが好き」とか、「将来は有名なオペラ歌手になりたい」みたいな思いを持っている人種です。

当然、自己主張は激しくなります。

また、各人が、それぞれの高校の目立つ存在だった、みたいな過去を持っていがちです。

こういった資質は、ステージに立つ演奏家としては必要不可欠なものです。

ただ、それが、オペラを作る現場において、障壁となるばあいがあります。

さいきん、さまざまな舞台を見ていて、舞台作品づくりは「チームワークがあってこそ」だな、と強く思います。

またこの思いは、よくできているテレビ番組を見ていても感じます。

「チームワーク」がうまく機能している人間関係は、信頼関係に基づいています。

チームワークと信頼関係については、キンコンの西野さんがいいブログを書いていらっしゃいました。

キンコン西野、ブチギレて収録中に帰る
http://lineblog.me/nishino/archives/9275458.html
イジリとイジメの境界線http://lineblog.me/nishino/archives/9275825.html

テレビ画面の中で好き勝手にワチャワチャやってるように見えるお笑いの世界の芸人さんたちも、信頼関係のもとで、チームワークを持って、ボケやツッコミのスペクタクルショーを、即興的に成立させているのだなーと、「お笑いすげえ」ってなりました。

でも、オペラもそうですよね。

舞台上には歌手もたくさん。オケピットには器楽奏者もたくさん。舞台袖にはスタッフさん。客席上には照明さんも。その大所帯を音楽面では指揮者がまとめ、技術面では舞台監督さんがまとめる。

そうやってお客様の前に提示させるまでのカンパニーを演出家が牽引し、パフォーマーたちはそれぞれが持った技術と感性と身体を総動員して、理想的な公演になるようにアウトプットをする。

この現場を健全に運営していくために、表現者に求められるのはふたつの資質です。

ひとつはパフォーマーとして自分の表現に対して持っている確固たる自信。

もうひとつは、他のパフォーマーと舞台を作り上げるための協調性。

それぞれが全身全霊のアウトプットを持ち寄り、信頼感に基づいたチームワークを発揮して、お客様の前に極上のオペラを提示する。

でも、オペラ歌手なんて、協調性ない人ばっかりですから。本当に。

役の解釈とか、作品としての着地点とか、下手したら演出家からつけられたミザンスひとつにも、試してみる前から「それできません」とかいう人、ざらにいますから。

これは、現場レベル、実際の対人関係レベルでの「共感力」の無さ、ですよね。

加えて、役の解釈とか作品としての着地点とかにも影響してくるんですけど「役者としての共感力の無さ」みたいなのも問題になってくるんだと思うんですよ。

つまり、自分が持ち合わせてない気質の役を演じなきゃいけないとき。

「なんでこんな行動するのかよくわからん」とか言ったまま、歌っちゃう人。

これ、本当にヤバイですよ。

オペラの場合、歌詞にメロディがついています。そのメロディは作曲家が必死に頭をひねって、その役とそのドラマとその場面が最大限に表現されるようにと書かれたものです。

だから、ただそのメロディをなぞるだけでも、なんとなく、聞けちゃうんですよね。たとえそのメロディを歌っている歌手が、本当に心底そのキャラクターのその感情に共感できていなくても。

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で、こういう「共感力」を持ち合わせてなくても仕事ができちゃう感じ。オペラ界あるあるだと思うんです。

もちろん、どちらの「共感力」も身につけて仕事をしてらっしゃる歌手の方は、たくさんいると思いますよ。全員がそうだ、ってことじゃないです。

でも冒頭の指摘。

「芸大卒(東京芸大)のオペラ歌手は、演技とかの引き出しがなさすぎて使いづらい」

っていうのの原因のひとつとして、「共感力の無さ」というのはあるはずです。

現場で仕事をしていくうちに「舞台づくりはチームワークなんだ」と気づいて、自分の立ち居振る舞いを見直す人はいるでしょう。

ただ「役に対しての共感力」を身につけられる場って、あまりないんじゃないかなと推測します。

役の感情を推測して理解して、そのように振る舞うことができる歌手は、たくさんいると思います。でもこれは、本来の意味での「役に対して共感している状態」ではないです。

歌手の身体がその役のその状態に"なって"、その身体から湧き上がる感情や言葉が、結果として歌になる。これがオペラ歌手が身につけるべき「役に対しての共感力」だと思うのです。

こんなことを書いてしまってもしかしたら僕は刺されるかもしれません。笑

それでも書かずにいられないほどに、表題の指摘は僕にとって衝撃的だったのです。

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オペラって、つまんないよなーと思います。

今の時代の映画やテレビやスマホゲームや、さまざまな音楽アーティストのライブや、ミュージカルや舞台に慣れ親しんでいるお客様にしてみたら、現行の日本国内のオペラは、たしかにつまんないだろうなと、いつも思います。

僕自身はオペラにとても興味を持っているので、どんな公演でもなにかしらの引っ掛かりを持ってみることができます。

とはいえそんな僕でも「絶望的につまんないぜ…」と思ってしまうようなプロダクションも、たしかにあります。

その原因は、オペラを作る人材たちが、現代にフィットするオペラ表現を掴みきっていないからじゃないでしょうか。

たしかに、守るべき伝統もあります。

現代演出の手法を、すべて手放しで褒めるわけではありません。

けれど、世界にあふれている現代演出は、少なくとも「チャレンジ」をしています。

寝ながら歌ったり、飛び跳ねながら歌ったりすることが、作曲家の意図を充分に反映させた演奏解釈なのか?と聞かれれば、すぐには答えられない部分もたしかにあります。

けれど、観客に支持されず、興行として成立せず、オペラ自体が演奏されなくなってしまったら、作曲家の意図もクソもないのです。

紙の上に閉じ込められただけの音楽に、果たして作曲家はしあわせを感じるのでしょうか。

いまの時代に求められているオペラ歌手の技術や資質を、まずは一旦理解する必要があります。

その先で、取捨選択することは自由です。

飛び跳ねて歌うことも、走り回りながら歌うこともできる歌手が、確固たる信念と意味をもって、微動だにせず歌うことを選択したメロディのひとフレーズは、それはそれは言葉にできない説得力と美しさを持つことでしょう。

そんな歌手に、私はなりたい。

長文、最後まで読んでいただいて、本当にありがとうございました。



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