自分の心を「そのままの大きさ」で受け止めることの大切さ。
っていうツイートをしました。
これってつまりは
自分の心の状態や感情の起伏を、
そのままの大きさで受け止めること
っていう話だと思います。
僕たちは世間の目を気にしたり、あるいは自己防衛の手段として、自分の心の変化をじっさいよりも大きく評価したり、小さく評価したりします。
本当は飛び上がるほど嬉しいのに、喜んでいる姿をまわりに見られると恥ずかしいから「それほど嬉しくないよ」ってそぶりを見せたり、
辛かったり悲しかったり怖かったりしたことを、「それほどでもなかったじゃん」って言い聞かせたり。
逆もありますよね。
たとえば、恋人から心が離れつつあるのに、その関係を維持することを優先して「いまは、さほど嬉しくないこと」なのに「昔と同じように喜ぼうとする」とか。
自分が悲しむ姿を見せたら相手の気を引けるだろうとか、相手を傷つけられるだろうとか思うから、「自分が感じているよりも過大に悲しむ」姿を見せつける、とか。
だけど、そうやって「自分の感情の本当よりも、自分で認める量を変化させる」ってことをやっていくと、どんどんしんどくなると思うのです。身体や心が。
「生きづらさ」を過小評価する、とかはわかりやすい例で。
たとえば僕は、大人数の飲み会とかは原則として苦手だし、大きい音がなっている場所や人ごみも苦手なのだけど。
でもそんな状況や場所って社会にはたくさん溢れているわけです。
小学校のとき、友だちに「ゲーセン行こうよ」って言われてもほとんど断っていたのは、ゲームセンターの音が苦手だったから。だからって「なんだよあいつ」みたいにハブられることがなかったから、当時の友だち達には感謝。
けれどそういうパターンって稀で、だいたい社会では「生きづらい」と感じる原因を取り除こうとする行動を起こすと、まわりからの批判やよくない評価が付いて回ったりする。
「大人数の飲み会が苦手」っていうのは、単なる好き嫌いじゃなくて
1、そもそも人とコミュニケーションを取るのに多大なエネルギーが必要
2、音に敏感だからガヤガヤした空間にいるとストレスがすごい
3、お酒にもお酒の匂いにも弱いから体調が悪化してしまう
4、夜寝る時間が規則的でないと次の日の体調が悪くなる
みたいな要因に依ってたりする場合だってあるわけだけど、あんまりこういうことって想像されないじゃないですか。
この4つの例のなかで、僕に当てはまるのは「2」だけなんだけど、これらの傾向を抱えて生きながら「生きづらさ」を感じている人ってたぶんたくさんいると思う。
でも、自分の心や身体の平穏を保つために飲み会を断ったりすると
「あいつは付き合いが悪い」
とか言われちゃったりして。
それがさらに「生きづらさ」を増長させちゃったりもして。
「より増長される生きづらさ」を想像して、「飲み会に行くと感じる生きづらさ」を我慢して飲み会に行くっていう選択をしている人も、たくさんいると思う。
でも、自分が感じている「生きづらさ」や「嬉しさ」「楽しさ」「悲しさ」「寂しさ」「苦しさ」「辛さ」「愛おしさ」といった感情や心の動きは、紛れもなく自分のものなのであって。
人からとやかく言われたりしたって、どこまでいっても自分のものなのであって。
というかむしろ、自分だけが唯一、その状態や大きさを正確に受け止めてあげられる存在なのであって。そう、唯一の存在。
だから、せめて自分だけは、自分の心の変化や感情の起伏を、そのままに認めてあげたいなあと僕は思っています。
もしも、そうやって生きていくどこかの地点で、僕自身の心の変化や感情の起伏を、僕と同じように、あるいは僕以上に敏感に感じ取って、それをそのまま受け止めてくれる人に出会えるのなら、それは幸せなことだし。
あるいは、その人以上に僕が、その人の心の変化や感情の起伏に敏感でいられるような誰かと出会えたのなら、それもとても幸せなことだと思う。
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