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「淋しさ」の向こう側。


誤解を恐れずに言えば、僕はめちゃんこ淋しがりやです。

普段はあまり群れる方ではないし、稽古場とかでもどちらかといえば隅っこでスマホいじったり本読んでたりするタイプ。

友人と意味もなくLINEでやりとりするとかもあんまりないし、内容の薄い雑談とかでコミュニケーションとるのはめちゃくちゃに苦手。

きっと周りからは「ひとりで居るのが好きな人なんだろうな」とか思われていると思う。

が、それでも自覚しています。


僕は、淋しがりやなのです。


その根源はどこにあるのかと自問してみると、たぶん「母子家庭だった」っていうところにキーがあって。全部そのせいにしたいわけじゃないけれど。

保育園で、友達は迎えがきて帰っていくのに、自分はまだ迎えがこなくて先生たちに「仮面の忍者 赤影」を見せられながら待っているときとか。

父の日になると「お父さんの似顔絵を描きましょうー!」みたいなイベントが必ずあって、その度に「わしゃ、誰の顔を書けばええんじゃ」みたいな気持ちになったりとか。

小学校に上がってからは母と祖母と僕の三人暮らしになって、学校から帰ったしばらくの時間や、土曜日や夏休みなんかは、ずっと口下手な祖母とふたりで過ごしていたりとか。


まあ、いろんなファクターがあって僕の「淋しがりや」が形成されているんだろうな。

そのほかにも、「本当にみんな僕のことを好いてくれてるのか?」とどっかで疑いながら遊んでいた小学生時代とか、「僕の考えを理解してくれる人はひとりもいないんじゃないか」って思ってた中学生時代とか。

いろんな要因を思い出しますよ。振り返ってみれば。

てか、こうやって書き出してみると、なんかすごく不幸な少年みたいですよね。笑

大丈夫、それなりに楽しく、幸せも感じながら成長してきたから。

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高校生の頃には今でも「親友」って呼べるような友達にも出会ったり、最近では芝居界隈で自分の恥ずかしいところや情けないところも含めて向き合える仲間ができたりして、現在は困ったら誰かしらが助けてくれるって実感はあるけど

それでも、自分の中の「淋しさ」が消えてなくなったかっていうとそんなことは全然なくって。

たぶんこの「淋しさ」は一生の腐れ縁みたいなもので、それこそ死ぬまで付き合う相棒なんだろうなって思う。


「そんなこと言いやがって。生きてたらみんな、何がしかの淋しさは抱えてるもんなんだよ。お前だけじゃねえ。甘えるな。」みたいな反論とかも、もしかしたらどっかから聞こえてくるのかもしれないけれど。

それに対しては、こう応えたいと思います。


そう!!!そうなんだよ!!!!
生きてたらみんな、何がしかの淋しさ、
抱えてるんだよ!!!


って。



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「淋しさ」っていうのはそれだけを取り上げてみると、とってもネガティブなもののように感じるかもしれないけれど、じつは仕事や遊びのモチベーションになったりもする。

僕は、自分の中にある「淋しさ」を自覚しているからこそ、人と関わりたいと思うし、芝居や音楽で誰かと繋がりたいと思うし、

同じような「淋しさ」を抱えている人がいたなら、なにか力になれないかなって思って、行動したりもするし。


僕が映画や本やギターが好きなのも、ひとりの時間を待ち潰すための工夫から出会ったものだったりもするし。

その、ひとりの時間に吸収した情報や自分の頭で考えたことが、次に誰かに会ったときの話題になったりしたら、それはそれで素敵なことだなあと思っている。


僕が山梨でいろいろ活動するのも、「文化果つる地」みたいなあの土地で音楽家や俳優を目指すことがどれだけ孤独で大変かを知っているから、

せめてこれから先の時代には山梨での文化活動も活性化して、僕より若い表現者が切磋琢磨したり同じ話題を共有したりできる仲間を見つけやすい環境になったらいいな、って思うがゆえ。


日本の演劇界のメインストリームからはこぼれ落ちてしまうような、不条理的な演劇や、ハッピーエンドじゃない作品も上演したほうがいいと思うのは、

「すべて大円団、お姫様と王子様は幸せに暮らしました、チャンチャン!」みたいな物語にはどうにも共感できなくって、イケメン美少女幸せファンタジーな世界観に違和感を感じている人にも、舞台というフィールドに居場所を見つけてほしいから。

簡単に言えば、「メインストリームに馴染めない人でも、心地よく居られる場所を作りたい」ってこと。舞台の世界で淋しさを感じる人が、ひとりでも減ればいいなって思うだけ。


だから、そう考えると「淋しさ」っていうのは、素晴らしいエネルギー源になるとも言える。



でもやっぱり、物事そう簡単にはうまくいかなくて、「淋しさ」の効用も諸刃の剣。

たとえば誰かと関わるときに、そのモチベーションの根幹に「淋しさ」があること自体は悪いことじゃないんだけど、「自分の淋しさを解消するため」に相手に働きかけようとすると、うまくいかないことがたくさん出てくる。


特に、「自分の淋しさを自覚していない人」「自分の淋しさの存在には気づいているが、目を背けて、無いことにしようとしてる人」がそういう状態に陥りがち。

口では「あなたのため」を連呼しているんだけど、客観的に見ると、どう考えても、「いや、あなたの都合よく相手をコントロールしたいだけだろそれ」としか見えないような状態、学校や社会でよく見ませんか?


そういう場合って、何度も大声で言いたいぐらいなんだけど、「淋しい」ってこと自体が悪いわけではない。

自分の持っている「淋しさ」に無自覚で、だからこそ相手のことを「自分の淋しさを埋めるために使っちゃう」ような心の動きをコントロールできない、ってことが問題。

で、この状況っていうのは、誰でも陥る可能性があります。

なぜなら、生きてたらみんな何がしかの淋しさを抱えている、から。


それをうまく回避するには、その正体から目を背けずに、良き相棒として、自分の中の「淋しさ」としっかり向き合って生きていくより方法はない。


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「淋しい」ことは、それ自体が恥ずかしいことではないです。

「淋しさ」はそれ自体がネガティブなエネルギーを放つわけではない。

「淋しい」という心の状態であるという、ただそれだけなのです。

でも、その「淋しさ」に対して過剰にネガティブなレッテルを貼ったりして、それを忌み嫌ったり、隠そうとしたり、逃れようとすると、

たちまち「淋しさ」の奴の、周囲の樹木を巻き込み組み伏せていくような竜巻的負のエネルギーが増幅していきます。


どんな状態でもそうなんだけど、正負関係なく、「私はいまこういう状態です」「私のなかにはこういう感情があります」と、あっけらかんと受け止められるようになったら、ずいぶん精神衛生はよくなるだろうなと思います。


「淋しいです」って認めるのに勇気が必要なように、

「私はいま、楽しいです」とか

「私は、これが好きです」とか

「私は、あの人を愛してます」とかも

自分で素直に認めるのって、なかなか難しかったりするから。


自分の心の正体に、まっすぐ向き合える。

そんな勇気と力が欲しいなあと、いつも思っています。




読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。