「当たり前」と「イレギュラー」を見つける


楽譜を読むってのは、じつはとっても複雑な作業です。

「だよねだよね!ドレミ読むのって、すげえ難しそうだもんね!」

って共感してくれる人も、けっこう多そう。

僕自身も、ドレミを読むのは苦手です。プロの音楽家やりはじめてしばらく経つのに、未だにドレミを読むスピードが上がりません。これはなにか、重大な能力の欠如なんじゃないのか、ぐらいの感じです。

でも僕は、楽譜を読むことが好きです。難しくって面倒くさいけれど、とっても好きなのです。

なぜ好きなのかというと、楽譜を読むことを通して、「自分じゃない人が思い描いた世界」を垣間見れる気がするからです。自分じゃない人生、自分とは違う感性を疑似体験できる。そんな気がするのです。


だからこそ、僕としては「楽譜を読むってのは、じつはとっても複雑な作業」と思ってるのです。ドレミを読むのが難しい、とか、そういうこともあるけれど、もうちょっと違うスケールで、複雑、だと思う。


僕が楽譜を読むときにはまず、その曲の中の「当たり前」を見つけようとします。

この「当たり前」っていうのは、さまざまな要素によって決められていて。たとえば。

・調性(ハ長調とか、変ロ短調とかいうやつ)
・拍子(4拍子とか、3拍子とか)
・リズム(舞曲系〜?とか、4つ打ちロック〜?みたいな)

だいたい、こんなことから読み取っています。

この「当たり前」っていうのは、「その楽曲を構成する基本ルール」みたいな言い換えができると思う。

たとえば、有名なラヴェルの「ボレロ」だったら、調性はハ長調、拍子は3拍子、リズムはボレロのリズム(たん、たたた、たん、たたた、たんたん/たん、たたた、たん、たたた、たたたたたた)の繰り返し、みたいな。

たとえば、映画で話題のQUEENの「We Will Rock You」なら、調性はホ短調(Em)、拍子は4拍子、で、リズムはどん・どん・タッ!どん・どん・タッ!ってかんじ。で、しかもほぼ楽器が入らない、という構成。

で、この「その楽曲を構成する基本ルール=当たり前」っていうのは、作曲者がゼッタイに意図して決めているわけです。

なぜ、「当たり前」を決めるかっていうと、それを決めることで、その楽曲で描きたい空気感や世界観、ノリやメッセージ感なんかを方向づけることができるから。


「どん・どん・タッ!」って聞こえてくるとなんとなく僕らは足を踏みならして手を叩きたくなるし、それによってどこからか「力強さ」みたいなものを感じたりもするじゃないですか。そして一緒に歌いたくなる。

それは、ブライアン・メイが「We Will Rock You」という曲に与えた「当たり前」によって演出されている空気感なわけです。


作曲者は必ず意図して、調性や、拍子や、基本となるリズムを選択しています。

もちろん、詞が先行とか、思い浮かんだメロディから作った、みたいな曲もたくさんあるでしょう。

けれど、昨今のヒット曲や、あるいは僕自身触れる機会の多いミュージカルの曲、オペラの曲というのは、100%と言っていいほどに「作曲者の意図による"当たり前"」が設定されています。

だから、その楽曲の基本ルールを理解することは、「作曲者がその曲で何を表現したかったのか」を理解することと、ほとんどイコールなのです。

なぜその調性なのか。なぜその拍子なのか。なぜその基本リズムなのか。

まずこれを把握することが、作曲者の意図を知ること、つまり「楽譜を読むことを通して自分じゃない人が思い描いた世界を垣間見ること」の入り口だと僕は思っています。

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でも、楽譜を読む作業は、ここで終わりではないわけです。

「当たり前」を把握したら、次に何をするか。

当たり前じゃないもの=イレギュラーなもの、を探します。

作曲者自身がせっかく作った「ルール」を逸脱している部分に注目するのです。


たとえば、ハ長調の曲のメロディに「ファ#」という音が出てきたりします。これは、「イレギュラー」なのです。

ハ長調という調性で作られる曲で、自然に使われる音は「ドレミファソラシド」です。全部ナチュラル。ピアノだったら白鍵で弾ける音。

でもそこにわざわざ「ファ#」という、「自然じゃない=不自然」な音を使ってくる。ここには作曲者の、強い意図があるわけです。


あるいは、4拍子で進んでいた曲が、途中で1小節だけ3拍子になることもあります。これも、それまで決められていたルール(=4拍子)が破られて、イレギュラー(=3拍子)が生じたということ。


このように、調性を外れた音を使ったり、調性を外れたハーモニーを使ったり、拍子を変えたり、リズムを変えたりすることによって、作曲者は楽曲の中に「イレギュラー」を作り出すことがあります。

特に、オペラやミュージカルの世界では、こういった「イレギュラー」は要注意です。

なぜならそこで事件が起こったり、歌っている登場人物の気持ちが変化したりするからです。

楽譜上のイレギュラーがある箇所は、劇中でドラマの起こる箇所に一致します。


じつは、イレギュラーを見つけることは、とっても難しいのです。

なぜなら、イレギュラーをイレギュラーだと見抜くためには、「当たり前」についての膨大な知識を持っていなければいけないから。

その楽曲としての「当たり前」を把握することはもちろんのこと、音楽理論上の「当たり前」も知っていないといけないし、音楽史みたいな文脈も理解していないといけない。

ミュージカルやオペラを考えるとしたら、その1曲だけみれば「当たり前」だらけだけど、全曲通してみると、その1曲だけがそのほかの曲とは違う異様な「イレギュラー」さをまとっていたりもします。

音ひとつ、和音ひとつの違いをキャッチするミクロな視点も、作品全体、音楽史全体を俯瞰するマクロな視点も、どちらも必要なわけです。


そこまでの意識を持たずに楽譜を読んでしまいと、メロディを覚えて歌えるようになるとか、歌の入りを間違えないようにするとか、歌詞を暗記できているとか、そういうことがクリアされた時点で譜読みが終わってしまいます。

あるいは、そこから一歩進んだとしても、「自分としてはこの歌詞をこう解釈して歌いたい」とか、「この音を歌うための発声がうまくいった」とか、そういう観点だけに視野が狭まってしまう。

だけれども、そもそも自分がその歌を歌う、演奏する、という行為の前には、「その曲をそう作った作曲家」という人物がいるわけで。

その人物が、その人自身の人生経験と感性を総動員し、知識と技術のすべてを詰め込んだのが「楽曲」なわけですから。

「音楽的にそこにはどんなことが書かれているのか」を理解しようとする意志と、それを的確に読み解ける知識と技術を持っていることは、再現芸術家にとって、かなり重要な素質だと思っています。

僕自身、まだまだ足りないところがあるから、もっと勉強しなきゃなと思っているところ・・・。


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たとえば、おとといぐらいにこんなことがありました。

かれこれ2ヶ月ぐらい読んでいる「グレートコメット」の楽譜に、新しい発見をしたのです。

楽譜が届いたその日に、ペンを持って「当たり前」を探すための楽曲分析を全曲して、それから先、ずっと「当たり前」と「イレギュラー」の存在を確認し続けていたのに。

にもかかわらずおととい、それまで全然気づかなかった「イレギュラー」を見つけたのです。

もうね、なんでいままで気づかなかったんだ自分!!!!っていう感じ。

一発で読み解けるぐらいの力をつけておきたかった〜、と悔しさがぬぐえない。


それは、この作品の核となるようなナンバー。「Pierre & Natasha」という曲です。

調性は「ニ長調」つまり「Dメジャー」。4分の4拍子。伴奏はピアノだけの、シンプルな曲。

この曲の軸となっているのが「D → Bm」というコード進行。これが繰り返されます。ちょっとだけ専門的にいうと、「Dメジャーの主和音と平行調の主和音の循環」ってことになるんですけど。

あまり起伏がなく、平坦であるからこそ素朴な印象を与えるような進行です。

展開するとしても、基本的には「G → F#7 → Bm → D → G」みたいな、「G」といったサブドミナント(Ⅳの和音)や、「F#7」つまり Bm に対するドミナント(Ⅲ7の和音)が使われる感じ。非常に、セオリー通りというか。ごく自然。

だから、この曲の「当たり前」は、「D → Bm」の平行調同士の循環進行にⅣの和音とかⅢ7の和音とかが使われる、違和感のない素朴な流れ、ってことなわけです。


ただそこに、こういう進行が挟まれてくるのです。

「G → F# → Bm → D7」

はい。これね、ここまでなら普通の進行なんですよ。で、普通だったら「G → F# → Bm → D7 → G 〜」って続いていく感じ。この展開なら、実に普通。「当たり前」の範囲内。

にもかかわらず、この曲では、「D7」の後のコードがこうなります。

「G → F# → Bm → D7 → D →Bm 〜」

D7のあとに!!!!!
Dに戻った!!!!!!?


これ、とってもすごいイレギュラーなのです。

で、この「D7 → D」の流れが使われている2箇所はどちらも、ナターシャがピエールの言葉を受けて話し出す直前。

わお。わおわおわお。

ここになんかあるで。絶対なんかあるでこの「D7」に。


実は、「D7 → D」という進行には、気付いていたのです。初めて譜読みしたときから。

でもそのときには、「この進行はこの曲で2箇所しか出てこず、どちらもナターシャが話し出す直前である」ってところまでは気付けてなかったのです。

これはもう、2ヶ月前の僕を恥ずかしく思います。

音の流れだけみていて、歌詞や劇の流れをそこに一致させてなかったってことですから。


そしてもう一箇所。

「A7」というコードが出てくる場所についても、大きな発見がありました。

ニ長調、つまりDメジャーという調性の曲において、「A7」というコードはとっても重要です。専門的にいうと、ドミナントセブンスってやつです。

DメジャーをDメジャーたらしめるためには、A7の和音がなくてはならない、ぐらい重要なコードです。

その重要な「A7」がでてくる箇所も、この曲の中では2箇所しかありません。

ナターシャが最後の言葉を紡ぎだす直前と、ピエールが最後の言葉を紡ぎだす直前です。

Dメジャーの曲だと頻出するはずの「A7」が、その2箇所だけに絞られて使われているのです。なんということだ。

これは例えるなら

ビーフカレーを頼んだのに、スプーンですくう度に出会う具材はジャガイモやニンジン。これはこれで美味しいけど〜、と思って食べ終わりそうになった最後の2口に、ゴロッと大きな牛肉の塊が入ってきた!!!

みたいな感動です。(比喩がチープ)

この「A7」のなにが重要かって、ナターシャの最後の言葉の前に出てくる形が「A7 / E」であるという点。

本来なら、最低音が「ラ」の音のはずなのに、あえて「ミ」の音がいちばん低いところにくるように、和音の形が加工されているんですね。ちょっと専門的にいうと、「第2転回形」っていう種類の和音の形です。

ピエールの最後の言葉の前もじつは、「A7 / E」の、第2転回形ではじめならされるのですが、そのあとに低い「ラ」の音が加わって「A7」の基本形になります。

その基本形のドミナントセブンスをきっかけに、「Attacca」という指示で次の曲に移ります。「途切れずに演奏してね」という指示です。


なぜ、こんなに重要なことに、これまで気づかなかったのでしょう。僕は。

そして、それを理解した上で再度「Pierre & Natasha」という曲のドラマを読み解いていくと、もうね、ホンマすごい。

音楽の流れとしても、言葉の流れとしても、ピエールとナターシャがたどるであろう気持ちの変化が、ちゃんと見てとれる。

動揺や、感動や、救済や、愛が、楽譜の上にもきちんと描かれている。

本当に素晴らしい作品です。

おそらく、僕がまだ見落としているところ、スコア上にあると思うので、ギリギリまでスコアに向き合って、本番中だってちゃんと向き合って、作曲者が描きたかった世界を理解できるように努めたいと思います。


こういう発見があるから、楽譜を読むことって楽しいんだよね!!!




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