ミュージカルというメディアが秘める力


このところ、あらためて「ミュージカル」というメディアの秘める力の強さと多面性に驚いています。

現在出演させていただいているシアタークリエ10周年記念公演「TENTH」の第1週目では、1部で「next to normal」という作品のダイジェスト版が上演されています。この作品は、物語の要素に「双極性障害」や「精神分裂症」といった問題をピックアップしています。また、家族の問題や、人の死や悲しみに向き合うこと、「普通」とはどういうことだろう、という問題にも光を当てています。

ふだん舞台を見付けない人にとってはミュージカルというと、エンターテイメント色が強く、歌って踊って、衣装や装置も華やかで、というイメージもあると思いますが、こういった社会的な課題や問題に問いを投げかけたり、ひとつの解を提示したりする作品もたくさんあります。

その先駆けは、レナード・バーンスタインが作曲した「ウェストサイド物語」だったと、僕は思っています。(この認識、間違いだったらご指摘ください・・・)

「ウェストサイド物語」はニューヨークのウェストサイドを舞台に、移民の問題を取り上げた社会派ミュージカルです。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を物語の下敷きにしているため、ラブロマンスや若者の生きるエネルギーなども描かれていますが、白人のコミュニティと、ヒスパニックの移民(や不法入国者)との対立が作品にとっての大きなテーマとなっています。

そういった社会問題を扱ったミュージカル作品は数多くあって、有名なところでは例えば「キンキーブーツ」(ジェンダー、田舎と都会)、「RENT」(エイズ、貧困、人種、ジェンダー)などが挙げられます。

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社会にとって切実な問題に対して、物語の力を借りてより色濃く問いを投げかけていくというのは、演劇が持っている大きな機能だと思います。ミュージカルも、演劇のひとつの形態であるため、そういった機能を持っています。

また、ミュージカルは演劇と違って、登場する役が「歌う」という表現形態を持つことができるため、音楽の力を物語の力に付与することができます。

前述の「ウェストサイド物語」では、ジャズの要素やロマンチックでクラシカルな音楽語法を用いることで、当時ニューヨークやアメリカにとって切実だった移民問題やそれに伴う治安悪化の問題について、ときに軽やかに、ときによりしっかりとした手触りを以って伝えることを可能にしています。(軽やかな"America"という曲が内包する移民問題、"Somewhere"という曲が穏やかな曲調のなかで提示する若者の行き場のなさなど、本当に素晴らしい劇効果をあげています)

「next to normal」という作品でも、「双極性障害」や「精神分裂症」という、現代社会にとって重大で、多くの人にとっても深刻な問題を扱いながらも、ときに軽やかな、ときにパワフルなロックという音楽の力を借りることで、舞台のテーマが過度に重くなりすぎないような、絶妙なバランスを保って物語が進んでいきます。

「next to normal」を観終わったお客様の胸のなかに残る、「精神疾患」や「家族」についての考え、感じること、というのは、それらについての討論番組や書籍を見たり読んだりしたあとのそれとは、まったく違うものであるはずです。その、「違い」こそが、ミュージカルというメディアが持つ特異性であり、独自性でもあります。

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また、同時に、ミュージカルというフォーマットを使って、絵本のようなコンテンツを作ることもできます。

「アニー」や「ピーターパン」や、ディズニー系のミュージカル、劇団四季のファミリーミュージカルなどは、ネタバレはむしろ歓迎されていて、それでも長く愛されるコンテンツです。大人がこぞって子どもを連れて行き、また、大人自身もそれらのファンだという場合も多いです。

これらの作品がすごいのは、子どもが楽しめるのと同時に、哲学的な問いや、社会的な問題についても織り込める余地がある、ということです。だからこそ、子どもの頃にみて楽しかった作品をもう一度大人になってからみるとまったく違う見方ができる、みたいなことが起こります。

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ミュージカルは、とても不自由なメディアです。

テレビのように自宅の居間で見ることはできないし、映画ほどチケットが安くないし、スマホニュースのようにスキマ時間ではチェックできないし、Youtubeのように好きな場面をタダで何度も見返すことはできませんし、ソーシャルゲームのように自分がプレイヤーとなって参加することもできません。

ミュージカルは、

・上演場所が劇場に限定され
・観客が物理的に足を運ぶ必要があり
・上演日や上演時間も限定され
・上演時間中は観劇以外のことができず
・チケット代は高く
・人気作品になるとチケットを取ることも難しく
・作品の品質は作家や演出家の能力に強く依存し
・また作品の品質は出演者の能力やコンディションにも強く依存し
・お金を払う時点ではその商品が自分を満足させてくれるかわからない

という、ほんっとうに(観客にとって)不自由なメディア、なのです。

けれど、それだけの不自由をお客様に強いているという認識があるからこそ、それだけの不自由を結果的にお客様に背負わせてしまうという仕組みを作り手側が理解しているからこそ、作品のテーマ設定から、最終的な舞台上でのパフォーマンスまで一貫して、すべての関係者が使命感のある仕事をすることができるのだと思います。


これからの時代、時間の価値というはこれまで以上に高まっていくはずです。時間が貨幣以上の経済的信用を持つ日も、もしかしたらくるかもしれません。

そんな時代に、「2時間ないし3時間」という時間コストを支払って劇場で観劇をしてくださるお客様に対して、どんな価値を提供できるのかということは、さらにシビアな問題になっていくことでしょう。

しかし、一方向的で、リニアで、一種の権威性がある「ミュージカル」というメディアが持っている多様性や自由度は、そんな時代になったとしてもより多くの価値を提供できるポテンシャルを持っています。

「レ・ミゼラブル」から「2.5次元」までの懐の広さを持っている日本のミュージカル界。今後にますます注目だと、僕は思っています。






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