一億総プレイヤー時代がやってくる

これからの時代、いままで以上に、芸術や表現分野での「プレイヤー」が増えていく、という話です。

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AI(人工知能)やロボットがどんどん活用されて、現在ある多くの職業が無くなると言われています。

「仕事が無くなる!!!どうしてくれるんだ!!!」と騒ぐ論調もときどき見えますが、僕としては人間がやる仕事として無くせるものは、無くしてしまった方がいいと思います。

だって、機械がやった方が効率のいい作業を、人間がやり続けるメリットは少ないですから。

このあいだ読み終えた、社会派ブロガーちきりんさんの新刊「自分の時間を取り戻そう」でも、"ちきりんさんの中の人"と噂される元マッキンゼーの採用担当だった伊賀泰代さんの新刊「生産性」でも同じような指摘がされています。

曰く、キカイがやった方が生産性が高くなる作業についてはどんどん人間の労働力とキカイとが置き換わっていって、世の中は高生産性社会に突入していく、とのこと。

この辺のこと気になるようでしたら、ぜひ上の2冊をお読みになることをオススメします。

(ちなみに、上の2冊の巻末に紹介されてる参考文献の内容が一致してました。なんてオシャレなカミングアウトの方法なんでしょうか)

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いままで人間がやっていた単純作業(仕分けや検品、組立などの工場での仕事)や、膨大なデータを参照する必要のある仕事(弁護の際の判例、患者の遺伝子や病気の種類に対応するもっとも効率のいい薬の特定)、長時間労働が生産性を上げる仕事(トラックやバスの運転)は、あきらかにキカイにまかせた方が生産性が高いので、じゃんじゃかキカイへの置き換えが進むことでしょう。

そのほかにも、キカイがやった方が生産性がいい仕事はたくさんあるはずで、それらももちろん置き換わっていきます。

そうすると、仕事にあぶれる人がたくさん出てきて「食い扶持がなくなったじゃないか!どうするんだ!」という話が出てくると思うんですけど、働く先が無くなった、というよりは、働かなくてもよくなった、と言うのが正しいはずなので、大方の人は働かなくても生活できるようになるはずです。

キカイが生み出した富を、国民に再配分する仕組みが当然になっていくと思います。ベーシックインカムってやつですね。

そうするとなにが起きるか。

働かなくても、毎月の支給でご飯が食べられる。もちろんその金銭だけでは過度な贅沢はできないでしょうから、より稼ぎたい人は働けばよいのです。あるいは、ベーシックインカムで生活はできても、働くこと自体が好きだから金銭関係なく働きたいという人もいるでしょう。

ただ、それ以外に、「働かなくていいなら働かない。家族と過ごす時間や自分のための時間をたっぷり持つ生き方をしたい」という人もかならず出てきます。

どちらにしろみんなが所有する「余暇時間」が増えるということです。

この「なにをしてもいい時間」になにをするかを選べる時代。これが、そう遠くはない未来ののライフスタイルになります。

勉強をする人もいるでしょう。旅に出る人もいるでしょう。VR(仮想現実)のゲームなんかに没頭する人もいるはずです。キカイ代替しても効率的ではないクリエイティブな仕事をしたり、企業したりする人も増えるでしょう。なにもせず、ぼーっとするというのも、選択肢としてはありです。もしかしたら古代ギリシア並みの偉大な哲学者も登場するかもしれません。

そしてなかには、芸術や舞台表現をやってみたい、と思う人も出てくるでしょう。

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いまでも、ネットの動画投稿サービスの普及や、音源や作品などのネット販売の簡易化によって、プロとアマチュアの境目がかなりあいまいになってきてます。

これから先は、いままで視聴者・観覧者として芸術や舞台表現にたずさわってくれていた人の多くが、自分の余暇時間を使って、プレイヤーとしての関わり方を得るでしょう。

それはなにも、プロとして作品を発表するとか、メジャーな舞台に立つということではなく、習い事や自己鍛錬、あるいは純粋な好奇心として、いままでただ見るだけだったものをやってみる、という流れが強くなっていくはずです。

このときに必要なのは、「やってみたい!」とプレイヤーとして芸術・舞台表現分野に流入してくる人たちに対して、それを受け入れ、それぞれの表現のやり方や心構えを教え、伝えることができる人材です。

単純なことばにすると、「レッスン教師の需要が増える」ということです。

ただ、レッスンをする側も、ベーシックインカムがあり生活には困りませんから、いままでのように「それっぽいことを教えておいて、自分の生活のために、与えてる価値=教えている実際の内容に見合わない金銭を受け取っている教師」というあまりよくない人物の存在理由が、なくなるということでもあります。

そのため、自らのたずさわる芸術や表現分野の良さや醍醐味を、より純粋に教え、伝えることのできる能力にフォーカスがあたるようになるはずです。

逆に言えば、その能力のない人材は、淘汰されていく可能性が高いです。

また、プレイヤーとしての参入者が増えるということは、トッププレイヤーとして評価されるための競争が激化するということでもあります。

本当は才能があるのに、金銭的な理由で芸術や舞台表現の世界で生きることを諦めた人たちが、いまの社会には五万といます。

そういう、現状では埋もれてしまっている才能も、プレイヤーとしてのトップを目指して活動できるようになるのです。相当の技術や魅力がなければ、「プロの仕事」として芸術や舞台に生きることができなくなるはずです。

しかしそのことが、ひいては芸術や舞台分野の質の向上に直結するでしょうし、ということは、社会に提供される作品はどんどん面白くなっていくということにもつながりますり

芸術、舞台表現の分野は、産業分野でのAIやロボットの台頭によって、百花繚乱の時代を迎えるはずです。

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ちなみに、芸術にしろ舞台にしろ、そのほかのことにしろ、まず「やってみる」っていうのはとってもいいことだと思います。

見てるだけではわからないことがわかり、その上でまた見る側に戻ってみると、それまでには気づかなかった楽しみ方ができるようになるからです。

そのパフォーマンスがどれだけ難しいのかや、パフォーマーがなにを考えているのか、そういったことが感じられるようになると、鑑賞行為も一歩進んだものになります。

それに、なにか一つの分野でコツを掴むまで自己研鑽してみると、ほかの未経験の分野のことでもその「コツ」が、ふっと見えるようになったりするものです。

あらゆる出来事から自分が受け取ることのできる情報が増え、生きることが楽しくなります。

これが、「やる」ことの効能です。

では、「やる」ことの効能を享受しながら芸術や舞台表現を見る人が増えたときに、その人たちに対して専門芸術家や専門表現者が伝えるべき「やる」ことの醍醐味とはなんなんでしょう。

もちろん教えることをせずに、表現だけをし続けるという選択肢もあり得ます。それはそれでまったく問題ない。

けれど、教える人材の需要が増えたときに、自分もその道に関わってみようと思うのであれば、自分が実際のパフォーマンスでなく教えることを通して伝えるべきものは一体なんなのだろうかと、いまから考え、準備しておくことが大切なのではないかなと、僕は感じています。

だって、そうやって伝えられたことが、芸術や舞台表現の消費者にとっての、価値判断の基準になっていくのだから。

専門芸術家や専門表現者にとっては、より真摯に、自分の表現に向き合わなければいけない時代がやってきます。


読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。