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髪を染めた僕は、チャラくなったのか問題。


2月に髪を染めました。2回ブリーチして、かなーり明るめの色にしました。

それまでの僕は基本的には自分で髪を染めることはありませんでした。ミュージカルの仕事のときに必要があれば染めるぐらい。それも、ブラウンとか、そのくらいの感じ。

でも2月に目指したのはブルーがかったシルバー。なかなか気に入りました。

その後、4月からの舞台の本番のためにもう一度染めました。このときはかなりブルーを意識した色にしました。日々青色は抜けていくから、時間が経つとちょっと黄色がかってみえたり緑がかってみえたりするんだけど。


「めちゃめちゃ似合うじゃん!」
「黒もいいけどこういうのもいいね!」

と言ってくれる人もたくさんいました。

ふだんから僕が仲良くしてる人たちは概ねこういう反応でした。あるいは、人によっては、明らかに髪色が変わっているにも関わらず、僕が「新しい髪色どう思う?」って聞くまではそれについて何も言ってこず、別の会話をするみたいなこともありました。


けれどもちろん、毎日いろんな人に会うわけで、すると、反応もこういうものだけじゃないわけで。

「なんかチャラい」
「黒の方がよかったのにー」
「いつ戻すの?」
「なんかあったの?」

そんなことを聞いてくる人たちもいました。

そういう人たちは概ね、プライベートではあんまり会わないような人たちでした。


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「ルッキズム」という言葉を知っているでしょうか?

Wikipediaの同項目によると

ルッキズム(英: Lookism)とは、身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことをさす。こういった差別は主に職場で観察されるが、その他の社会的環境でもみられる。https://ja.wikipedia.org/wiki/ルッキズム

とあります。

身体的特徴に過度に価値を置くことに懐疑的な立場から、「見た目に基づいた差別」を指摘する言葉としてルッキズムという用語が生まれました。

反射的に「差別」という表現に抵抗感を覚えた方、もしかしたらいるかもしれないと思います。

「髪の色を"チャラい"って言ったことが差別になるの?そんなこと大したことじゃなくない?」

と。

それに、「髪の色は別に、”身体的に魅力的でないと考えられ”ているわけじゃなくない?」なんて気持ちもあるかもしれません。


たしかに、僕が髪を染めたことに対して意見をいうことは、「ルッキズムそのものだ」というわけではないかもしれません。

けれどその根底にある、「人の外見について、自分の価値観を根拠に、批判的な立場をとり、それを直接言語化する」という振る舞いは間違いなく、ルッキズムに地続きな言動だと思います。


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ところで、髪を染めたことで僕は、いままでの人生で体験したことのないような経験をするようになりました。

人から

「山野くんってチャラいと思ってたけど、案外しっかりしてるんだね!」

と言われるようになったことです。


これまでの僕はずっと黒髪、ないし、ダークな髪色だったし、その上で、社会生活に不自由でないぐらいには敬語も使えるし、身なりもどちらかといえば落ち着いた服装だし、何かに対して意見を求められれば自分の言葉で自分の考えをきちんと伝えられるタイプの人間でした。

だから、初対面の人からも第一印象で「山野はしっかりしている」という感想を持たれることが多かったのです。というか、それがほとんどでした。

「山野くん、しっかりしてるよね。でもときどきぶっ飛んでるよね。じつは変だよね」

という流れで認知が進んでいくことが多かったのです。


けれど2月からこっちは、初対面の人から

「山野くん、最初はかなりチャラチャラした適当な奴だなと思ったけど、意外としっかりしてるよね。」

みたいな順序で認知されることが増えたのです。

2月以前と2月以降、変化したのは「髪の色」と「服装」だけです。

髪の色が変わって、それに合わせて着る服のテイストも少しだけ変化させているけれど、社会生活に不自由でないぐらいの敬語を使うことや、何かに対して意見を求められれば自分の言葉で自分の考えをきちんと伝える、という特性は変わっていません。

見た目が変わると、こうも人の印象って変わるんだなあ・・・。

そんなことを痛感しています。


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すこし違う角度から話をします。

僕は「見られること」がメインの仕事をしています。人の前に立って、パフォーマンスをして、お金をいただいています。

そのいただくお金のなかには、「パフォーマンスへの技術評価料」や「芸術性への対価」の他にも、「見た目に対する評価料」も、たしかに含まれているのでしょう。

自慢と取られると嫌なんだけど、たしかに僕は、日本人の平均よりも背が高く、器量が悪いと言われた経験もなく(むしろ褒められることが多かった)、体型も「スタイルが良くて、足が長くて」と言われます。

その外見を持っているからこそ得をしてきたこと、正直たーーーくさんあります。

たしかに、「俳優」「歌手」という職業上、それがプラスにはたらく機会もたくさんあるでしょう。

でも僕自身は「外見」を自分の売りにするつもりはありません。

世の中には「見た目の美しさ、かっこよさ」を売りにする俳優、タレント、アイドルがたくさんいます。そういう人たちは、「見た目」や「外見の印象」に対して最大限の注意をはらい、「良い見た目」のための努力を惜しみません。

そのブランディング、スタンスはとても素晴らしいものだと思いますし、そうやって日々プロフェッショナルを貫いているスタンスを尊敬します。

そして、僕自身も人前に立つ以上、ふさわしい見た目でなければいけないと思います。でも僕自身としては、「カッコいいこと」を僕にとっての主要な価値としない、と決めているのです。

僕はそれよりも、「あの人が歌うと心が動く」とか「あの人の芝居に引き込まれる」とか「いつも違うキャラクターをリアルに見せてくれる」とか「戯曲や楽曲に対する理解が深く、その理解に裏打ちされたパフォーマンスが魅力的である」といったことを、僕自身の価値にできないかと日夜試行錯誤しています。

「若さを根拠にした外見の美しさ」は加齢とともに失われていく一方ですが、「思考や人生経験の蓄積と成熟」は歳を重ねるごとにその魅力を増すからです。


もちろん、往々にして、「自分が思う自分の価値」と「人から見た自分の価値」は一致しないことが多いですから、僕のことをどんな観点でどう評価していただいてもまったく問題ないのです。

でも、「僕としてはこうである」という意思を持っていることは、大切だな、とも思っているのです。

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だいぶ話がずれたけど。

他人の外見について、反射的に何かをいうという習慣がもし自分の身にこびりついている人がいたら、その習慣、一旦疑ってみませんか?という提案をしたいです。

きっと誰しもが、「ルッキズム的指摘」によって傷ついた経験を持っていると思います。

ここ数日報道を賑わわせているあるお笑い芸人さんと俳優さんの結婚についての言及でも、ルッキズム的な言論がわんさかですからね。日本ではそれが「自然な空気」だと思わされてしまいがち。


「このコミュニケーションは、外見への言及を経由せずとも成立したはずだ」

って、いつも自分に疑問を持ち続けること、けっこう大事だと思うんです。










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