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「物語」を生きられない私たちの明日はどっちだ

私がADHDの診断を受けたときに、心理士の先生に話したエピソードの中の1つに「ハリー・ポッターの続きが気になりすぎて授業中も休み時間も帰り道歩きながらも夜寝る前明かりが消えたあとも、とにかく1日中ずーーーっとハリー・ポッターを読んでいてめちゃくちゃ怒られたし目も死ぬほど悪くなったけど全くやめられなかった」というのがある。
小学生の頃の私は、病的なほどに本の虫だった。物語の世界は刺激的で楽しくて、現実のことを忘れて没頭するのが常だった。勿論、しっかりオタクの大人になった。アイドルマスターで感情を揺さぶられることだけが人生みたいなことを毎日言っています。大丈夫か?

私の過集中が病的(というか病気っちゃ病気)ということをさておいても、「物語」には抗えない強い魅力がある。私達は物語を欲していて、エモい話を求めている。ドラ泣き、Nizi Project、朝ドラ、バーチャル蠱毒……人の心の変化を観察し、消費することは、とても刺激的な娯楽なんだね。

それがフィクションの世界で摂取できる、という意味ですべての「作品」と呼ばれるものは尊い。誰かのアウトプットから、勝手に作品に込められたキャラクターの感情、または作者の感情なんかを透かし見て、咀嚼し、嚥下し、臓腑に収める。それは孤独な作業かもしれないけど、その行為の底には人と繋がるよろこびもある。作品というモノを介して繋がることは、侘び寂びであるなと思う。他者をあくまでも本質や実像としてではなく作品から伸びる影として盗み見るような関係性が、踏み込まなくて丁寧で、私はそういうのが好きなんだなと思う。

しかし、情報社会。
情報共有によって作品のクオリティは均一に上昇したが、その分差異がなくなってきた結果、人は「作品」ではなく作り手である「人間」に、ドラマを、エモを、つまり物語を求めるようになってきています。この辺は私がけんすうさんの以下のnote記事を読んで「た、たしかに!」と思ったことを改めて言語化しているだけなので詳しくはそっちを読んでね。

https://note.com/kensuu/n/nf4270e069c20

プロセスが売れる時代になってきているという話ですが、実際めちゃくちゃ実感としてある。し、私はこれがすごく怖いなと思う。

もちろん、悪いことではないと思う。ただ、なんというか、プロセスを売るという形が一見して「誰にでもチャンスがある」みたいな印象を与えているのに反して、むしろこれはめちゃくちゃシビアで「ひと握りの人間にしか牌が渡らない」構造だなと私は感じていて、私のような社会不適合人間からするとそれはすごく恐ろしいことであるなという実感がある。怖い。

だから、以下は社会に適応できずに死んでいく予定の人間の「びえーーっ!人生詰みたくないよーーっ!」という悲鳴でしかないです。かわいそうだね………。

プロセスを売るというのは自分そのものを「物語」として生き、それを売るということだと思うし、それって怖くない?という話なんですけども。

人は物語を生きていないというのは誰が言ったのだったか、どこかで読んだのですが。
私達は産まれたので一応人生をやってはいるけど、これは必然とか運命とかそういう美しい何かではなく、偶然で運ゲーで無意味なものである、と私は考えている。
正しいとされることをしても別に報われるとは限らないし、悪いとされることをしたって天罰は必ずしもあるわけじゃない。
ただ在って、死ぬまでは生きているというだけだ。
でもそれは絶望でもないし、事実としてあることでしかないからこそ、私達は好きなように「希望」「幸福」とかいう妄想を楽しく(そして心から)信じることだってできるんじゃないのかしらね、と思っている。

私はこの思想が非常に強いため、「物語」を生きようとすると人は歪んでしまうのではないかしらと思ってしまう。

物語は「他者によって見出される」ものでしかないはずである。
(物語というのは読み手に主導権がある、というのはテクスト論の考え方で、私はこの考え方を全面的に支持しているわけではないけど、その側面がかなり大きいのは絶対にそうじゃんと思っています。)

だから、それを演出したくなった時、人は「他者が求めていて、見出したいと思っているであろう物語の主人公として振る舞う」という行為を選択することになる。

でも、他者(大衆)が求めていて見出したいと思っている物語、それが「私」という主人公にとって本当にハッピーエンドの物語なのか?
そうだという人もいるだろう。そういう人はプロセス販売に向いているし、今後成功しちゃうのだと思う。すごいぜ。あなたが優勝です。おめでとう!!!

でも、本当に?とも思う。

人の望みは移り変わる。誰かがあなたに見出したいと思っている物語はどんどん膨れ上がって、あなたに侵食する。次はこうして。こうなってほしい。がんばって!これはしないで!!
それを苦しい、やめてほしいと押しのけたら、きっと大衆は怒り出すのだ。
「わたしたちはあなたを応援しているだけなのに!!」
作者であり主人公であるあなたの手を離れた物語の結末は、本当にハッピーエンドに辿り着けるだろうか?本当に!?
できる人もいるかもしんないけど、こんなの「誰でもできる」なんて、あまりにも強者の理屈じゃない!?!??

自分で作者と主人公をやりながら、人に物語としての旨味をサービスして見せ、誰よりも強く楽しい物語を生きてみせるということは、マジで文字通り「死ぬほど」難しいことなんじゃないかなと思う。精神力も頭脳もコンテンツ力も強くないとやっていけんことよ!?

プロセス販売が強い社会というのは、要するにそれをできる人間だけが生き残る社会で、そこで自分は生き残れるだろうか?という話なんですけど無理くない?!

プロセスが主軸にはならんだろうとも言われてはいるけど、結局それはプロセスに勝つにはこの高クオリティ商品の跋扈する社会の中でとにかくレベルを上げて物理でクオリティで殴るしかないってことだろうし、それもできない人間、どうやって生きたらいいんですかね 絶望では……たすけて………。

人生がショービジネスになっていくの、本当に私にとって地獄なので、どうにかこの流れ止まらんかなという気持ちでいっぱいです。より沢山の人に愛された人間が勝つゲームとか陰キャのみんなたちは1番嫌いだったはずなのに、いつしか皆かわいいVtuberにスパチャを投げて「○○ちゃんしか勝たん!」と鳴いているじゃんね!!???!おい!!!!!遠回しな自傷行為をやめろ!!!!!!

………と、怖さでパニックを起こすなどしましたが、まあ消費者の分母も多いしニッチ戦略を取りつつ、程々に物語をやればギリ生き残れるようにはなっていくんだろうなとは思っています。ただやっぱり、この構造によってふるい落とされて死んでいくのは「コミュニケーション」にパラメータ値を割り振れなかった人間や、世の中の空気に迎合できないマイノリティになっていくと思うし、それって公共福祉のおしまいの世界みたいだな〜って思いました。

「愛されれば生きていける」というのは「愛されるように振る舞えないと死ぬ」呪いなので、それ以外の道の選択がもっと今後世の中で広がってほしいですねの気持ちです。

社会、良くなってくれ〜〜!

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