「キャラを人質に取られる」はなぜ生まれるのかなの話

「推しは好きなのにストーリーが最悪 ふざけるな」
「推しの設定が改悪された」
「運営と解釈違いおきててつらい やめたい でも推しはすき」

愚痴垢とかで呟かれるタイプのこうしたオタクの嘆き、私はいつも興味深く眺めている。というのも、私自身はこうした感情を今まであんまり持ったことがないからである。

もちろんそれは、たまたま運営と相性が良かっただとか、私が基本ちょろくて浅いオタクだというのもあるので、明日は我が身かもしれないなあとも思っている。

ただ、こうした悲しみを感じる人と感じない人とを分かつ大きい原因のひとつに「キャラクター」をどのように愛するか、というところのコンテンツ消費の姿勢の違いってのはあるかもしんないな〜 というようなことを個人的に考えた。以下の通りである。

あなたは、キャラクターを好きになるとき、そのキャラクターのどのような部分を好きになるだろうか。容姿?属性?性格?生い立ち?それとも魂の形や信念?はたまた中の人?あるいは作者? 理由はきっと複合的で複雑で、それぞれだろう。その時、このキャラクターにしかない部分として挙げられることがきっとあって、キャラクターのそんな部分を見つめる時のあなたの心は、たぶん愛と呼んで差し支えのない、嬉しくて幸せで欲望に満ちたきらめくようで苦しい刺激的で魅惑的な感情で満ちていて、そんな気持ちを感じるから、あなたはそのキャラクターを「推し」と呼ぶのだと思う。

しかし、勿論それはまやかしである。ご存知の通りに。

いや、あなたの気持ちは勿論ほんもので、それは絶対誇っていいし間違いのない幸いであることをあなたは自信を持って叫んでよいとは誓って思うけれども、あなたが今、心に思い描いている「推し」という存在って、それが二次元でも三次元でも関係なく、絶対に実在しないまやかし、あるいは幻覚だ。
この世界にただひとりの代わりのいないあなたという存在が「推し」と呼ぶ存在と出会ったという現象によって、あなたが自分の心の中で生み出した、美しい希望と喜びの形だ。それはキャラクターそのものではない。あなたがこの世界にある美しいと思った部分を切り取って生まれた、あなたの作品だ。イデアだ。

私たちが「自己」以外の何かと対峙したとき、私たちは自己を通してしかそれと対峙することができない。自分の人生経験とか価値観とか性癖とかそういうところで培ってきた自分のなかの定規を使うことで「認識」や「反応」をしている。

だから、あなたが生活をする中で「良いもの!大好き!」と反応したとき、それは作り手、あるいはその本人が「見せたかった形」「触れてほしかった存在」からは、少なからず乖離する。

私たちはテレパシーも使えなければ人生経験の全てを他者に実感して貰うことだって死ぬまで無理だ。コミュニケーションや消費の中で、そうした世界の一部分を「わかったつもり」になることはできるが、本当の意味でそのまんま理解して受け取ることはできない。皆ひとり一人ちがう個体だから、主観の共有は不可能だ。

だから、なにかを「好き!」と思ったときに生まれる感情は、その存在がもたらしたものではない。
その存在との接触によってあなたの脳みそが作り出した感情でしかない。

そういう部分において、あなたが「推し」という存在は、実在と呼ぶことができないのだ。

これは、人間が主観から逃れられない以上、推しにかかわらず全ての「存在」と相対するときに生まれる、尊ぶべき孤独さであり、その孤独を埋めようとして行う全ての行為が美しく楽しくて、だから人間って最高でいいないいな人間っていいな(日本昔ばなし)という感じなんですけど、それはともかく。

推しを見てもたらされた感情を、自分のものとしてではなく「キャラクターから誰もが抽出して感じ得る感情」であると定義してしまったときに『推しが人質』の感情が生まれるのでは、と私は思いました。

勿論人間はコミュニケーションの手段を発達させてきたし、この文章だって私がなんとか自分の思考を脳内で言語化して現代日本語で打ち込んでインターネットに放流したもので、この文字の羅列からなんとか私の脳の感じた何かをちょっぴりでもいいから誰かに理解してもらって孤独をごまかさせてほしいという気持ちで書いているし、それが部分的に叶うこともあるのだろうとは思う。それと同じように、コンテンツの作り手はどうすれば意図した形でキャラクターという商品の良さを伝えられるか、を作品に込めているだろうし、だからそうした部分にキャラクターの取扱や描き方についての責任みたいなことは、絶対あると思う。

ただ、作り手側の『こう伝わるだろう』の想像の範囲を超えた部分に、あなたが感じた「推しの推したる所以とその良さ」があったから、本来作品を1番知っているはずの作り手よりも、受け手であるあなたが「推しのこと全然わかってない」という感情を持つ原因があったのではないか。

だとしたら、そこであなたが言う「推し」は、もうあなた自身の一部と同化した「推し」の話になってしまっているので、作り手つまり運営にはどうしようもないところになっちゃうのじゃないか!?っていう。

要するに「作った側の想定なんかよりめっちゃ良いものとして推しを見出してしまった自分の審美眼を誇ろう」みたいな話ではあるのだけど…………

ただなーーーー自分が情報の受け手として五億円の価値を見出していたものが、作り手にとって実はせいぜい500円とかそこらの価値だった、なんて言われた時にムカつくのは当然である。
んなわけねーだろバカ!!!もっと高く売れるのに何その良さ潰して値下げしてんだ!!!!!!俺は五億で買うっつってんだろうが!!!!五億出せるものにもどせ!!!!みたいな。そりゃそう。

だから「推しを人質にとられる」というのはつまり「自分の価値観による値付けへの売り手の裏切り」で、そういう「推し人質」感覚の薄い人間というのは、そこまでキャラクターに愛を注いでいない(作り手との評価額が大差ない)か、あるいは、値付けの主体を自分にしか置いていないから、裏切りとか気にしない(俺がその時五億と思ったものは五億だからどうでもいい)人なのかもしれない。

私も推しが存在していて、毎日命を助けられているにも拘らず全然「推し人質」感情が薄めなのは、それこそ「その時自分が好きだと思った部分があったのは嬉しかったけど、なくなったならまあ…いいかあ…」と思っているようなとこがあるからなんだろうなとは思う。でもそれって普通に愛が足りないだけなんじゃないんですか!?!?!?!と言われてしまうとそうなのかもしれないな、とも思う。

私がいつか、何もかも手につかなくなるほどに愛してしまうキャラクターが現れて、そのキャラクターが私にとって改悪されてしまった時、私も運営を許せねえ気持ちになるのかもしれない。

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