田根剛を読む(11)

facebook上で偶然出会ってしまった建築家田根剛のインタビュー。あまりに衝撃だった。それを読んだ日の夜に、知人にその感動をおすそわけしてみたところ、同様に田根剛に注目していることが判明。建築物の背景にある考えについて、盛り上がる。彼のシンプルで力強い論旨とクリアに言語化された思想は、大量生産大量消費と個の時代の間に挟まれ苦悩する多くの人に祐希を与えるものだと思う。

そして、僕は案の上、その感動を伝えたいがために、自分にとって大切だと思った部分を引用していきたい。

歴史の圧力」というか、まず歴史が大前提として先にあり、「歴史が積層されていく」感じです。今我々が感じている、10年とか100年とかの時代ではなく、中世ぐらいから現代まで途絶えず、積層され、複雑に絡み合った時間です。
建築のモダニズムにおける「新しさ」に限界を感じたとき、1つの建築に様々な時間軸のものを持ち込まないと、豊かさが生まれないという意味では「物質が持っている時間」というのは重要です。素材というのは大きな時間を持ち込みます。
本当に「発掘現場」のように今立ち上がってきた思考がヴィジュアル化され、発見と共にまたどんどん動いていく。それらが総体となって目の前に現れ、自分たちが何をやろうとしているか、目的が見えてくる。「名もなきもの」があらわれて、形をなしていく過程です。
場所に自分のアイデアを持ち込んではめ込むというよりは、その土地に行き、その場所でしか生まれない建築にこそ、建築の本質があると思います。原理的なものを世界に広めるのではなく、その場所にたった1つしかない建築をつくること。時空を超えて、人がそこに見にいくのが建築の旅じゃないか。「固有性の建築」こそが建築なんだと思う。
掘って、建てる。それは論理を飛躍させることでもあるんです。論理構築だけでは面白くない。やっぱり驚きがあって、それが次の未来をつくるんじゃないか。それは建築家としてのチャレンジです。だから構築ではなく、発想を未来へと飛躍させたい。その自由が唯一と言ってよい創造的行為です。コストや工期はあっても、建築とはやはり、建物をつくる以上の価値をつくることです。思考の飛躍をどこまで未来に飛ばせるか。
僕はやはり「建築」とは「記憶装置」だと思う。モダニズムの存続が厳しいところは、建築の原理が1つだったり、建築家の名前だったりすることです。「記憶」というものを排除してきたがゆえに、かえって建築の厳しさに直面しています。
ユニバーサルではないけれど、やっぱり1つの世界の言語になりうるか。その言語を持って、そのローカルな土地を考えうるか、ですね。建築のユニバーサルな単語は使うんだけれど、その場所でしかつくりえない建築の力は残す。色々な「名もなき」地方の「名もなき」建物。ただのローカルな掘っ建て小屋のような民家もあれば、今でもグッとくる「記憶の積層」を持っている民家もある。その建物はユニバーサルたりうると思う。
ええ、自分の記憶でもなれければ、誰かが伝えてきた物語だけでもない。集合的に見るときに浮かび上がってくるもの。記憶の力が未来をつくる。それから「地層」みたいな考え方もある。人の記憶は捏造されたり、忘却がある。信用できない。歴史も信用できない。でも場所の記憶は嘘をつかない。物質の力、それを検証する科学の力。分析することによって見える真実みたいな。
モダニズムは可能性を開き自由を得ることで未来像をつくりました。しかし、古代からあったものをもう一度掘り出して、この時代に持ってきた時に、単なる美学的な新しさではない「深遠なるもの」がちゃんと出てくる。もっと遠い未来に繋げられるんじゃないかと。それこそ記憶を通して伝え続けられる「建築の記憶装置」を、語り継がれることによって「建物」は変化しても、「場所の精神」は語り継がれていくだろうと。
すべての物質や情報を失っても記憶だけが自分を突き動かしてくれる力じゃないか。記憶の力が人類の最も強い力じゃないか。日本でも、伊勢神宮のようにナラティブが伝承されていて、サイクルが継続されていく。祭りとかによってです。

以上。人生において何度も読み返すであろうインタビューだと思った。

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