なぜ、「時間とタイミング」なのか(25)

自分のやっていることは、かなりの部分で論理破綻している。整合性はないし、思いつきででまかせでやっているものばかりだ。だから、人に説明するときにたいてい失敗する。その原因は、相手の立場に立たずに、思いついたことをポンポンといって混乱させてしまうからだ。そして、理解してほしいと思っているから、理解してもらえてないと思うと、次々と情報を投げ込み、一貫性やストーリーがなく、さらに混乱を招いてしまう。

そんなことをつい先日、面談で体験したのだ。転職活動の面談等であれば、相手の求めている内容に装いを変えて、情報を取捨選択をして提示するようにデザインすることはそれほど難しくない。しかし、フラットな面談の場だと思いこんで、十分な準備をせず、話したいことを話してしまったため、上記のような大失敗をしでかしてしまったのだ。

面談の失敗は、一つの経験として、今後に活かせばいいのであるが、その面談で聞かれて一番困った質問があった。

「時間とタイミングを探究したいと書いてあるが、それは具体的にはどういうことなのか?」

である。それは、事前に提出していた論文に書いてあったことであり、面談を通過した暁にはやってみたいと書いていた内容でもあった。確かにそうは書いたが、具体的に何をやりたいのだろう、自分でも中身がなく困惑した。ただ、それは本心からやりたいと思って書いたこともであるが、その言葉を書いただけで満足していたことに、質問されたときに気がつき、頭が真っ白になった。その場しのぎでやっていることを説明したが、それは話している自分も納得がいかない内容だった。以前、友人に聞かれた際には、誰もやっていないから、ぐらいの理由でしかないと答え、情けのない想いをした。

冷静になって、この文章を書きながら考えているのだが、正直、戦線があらゆる方向に拡張しすぎて、無理にまとめても、まとまりきらないのが現状だ。ただ、一日前の自分が30分位考えて、メモしたのが

誰もがわかっているようで、わかっていない共通の謎で、好奇心がそそられるから!みんな考えたくなる媒介であり、探究でつながれる可能性があるから!

である。

1.時間が共感を呼び、つながる可能性があること
2.学びの素材として、探究のしがいがあること(飽きないこと)

の2つが今のところの本心である。これだけの説明では、公益性も可能性も今のところは感じられないが、私自身はここに大きな可能性と公益性を感じているのだ。ビジョンと現状の間にある創造的緊張を自分自身は感じ取れつつあるが、まだ人に伝える言葉にはなっていないということだ。探究を深めつつも、言葉にすることを実践していきたい。


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