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大きく輪郭線を描いたことのない人は、遠くにあるものの匂いを感じにくい。(by 安西洋之さん)

※ 下書きは早くからしてたんですが、忙しかったり、体調崩したりで、投稿が前後しました。ご了承ください。

この言葉、前に書いたnote記事をFacebookでシェアしたときに、〈意味のイノベーション〉などでよく知られ、幸いに今月(2019年7月)にミラノから日本へお越しの安西洋之さんと、コンセントのサービスデザイナー・赤羽太郎さんとのやり取りのなかで、安西さんからいただいた言葉です。細に入り微を穿つようなことで恐縮ですが、「大きく輪郭線を描く」というのは触覚と視覚で、「遠くにあるものの匂いを感じる」というのは嗅覚です。こういう感覚が立体的に立ち現れる表現が好きなので、めちゃくちゃ嬉しいコメントでした。

さて。

6月最後の週末は、日本デザイン学会第66回春季研究発表大会でした。昨年、大阪北部地震の直後にあった大会に非会員で参加して、いろいろ刺激をもらったこと、同僚(というか、先達)の先生がこの学会ではないけれども、ご専門の領域とは(隣接しているけれども、ディシプリンとしては)違う学会で報告なさったりされているのを近くで拝見して、「自分の関心と重なるし、まずはここから」と思い立って入会させてもらいました。

タイトルは「価値循環デザインと感性的眺望」。

今回、自由論題として報告させてもらったのは、上のようなタイトルでした。

ちなみに、予稿は↓にあります。参考文献リストとかがありませんので、また論文としてまとめ直したいと思います。

骨子だけ申し上げると、経営学のなかでもドイツ語圏の経営学に伝統的に受け継がれてきた〈価値の流れ〉というアイデアは、最近の〈デザイン経営〉あるいは〈経営のデザイン〉という考え方と整合的であるばかりでなく、むしろ何がしかの貢献が可能なのではないか、という内容です。

ことに、近年とみに注目を集めているサービスデザインは、多様なステイクホルダーとの関係性を視野に入れて、協働を通じた価値創造を構想&形成しようとしている点で、きわめて興味深いものがあります。

この点に関する理論的枠組の祖型を提示したのが、ニックリッシュです。彼の価値循環フレームワークは100年近く前に示されたものですが、今なお有効、という以上に「今だからこそ」有効であるといえます。そのあたりは、また別途。

資源としてのデザイン / 姿勢としてのデザイン

今回の報告を準備するなかで、ふと気づいたのはこの点でした。

↓のリンク先が『デザイン経営宣言』です。

ここに出てくる内容について云々できるほどの知見はありませんが、読んでて感じたのは「ここで議論されてるのは、資源としてのデザインやな」ということでした。

一方、サービスデザインなどで意識されているのは、どちらかといえば経営全体をデザインするということ、つまり姿勢としてのデザインです。

これはどちらが大事とかいう問題ではありません。ただ、混同はすべきでないでしょう。

今回の報告、私は後者に焦点を当てました。UXデザインやサービスデザインから議論を始めると、勢いそうなってしまいますし、今、企業に求められているのはこの点だとも考えるからです。

そうこうしてるうちに荏苒、日は過ぎて、さらにこんな記事に接しました。

ここで、マッキンゼーのレポートに対して、コンセントの長谷川敦士さんが、昨今の〈デザイン〉に関する議論や実践が志向すべき方向性として「経営モデルの見直し」という点にあることを指摘されているのは、まことに肯んじうるところです。

少なくとも、経営学の立場からデザインの議論に参画しようとするならば、〈資源としてのデザイン / 姿勢としてのデザイン〉を概念的に区別することが必要であると考えます。

〈価値循環〉あるいは〈価値の流れ〉のデザイン

これについては、今までのnoteでも書いてきた気がしますので省略しますが、ニックリッシュ学説をベースとするなら、経営学の対象は生活を営む主体(組織 / 共同体だけでなく、個人も含む)=Betriebそれ自体と、Betrieb間の関係性(やり取り)に措定されます。ニックリッシュはもともとオーストリア学派のメンガーに依拠しているので、個人の経済にかかわる行為動機を〈欲望充足〉に見定めています。ここから、企業は〈欲望充足〉を実現しようとする本源的なBetriebの欲望を充たすような製品やサービスを提供する「派生的なBetrieb」と位置づけられます。

さらに、現実を仔細に見れば、それぞれのBetriebは本源的な欲望充足への意思ならびにそのための行為とともに、他のBetriebが抱く欲望を充たすような製品やサービス、提案、資源提供など、「派生的なBetrieb」としての側面も同時に併せ持ちます。このような価値の関係の網(Das Netz der Wertbeziehungen)や、その網においてやり取りされる価値の運動(Bewegung der Werte)を計算的に把捉しようとしたのが、ニックリッシュの価値循環フレームワークなのです。

ニックリッシュは、もともと経営学の対象を企業に見ていたのですが、1921年以降、Betriebに見るようになります。これは、資本主義経済のもとにある企業の本質から目を背けたものとして、厳しく批判されてきました。その批判は、外在的には妥当します。しかし、ニックリッシュが社会経済やそこで活動する企業や家計などの活動主体をどう見ていたのかまで考えずに論難するのは、失当と言わざるを得ません。

しかも、最近のサービスデザインの実践などを見ていると、ニックリッシュが提示したフレームワークが今になって適合性を持ち始めたとさえみることができるのです。

このあたりを、こないだの報告で言及しましたが、どこまでみなさんにお伝えできたか、いささか心許ないところです。また機会を得て、報告や活字化ができればと考えています。

感性的眺望の重要性。

〈価値循環〉ないし〈価値の流れ〉のデザインというとき、その全体像が参画するBetriebによって共有される必要があります。

この全体像を一般に〈コンセプト〉や〈ヴィジョン〉と称します。ことに、〈コンセプト〉に関しては、私自身、以下のように捉えています。

ありたい状態 / ありたい姿が時間的・空間的にリアリティをもって想起されるように言語で表現されたもの

もちろん、絵画によって表現してもよいのですが、その場合も言語による表現がまったく不要とはならないように思います。

もしかしたら不要な場合もあるかもなので、そのときは定義を考え直します。

この〈コンセプト〉を描き出す基点になるのが、パースペクティヴ(眺望)であろうと思うのです。パースペクティヴとは、「ある主体が自らの立ち位置 / 視点を意識したうえで、そこから見わたして描き出した風景」と言えます。これに関して、わざわざ感性的(ästhetisch)という冠詞ではなく、むしろ企業者的(unternehmerisch)と冠してもいいかなとも思いつつ、今回はästhetischという側面に光を当てたいと考えて、この表現にしてみました。

今回の報告では、古典的事例として阪急の小林一三を、最近の事例としてマザーハウスの山口絵理子さんを採り上げました。マザーハウスに関しては、山口さんの感性的眺望を価値の流れのデザインに「翻訳」する役割を担う副社長の山崎大祐さんにも。

企業者が抱く感性的眺望を共有し、それを価値循環や価値の流れへと“翻訳”し、かたちにしていく役割は、〈総体としての企業者職能〉として位置づけられるべきものです。〈姿勢としてのデザイン〉は、ここに深くかかわるというのが、今回の報告の主張でした。

このあたりが、「新たな意味の提案」「意味のイノベーション」につながるのではないかと考えています。

経営現象への美学的アプローチの可能性。

今回の報告を準備する過程で、私のなかに浮かんできたのが、この点でした。美学的アプローチといっても、「何をもって美とするのか」という議論をするのではありません。

ここで採り上げたいのは、人間が持つ側面としての感性的認識が、いわゆるビジネスにおいてもすこぶる重要であることを再確認し、そのうえでリアルな側面としての〈価値循環〉や〈価値の流れ〉といかにして結びつくのかを問うてみる、という点です。

偶然、↓のシャヴィロ『モノたちの宇宙』の序章にフランスの詩人マラルメの「つまるところ万事は美学と経済学に尽きる」という言が引かれているのを見つけました。

ここにいう経済学は、19世紀当時なので、今よりも広い意味合いがあります。現在の経営学で議論されている内容も含まれます。

この2つの接点を見出すというのは、すごく興味深く、またチャレンジングなテーマだと思います。サービスデザインをめぐる研究を重ねながら、このあたりについても考えていきたいなと。

おわりに。

ということで、ひとまずここまでにしておきます。もうそろそろ新幹線は東京につきます。

今日は、この記事のタイトルのなるフレーズをくださった安西洋之さんのイベントです。楽しみです!






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